第2話

 高校を卒業しても就職先が見つからなくて、仕方なくアルバイトで食いつないでいこうとしたがバイトもしょっちゅうクビになった。あたしは一生懸命やってるつもりなのに、仕事先の人はあたしを怠け者だと罵った。あたしがいるとみんな機嫌が悪くなって、ヒソヒソと何か言いながら遠くに逃げてしまって、最後は店長が眉をひそめて「明日から来なくていい」と言う。それを三回繰り返した。パパとの二人暮らしに経済的な問題はなかったけど、“働けない”という事実はあたしをずいぶんと落ち込ませた。仕事ができない人間がどうやって生き抜いていけばいいのかなんて、あたしには見当もつかない。頑張っても頑張ってもまるで空を掴むかのように、手元には何も残らず、日々は実らない。あたしは人の役に立てない。自分の役にも立てない。なんのために生まれてきたんだろうと、毎日考えるようになった。それでも最後の気力を振り絞って、まだ何かできるはず、諦めずに頑張ろうと、ネットに溢れる求人情報をあさっていたのは四か月前。そうして始めたファミレスのウェイターの仕事も今日、クビになった。

 店の外に出ると空から白い粒がチラチラと降っていて、そういえば朝のニュースで「東京は初雪になるでしょう」と言っていたことを思い出した。直前まで雨が降っていたのか、道路はぐちゃぐちゃと汚く濡れている。傘を忘れた。忘れたことも忘れていた。仕方なく、無防備な頭をさらけ出して歩き始める。白い粒が茶色のダッフルコートにハラハラと舞い降りてくる様子はさすがに物珍しくて、自分の肩先ばかり見ていたら案の定、気づいた時には天地がひっくり返って、お尻にドシンと衝撃が走った。雪道で転ぶという典型的なドジを踏んだことがあたしを更に情けなくさせ、視界はみるみるうちにぼんやりと滲んでいく。吐き出したため息は白く空中に残り、あたしはふと、これは中子ちゃんが見ている景色だ、と気づいた。雪模様の世界、内側の世界。ゆっくりと頬を伝う涙を拭い、あたしはまた歩き出す。

 家に帰り、毎日同じ笑顔で迎えてくれる中子ちゃんに今日も、「ただいま」と声をかける。中子ちゃんは返事をしない。コートを着たまま机に頬杖をついて、あたしは構わず話しかける。

「今日ね、バイト、クビになっちゃったんだ」中子ちゃんは返事をしない。

「ねえ中子ちゃん、そこ、寒くない?」

中子ちゃんは返事をしない――。

「寒いよ」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

 ギョッとして瞬きを繰り返しているうちに、視線がだんだんと交差してきて、中子ちゃんのつぶらな瞳がしっかりとあたしを捉えていることを知った。いつもは感じ良さ気に上がった口角が今では真一文字に結ばれ、石ころでできた目は冷たく輝いている。中子ちゃんはもう、笑ってはいない。寒いよ、と彼女はもう一度、吐き捨てるように言った。くぐもった声は低く落ち着いていた。

「でも、あんたの周りの世界の方がよっぽど寒そう」

「……どういうこと?」

 夢を見ているかのような感覚が抜けないまま、あたしは尋ねた。

「そのまんまの意味。人間が冷たいと、世界もどんどん冷え込んでくる。たとえ真夏のクソ暑い日でも、外側の世界はこのスノードームの中よりもずっと寒いんだよ、本当は。だからもう、憧れるのはやめなさい」

 中子ちゃんは淡々と言い放った。わかるようなわからないような感じがして、あたしはただあんぐりと口を開けているばかりだったが、彼女は更に続けた。

「あんたにとって一番大切なのは、あんたの世界を常に温かく保つこと。あんた自身が心の底から温まっていれば、内側にいることはとても幸せなことなんだよ。よく食べて、よく寝て。自分にうんと優しくすることを忘れないで。そして心から笑える時間を少しでも増やしなさい。周りなんて気にしなくていい。あんたはあんたの世界を、温かくて美しいものにすることだけに全力を注ぎなさい」

 中子ちゃんの言葉は難しかったが、あたしは徐々にそれが自分の身に染み渡っていくのを感じていた。言葉は外側ではなく内側に、あたしの世界に直接届けられた。嚙みしめるように頭の中で何度も繰り返しているうちに、いつの間にか中子ちゃんは元の中子ちゃんに戻っていて、ニッコリと笑った顔はいつもと比べて少しの狂いもない。中子ちゃん、とあたしはもう一度呼びかけたが、返事はなかった。あたしはスノードームをひっくり返して、静かにまた机の上に置いた。雪が舞って、中子ちゃんの小さな世界を瞬く間に支配する。白い、白いその景色の中で、中子ちゃんのオレンジ色の帽子だけが、やけに鮮やかに浮かび上がってあたしの心から離れなかった。

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