8.心の天秤

 彰人は顔を歪め、眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、思い悩み、考えた。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……、

 どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい……、


 差し出された美月の掌を前にして、心の中に焦りと動揺が広がっていく。

 胸の奥で引っ張られるような感覚と、それを引き留めようとする意思が、せめぎ合う。

 自分の意思に反して脳裏に様々な思いが勝手に浮かび上がってくる。今までの良い思い出、悪い思い出。嬉しかった記憶、楽しかった記憶、辛い記憶、苦しい記憶、悲しい記憶、戻りたいあの時、やり直したいあの瞬間、思い出したくもないあの出来事。いくつかの成功に、数え切れないほどの失敗と後悔。今まで歩んできた人生と、これからも続く長い人生。そしてその先で待ち構えているおよそ間違いないであろう予想された未来と、その結末……。考えたくもない自分の将来。想像もしたくない人生の終わり。


 目の前の美月は手を差し出したまま今もなお答えを待っている。

 その掌が、その視線が「早く」と急かしてくる。


 頭の片隅に様々な疑問も浮かんでくる。

 目の前にいるこの子は、本当に深谷美月なのだろうか。本当に本人なのだろうか。信じても良い存在なのだろうか。もしかしたら、見た目が深谷美月なだけで、中身は悪魔か何かなのではないだろうか。本当に楽園などという場所があるのだろうか。もしかしたら楽園とは名ばかりで、実はここよりも酷い地獄のような場所なのではないだろうか。もしこの誘いに乗ったなら、自分はどうなってしまうのだろう。今のまま、何ひとつ変わることなくそのままその楽園とやらに行けるのだろうか。それとも、自分ではない別の何かになってしまうのだろうか。自分という存在を保ち続けることはできるのだろうか。それとも崩れ去ってしまうのだろうか。

 大丈夫なのだろうか。本当にいいのだろうか。問題は無いのだろうか。

 それとも、もしかしたら、けれども……


 頭の中で次から次へと様々な思いが浮かび上がり、それぞれ勝手に主張を繰り広げる。発言など許した覚えはないのに、声高に叫び、無秩序に議論を繰り広げる。声にならない声により頭の中が埋め尽くされていく。ひしめき合い、押し潰し合い、入り混じって、訳が分からなくなっていく。混沌としていく。

 熱さえ出てくる。眩暈や頭痛を覚え、次第に意識が朦朧とさえしてくる。

 そして、あまりの思考の多さに、遂には頭の中が真っ白になって何も考えられなくなっていく。次々に思考回路が遮断され、静止していく。


 差し出された美月の掌が訴えてくる。「まだかと、早く」と。


 彰人はそれでも必死になって考え続け、悩み続けた。

 深く俯き、強く瞼を閉じ、歯を食いしばって、思考を放棄した頭をそれでも強引に動かして、答えに辿り着こうともがき続ける。進み続ける。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……、

 どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい……、


 ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃになった思考の中、それでも心の天秤は片側へと傾いたのだろう、彰人の腕が震えながらもゆっくりと動き始めた。

 恐る恐る持ち上げられ、肘が延ばされ、前へと出される。

 手が、おずおずと差し出された美月の手へと近付いていく。

 そして、震える指先が、美月の広げられた掌に触れる。


 直後、美月は満面に笑みを浮かべた。

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