7.楽園への誘い
混乱した頭がようやく少しずつ動き出す。目の前の事実を受け入れ、それに対する答えを弾き出し始める。
この距離ではもう見間違えたりはしない。目の前にいるのは深谷美月だ。15年前の、子供の姿のままの深谷美月だ。訳が分からない。いったいどうして。何がどうなっているんだ。
彰人は声を震わせておずおずと目の前の子供に問い掛ける。
「本当に深谷美月なのか? 本人なのか?」
彰人の様子とは対照的に、美月らしき子供はあっけらかんとした明るい口調でこれに答えてきた。
「そうだよ。私は深谷美月だよ。それとも、それ以外の別の誰かに見える?」
「や、そんな事はないが……、しかし……」
彰人は頭を抱えた。深谷美月にしか見えないからこそ問題なのだ。
美月らしき子供は掃除用具入れの中から抜け出そうとしているのか、箱の中でもがき始めた。立ち並んだ箒やモップの絵を描き分け、足元に置かれたバケツの中から足を引っこ抜いては次の足場を探して身をくねらせ、時折、肘や膝が箱の壁に当たったのかガコンッという鈍い音が周囲に響く。
少しして「よっと」という掛け声と共に美月らしき子供は箱の中から飛び出てきた。
そして彰人の目の前に立った。
彰人は改めて目の前に立った美月らしき子供を見た。足先から頭の天辺へとかけて、まじまじと、注意深く吟味するように。
身長は低く自分の胸元ほどしかない。体はやはり小柄で、腕や足は肉付きは薄く今にも折れてしまいそうなほどに細い。やはりどこからどう見ても子供だった。決して自分と同じ20代半ばの大人などではない。その姿はまさしく、自分の記憶に残っている15年前のあの夜の深谷美月そのものだった。
そんな美月もまた、彰人を足先から頭の天辺へとかけてまじまじと眺め返してきた。そして言う。
「そういう彰人くんは大きくなったね。大人になった。老けた。何だか年に一回だけ家にくる親戚のおじさんみたい」
美月は口元を手で押さえてクスクスと笑った。
彰人は眉間にしわを寄せて困惑の顔色をいっそう色濃くした。
「俺は夢か幻でも見ているのか? 美月がこんな所にいるなんて、そんな事、ある筈がないのに……」
美月はやはり笑みを浮かべたまま返してくる。まるでこっちが困惑している様子を楽しんでいるかのように楽しげな様子で。
「私は夢や幻なんかじゃないよ。ちゃんとここにいるよ。その証拠に、ほらっ」
美月はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。美月の動きに合わせて上履きのゴム底が床を打つタッタッタッという音が周囲に響き、髪は上下に弾んで揺れ動き、スカートの裾はふわりと浮かんではしぼむを繰り返す。それら伝わってくる音や振動や空気の流れはどれもリアルで、どれも鮮明で、とても夢や幻には思えなかった。事実としか感じられなかった。
どうやら実体があることだけは間違いなさそうだった。
しかし、ただそれだけだ。深谷美月である理由にはなっていない。頭に広がった困惑はいっこうに晴れはない。むしろ夢や幻や幽霊だったならまだ説明がつけられたというものだ。困惑と疑問は増すばかりだった。
だから、さらに聞いた。
「本人だっていうのなら、本当に深谷美月だっていうのなら、どうしてこんな時間に、こんな場所にいるんだ。今まで、いったいどこで何をしていたっていうんだ。そもそも、どうして子供の姿のままなんだ。いったいどうして、どうして、どうして……」
聞きたいことは山ほどある。理解できないことも山ほどある。それなのに、それらがあまりに多過ぎて上手く言葉にできなかった。感情ばかりが急いて、頭が空回りして疑問文として成り立たせることができなかった。
そんな彰人の様子を見て美月はクスッと笑った。
混乱したこちらの思いをくみ取ってくれたのか、美月はそれらに通じる答えを口にする。
「それはね、私が楽園にいたからだよ」
「楽園?」
「うんっ、とってもいい所よ」
理解が追い付かなかった。ただ、そこに理由があることだけは分かった。今までずっと楽園にいた、子供の姿なままなのも楽園にいたからだ、そういうことなのだろう。しかし、そもそもその楽園とは何なのかが分からなかった。いい所? 本当に訳が分からない。
困惑し続ける彰人をよそに、美月は窓の外に広がる夜の町並みへと目を向ける。
煌びやかに輝く家々の明かりを前にして眩しそうに目を細め、淡々としたどこか冷たい口調で美月は言う。
「こっちの世界は辛くて苦しい事ばかり。どんなに頑張っても報われるとは限らないし、どんなに思い願っても叶うとは限らない。目の前の現実はとっても硬くて、冷たくて、邪魔しかしてこない。生きれば生きるほど辛くて、進めば進むほど苦しくなっていく、そんな、ただ厳しいだけの世界……」
美月は顔を前へと向けたまま横目で彰人を見る。
そして尋ねてくる。
「それは彰人くんもよく知っていることでしょう?」
彰人はたまらず視線をそらした。
反射的に「ああ」とか「そうだな」といった言葉が口から出そうになったが、すんでのところで声を殺してその言葉を呑み込み喉の奥底へと押し返した。なぜだろう、安易に同意してはいけないような、理解を示してはいけないような、そんな気がしたからだ。だから、視線を逸らして沈黙するしかなかった。
たぶん苦虫を噛み潰したように顔を歪めていたと思う。
美月はそんな彰人の心情を見透かしたのか「フフフッ」と子供らしからぬどこか妖艶な笑みを零した。
美月は彰人の前から離れる。
そして何歩か後ろに下がると、窓から差し込む月と町の明かりさえも届かない暗闇の中へと身を浸した。膝から上が暗闇に覆われて何も見えなくなる。表情なども、もう一切見えない。真っ暗で、真っ黒だ。そんな暗闇の中で美月は声を弾ませて言う。
「けれど、楽園にはそれが無いのっ。あるのは喜びと幸せだけ。すべての努力は必ず報われるし、すべての願いは必ず叶う。とても温かくて、とても穏やかで、とても優しくて、とても心安らぐ世界……」
美月は両腕を左右に大きく広げてその場で踊るようにくるくると回る。伝わってくる衣擦れの音と空気の振動で、それらがなんとなく分かる。誇らしげに、楽しげに、美月は明るい口調で言う。
「あの日のあの夜、私はここで、そんな楽園への入口を見付けたのっ。凄いでしょうっ」
彰人は顔を歪めた。
「そんな都合のいい場所なんかある筈が……」
「あるよっ! 今ここにいる私が何よりの証拠じゃないっ」
間髪入れずに美月は少しだけ強い口調でそう言い切った。
彰人は沈黙した。
確かに、今、子供の姿のままの深谷美月が目の前にいるという事実は、常識では推し量れない何かが起こっていることを物語っている。自分の想像を越えた何かがそこに在るという証拠に他ならない。
胸の奥に疑念と共に淡い期待が芽吹く。そんな夢みたいな楽園が本当にあるというのだろうか、存在するというのだろうか、馬鹿げていると思いつつも、もしかしたら本当に……と。
美月は歩みを進めると暗闇の中から出てくる。そして再び彰人の目の前に立った。
低い視点から上目づかいで見詰めてくる。
小首を傾げて、甘い口調で言う。
「ねぇ、彰人君も楽園に来ない? こっちの世界にいるよりもきっと楽しいよ」
「そんな、俺は……」
彰人は戸惑い、美月の視線から逃れるように目を泳がせた。
美月は構わず言葉を続ける。
「より良い場所を見付けて自分をシフトさせていく。それは誰もが人生と称してやっていることよ。これはそれと同じ。決して逃避や脱落なんかじゃないわ。考えた末の行動ならそれは紛れもなく前進よ。胸を張って誇れることだわ」
美月は掌を広げて差し出してきた。この手を掴めと言うように、私が連れていってあげると言うように、何も心配はいらないと言うように、誘惑するように、
「さぁ……」
無邪気で優しげな、笑みを浮かべて。
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