第2話 疑惑
しばらく彼の屋敷に詰めて看病をすることになった。彼がそう望んだのだ。
くだらない話ばかりした。小田原征伐の折に牛の肉を食った昔話とか。お互いの家庭の話とか。彼は
そうだなあ、とわたしは頷いた。
「四人ともお元気か?」
嫌な質問だな、とわたしは自分で反省した。
わたしと妻は六人の子供に恵まれた。だけれども、娘が一人、息子が二人神の御許に召された。子供はあっけなく死ぬものだと実感した。それで、禁教令の折、大きくなっていた長男と娘は手元に置き、末の男の子は夫婦で相談して、侍女をつけて九州のある大名のところへ預かってもらうことにした。そのことを彼は知っている。
だが、彼はからりと答えた。
「家中で病気なのは私だけだ」
わたしは吹き出してしまった。
「単に疲れが出ているだけなんだ。太閤が曲直瀬道三を送ってくる必要などないんだ。あいつに金でも握らせて、私を毒殺でもする気か?」
毒殺、とわたしは内心ひとりごちた。
彼が何故病んだのか、確たることは何もわからない。わたしが知っているのは、唐入りの直後から三年も体調を崩している、ということだけだ。
唐入りのとき、名護屋に布陣していた彼は、体調が悪いといいながらも、わたしと一緒に巡察師様を二度訪ねた。そのくらいの体力はあった。だというのに、どんどんと坂を転がり落ちるように、三年かけて、まったく動けなくなった。
考え込みながら廊下に立っていると、「なんだ、お前か」と爽やかな声が聞こえてきた。
「そういう話は、ある」
「……は?」
「確かなことはわからない。だが、私は太閤殿下ではないと見ている。密かに伊達や上杉がやつに不満を募らせていたら、と考えておく必要はあるだろう」
端正な容姿の彼は、他人の屋敷の侍女たちにわらわらと囲まれながらそういった。
中央より遣わされた北の守りであった彼だ。北国にずっと住んでいる人間からすると気にくわないことばかりだったに違いない。なにせ、北国で確実に力をつけている伊達の守りとして置かれたのだから、伊達としてはいい気がしなかっただろう。北国の微妙な均衡に傷をつけることになるのだから、上杉としても気が気でなかったに違いない。上杉は太閤殿下の忠臣のような顔をしているが、何よりその前に北国人である。
北国の情勢は、厳冬を生き抜く者の
我々が北国と考える領域のうち、南の常陸のあたりには
最上の南に上杉がおり、上杉と最上は庄内を巡って激しく対立していた。さらに上杉は、伊達と佐竹の会津をめぐる争いに、水面下で巻き込まれていたといって過言ではない。さらに伊達の北、盛岡や八戸には
北の守りとしていきなりその紛争地帯の要・会津に封された彼が一番初めにやったことは、伊達に臣従していた家臣たちによる一揆の鎮圧であった。さらに伊達はその一揆を共に鎮圧するふりをしながら、茶会の席で、彼に毒を盛ったことがあるらしい。だが、彼は伊達が一揆を扇動していたと太閤殿下に報告し、伊達は申し開きをする間も無く領土をいくつか没収され、補填として与えられた領土は「扇動していた」とされた一揆による荒廃著しいものであった。伊達の力は落ちた。
鮮やかな手腕に、北国は皆沈黙した。
恐ろしい怪物は屠るに限る、と伊達が、上杉が考えたとしてもおかしくない。
何とは無しに、先ほど何度か話題にのぼらせている、
友人は、「まあ、噂なんですけどね」と茶道の師のやり方をそのまま写したような茶の点て方をしながら、ある噂を口にした。
「あいつの『病』には、太閤殿下や治部殿が動いたという噂もありますよ」
その言いように、噂話が好きだなあ、とわたしは笑った。
「何笑ってるんですか、噂話は大事ですよ。些細な噂が真実を言い当てていることだって——」
「太閤殿下はまだしも、治部殿がどうして」
「あの男は各家々の隅々まで知っていますよ」
友人は少しだけ妻女のいる奥の方をみやった。それで、瞳を冷たくした。
「この間、治部から書状が来ましてね。私の金の使い道についてひどく諫めるものでした」
治部殿は行政的な平衡感覚に優れているお方なんだが、とわたしは疑問に思った。
「……何故? 真意は?」
「知ったことですか」
友人の声の冷ややかさに嘆息する。まただ。友人は心の中に茶釜を持っていて、ふとした瞬間にそれが煮えたぎり、爆発することがある。
わからないでもない。友人は確かに金遣いが荒いが、それは友人の問題であって、政権の問題ではない。友人の家中の勝手掛は気を悪くするだろう。不在が多い友人にかわって家中を差配することもある正室殿は、あまりの家中の把握のしように、まるで裳裾の中を見られたように恐れ、震え上がっただろう。
「ようやく穏やかに過ごせるようになったのに……」
友人はまた少しだけ妻女のいる奥の方をみやった。子供たちと女性の笑い声が聞こえる。
心の茶釜が爆発しているのは、自尊心を傷つけられただけでなく、正室殿の心の状態を案じているせいもあるのだろうと思った。
友人の正室殿は
「私の家中でさえもこのような調子なので、もし
太閤殿下の甥である関白殿下と、太閤殿下は今のところ良好な関係を演技しておられるが、太閤殿下に実子が生まれて以降、お二人の関係は険悪、それに彼が関与してしまったら——、と友人は言った。
「私なら、怪しい芽はすぐに摘んでしまいます。多少不審に思われても。私も、関白殿下のほうにお仕えしているからなのでしょうかね。金の使い道について治部にくどくどと説教されたのは」
「あんまり治部殿に心の茶釜を爆発させていると、お前に危害が及んで、正室殿はさらにご心痛だろう。お父君のみならず、ご夫君にまで苦労をかけられては」
友人は「そ、そ、それは、そうですけど! しかしッ!!」と口をぱくぱくとさせた。
ただ、最後には、二人とも口を揃えて、どこか悲しげな表情をし、「……いや、彼は病だろうな」と結論づけた。
長く身を蝕む毒はあるが、三年も身を蝕んで苦しむ毒はないだろう、と。
わたしは空を仰いだ。
透き通った黄昏の光が、道を照らしていた。
——彼が病で死ぬ。戦場で死ぬのでも、謀略の結果死ぬのでもなく。
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