33.『ペーパー道』さささ ゆゆさん
「痺れた一文」
この神聖な紙で、排泄器肛門を拭う前に、トイレという空間を器と捉えて、トイレットペーパーを軸に、トイレの小道具や昔ながらのちり紙を使ったアレンジをトイレにすることで、ただ排泄するだけだった空間に意味を持たせ、癒しをもたらし身体がリラックス。(『ペーパー道』さささ ゆゆさん)
手放しで大好きである。
架空の事物をとことんまで設定しつくし、その上でその世界を存分に遊び尽くす趣向は、まさに落語だ。それぞれの設定の綿密さとテキトーさのバランスが絶妙で、このことが緩急となって心地よい律動をもたらし、適度なお通じを与えてくれる。この世界を堪能する上でもっとも重要なのは「消化器官」、とりわけ「腸」であるとわたしは考えている。どのような食事も娯楽も勉学も、腸の調子が悪いとまったく集中できない。便通というものは気分を左右する、というより気分を醸造する機構の根本なのだということを、食事によって生命維持する生き物たる人間は、より自覚すべきであろう。
排便排尿は生理現象である。これが不浄とされたのはひとえに衛生的観点のゆえである。だいたい、世の中のタブーのほとんどは経験則による感染症対策であり、差別の根本要因の一つは、衛生観念の違いを嫌悪するDNAによるものだということを何かで読んだことがある。性交と排便という二大タブーの中で、排便はより扱いが困難だと言える。こうした秘すべき生理現象の「生理的」な部分を、美意識と規律によって白昼堂々公衆の面前に展示可能とする行為こそが「文化」である。あらゆる「文化」は、タブーへの挑戦という側面をもつ。というより、こうした面をもつ「文化」だけが「芸術」と呼ばれる資格を得るとわたしは思う。「文化」が「生活」であれば「芸術」は「反-生活」である。
「ペーパー道」はまさに「文化」であり「芸術」である。ここで問題となるのは、落語界でもおなじみの「家元制度」である。「芸術」とは元来天才的個人が開拓するあだ花として点在するものだが、それを「制度」に組み込むと、途端に「芸術」の尖鋭度は下がってしまう。様々な流派に分派し、大同小異の「小異」でつぶし合いを行うようになり、本道をないがしろにして、形式のための形式、規律のための規律、流派のための流儀へと爛熟していく。「ペーパー道」はすでにその域に達しており「洗浄流」はなかなかに幅の広い作品を許容する王道的流派とお見受けする。
初めてこれらの作品に触れる「重雄」の適応力とさらにその上をいく師範「聖子」とのやりとりに、「ペーパー道」の神髄が読者にも染みわたってくるあたり、空海の「三教指帰」にも匹敵する読み物となっている。
落語台本の形式で書かれているこのお話は、全ての会話や言葉に無駄がないネタに埋め尽くされている。これは実際に演じてもらって、より深く、より手放しに浸りたい世界であるというところが「痺れた一文」の理由である。
以上
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