我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え

はりか

第1話 旧友

 開いた木戸のすきまから、春のやわらかな陽光が差し込んでくる。その陽光は、衣紋掛けにかけられた漆黒の陣羽織を照らす。だが、陣羽織の銀糸の緻密な刺繍はわたしの心を動かしもしなかった。


 さらにその部屋の奥、御簾が幾重にも下ろされ、几帳で隠された、陽光の届かない場所にいる彼のところへと向かう。最初、いともうるわしい小姓に胡乱げな目でみられたが、御簾の奥から「よい」という旧友の懐かしく愛おしい声がすると、小姓は深く一礼した。


「——旧友だ」


 小姓はわたしをまた、意外そうな目で見た。御簾の奥をも。

 少年の無礼を笑顔で許すと、少年は御簾を巻き上げた。わたしは勧められるままに入っていく。


 ともに巡察師に会うために長崎を巡った頃とは打って変わった彼の病みやつれた姿を見て、誰何を口にしかけてしまった。あれから何年も経っていないのに。

 以前の英明さを謳われた自信に満ちた姿の彼と大違いだ。非常に謙虚で誠実に見えて、世界は全て自分のものだと思い込んでやまない傲慢さを隠し持つ姿とはまるで真逆。

 友人細川忠興に聞いた話だが、彼は太閤殿下がもし亡くなられた後、天下を取るのは誰かと問われた際に、「加賀前田利家殿。ではなければ私だ」と言い放ったという。友人は失笑していたし、わたしなどはその話を聞いて眩暈めまいを覚えた。——だが、彼は勝算なくそういう大望を口にするような人物ではなかった。それはわたしが知っている。


 だというのに。

 衰えた手が、こちらへ伸びてくる。


「久しいな」


 その病人のかすれ声はまるで竹林の葉擦れの音のようなかすかなものだった。彼は小さく柔らかい笑みを唇に載せていた。


「……、……」


 自分の複数ある呼び名の、最も呼ばれることのない名を呼ばれ、わたしは耳を疑った。


「憶えていてくれたのか」


 深い山奥のなかで美しく咲く山野草を見たときのような、透き通るような嬉しさを感じながら、わたしは彼の枕元に座った。

 何もかも失くしてしまったわたしと、何もかも持っている彼は真反対だが、茶道と信仰という点だけは共通していた。

 茶道の師を同じくする彼を神父様の御許へかなり強引に誘ったのはわたしだけれども、わたしがそんなに信仰にのめりこむのをやめたほうがいいのでは、というほど、彼は神を愛した。


 彼とわたしは異なる道を歩んだ。

 生き方が不器用だ、と友人に冷笑されたこともあるが、わたしは禁教令のもとでどうしても信仰を捨てられなかった。なぜだろう。わたしに神が染みついて離れなかったから、それとも過去も未来も顧みず、自分の人生しか生きていないから——、いろいろ理由はあるが、とうとう領地まで奪われてしまった。各地を転々とし、いまは加賀に縁あって寓居させていただいている。


 一方の彼は、禁教に際して、信仰が一挙に冷めた。それは一緒に大切にしていた茶器を突然忘れたかのような情の薄さで、わたしは心が軋んだ。いや、冷めたふりをしていたのかもしれない。現に数年前、長崎で会った時、一緒に巡察師に会いに行こうと持ちかけたのは彼であるから。


 彼は処世に長けていたし、その末に叶えたい野望もあったように見える。近江や伊勢の大名で、亡き総見院織田信長様の下で有力な中枢として働き、その次女まで娶った彼は、太閤殿下の世にあっても自分の器量を誰よりも評価していた。表向きは優雅に粛々と過ごしながら。

 だから北の守りを任された時、彼は内心でひどく激昂した、らしい。なぜこのような僻地に、と。中央にあって猿山の猿大将の寝首を掻く機を窺えるならまだしも、吝嗇家の駿府ごときや小物の伊達ごときに対する守りをどうしてせねばならぬのか、と。

 だが、彼は鶴の名を持つ白亜の城に座し、北の守りをやりおおせた。その姿はかつてわたしたちが無邪気に神に御祈りを捧げていた姿とは異なり、山背や吹雪が吹きすさんでも揺るがない、冷氷の守護神のごとくであった。


 わたしは自分の人生を後悔したことはない。これしか選択肢がなかった。領地を失っても、皆から嘲られても、寝食に事欠いても、知人友人の脛をかじるような恥さらしの人生を送っても。それを信仰のせいだという人間もいるだろう。だが信仰がなくともそうなっただろう。わたしの居城は京と大坂、堺を結ぶところに位置し、太閤殿下はここを直轄領にしたかったのだ。だから、わたしは何は無くともそうなる運命だったし、神という、わたしを背負って歩いてくださる方がいたから、わたしであることを失っていない。

 だが、彼の歩みは、わたしには大天使が放つ黄金の光のように眩しかった。

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