25.『双子座流星群の夜に』夕辺歩さん

「痺れた一文」

「いいんだぞ。もう楽になっても」(『双子座流星群の夜に』夕辺歩さん)


 まず、「タリスカー」の選択に、「俺」の様々な思い入れを感じる。キーワードだけを抜き出してみても、「スカイ島(ミストアイランド)」や、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」で同じみの文豪スチーブンソンのお気に入りであったことなどが、「流星群」や「諦めた夢」などにリンクしてくる。

 冒頭からソリチュード全開で始まるこのお話のテーマは「見ないふり」なのではないかと思った。

 また、「還暦」の夜。という点と、「双子座」というところに、大きな意味を感じる。還暦とは全てが一回りして元に戻ることであり、双子とは文字通り、一人ではなく、全く同じ遺伝子をもつ二人がいなければ成立しない。

 「全く同じ」「二が一に重なる」という関係性を「見ないふり」をし続けてきた「俺」の前に、60年前の天空に確かに共に存在していたはずのそれが、「白く輝くもの」となって落ちてくる。


 「俺は寝袋から飛び出して光の方へと駆けていた」

 寝袋を飛び出した瞬間「俺」は現実の時空を離れたのだと思う。そこは全ての時空に区別のない、全てに隔たりの無いところであり、生死のない時空だという点では「死の世界」に近いものであって、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の世界と同じ位相にあるものと考えた。

 そこではあらゆる年代の自分がおり、前世や来世の全てが共時的に存在するばかりでなく、可能性世界をも含めた全世界に存在した(かもしれなかった)「俺」であり、「俺」が生きる現実には生きられなかった、または無視され続けていた「俺」の双子たちだったのである。

 「2人一組」で踊る双子たちとは、「理想」と「現実」であり、「生」と「死」であり、「魂」と「肉体」であり、「親」と「子」だった。


 当初は「何の音楽も聞こえな」かったが、この現実にうちひしがれた「俺」が「見ないふり」をしていたものを再び「見られる」ようになると「優しく大らかな星空の音色が聞こえて」くる。

 そのメッセージを言葉にすればありふれたものだ。「お前はお前のままでいい。いつまでもお前らしくあれ」と。

 これを「一般論」「常套句」だと退けることはたやすい。だがこの「死の空間」のようなところで与えられた言葉は、「俺」一人だけに授けられた、ひじょうに「個人的」な「啓示」だということを忘れてはならない。そのような言葉だけが、人を変えうるのだと思う。

 「俺」の寂しさは、「俺」の双子たちを「見ないふり」をしてきたことによるものだ。「俺」の孤独を解消できる存在とは結局「俺」自身の「俺」に対する向かい合い方にしかなかなく、そういう意味で「家族」も「友人」も実は無関係なのだということ、人は一人で生きていくのだという、これも「一般論」と化した言葉ではあるが、ひじょうに厳しい真理を、この話は示しているのだと考えた。


「いいんだぞ。もう楽になっても」

 と言われて、それを素直に受け入れられる相手とは誰か。またそのような言葉を責任をもって言えるのは誰か。そんなことからさまざまに思いをめぐらせることができたことが「痺れた一文」の理由である。

以上

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