17.『★★★★★の先生』undoodnuさん

先生の最後の時間を私に下さい。(『★★★★★の先生』undoodnuさん)


 このタイトルは、五つ星の先生、と読むことができる。ミシュランで五つ星を獲得するのは並大抵ではないらしいが、主人公の「私」にとってこの「先生」はそれに値するということなのだろう。

 また「先生」から「教え」を受けた時、「ハンマーで頭を打たれたような衝撃を受けました」とあることから、そういう時よく使われる表現(頭の周りを星がくるくると回る、または目から星(火花)が出る)を五つの星で表しているともとれる。


 とても「素直」な子なのだ。そしてとても「真面目」な子なのだ。揚げ足をとるようなつもりや、あてこすりでやっているのではない。「私」は「先生」の「教え」を啓示として受け取り、そうしなければ。となかば強迫観念に駆られたかのように「人の嫌がることを進んで」実行していく。自分のしたことで人が嫌がれば嫌がるほど達成感を感じ、深く充足できるのである。


 生きていく目的を自ら見出すことができない場合、それを示し与えてくれる存在は「神」に似たものとなる。それを「使命」として邁進することで迷いはなくなり、いかなる障壁にも耐えることができる。どのような状況におかれても絶対の原理たる「教え」に全身全霊を投じることが、悦びなのである。疑念や疑問をもつことなどありえない。

 「トイレ掃除」という「先生」が言っていた本来の意味での「人の嫌がること」に取り組むことになった「私」だったが、「店長」の「完璧」という言葉が、「私」の中の別のスイッチをいれてしまった。

 「私」の姿勢は一貫している。だが「店長」はそんな「私」の姿勢にあきらかな嫌悪感を示して「程々」などという「完璧」とは相容れない基準を提示してきた。

 そこに「私」は「店長」の嫌悪感を察知し「店長」が嫌がることを継続させるための主張を試みるのである。

 このトイレの下りを読んで痛感するのは「私」の孤高感だ。

 「私」はこの世界に「私」しか信じられるものがなかった。だから自ら考え、自ら実践し、自らの身体で証明していくしかなかった。だがそれでも、自分すら信じられないまま生きることより、よほど良かったのだと思う。「人の嫌がることを進んでやりましょう」という「先生」の言葉が「私」の支えであり、「私」を信じるに足る存在にしてくれたのだ。


 ここで、冒頭の「ええ、先生の仰りたいことは分かります。」という言葉を考える。

 「私」は自分のしてきたことが「先生」が言ったこととズレていたことに気付いているのではないかと思った。だがそれを「間違っていた」と思いたくないし、「先生」の口から「間違っている」とも聞きたくないのだ。「私」がそのように生きてきたことや感じた悦びを否定することは許さない。

 「先生」は「私」のさまざまな言動をずっと見聞きしていて、心を痛めていたのかもしれず、そうした心労がたたって余命いくばくもない状態になったのかもしれない。

「私」は「先生」の懺悔を許さない。また、誰かにそのような「懺悔」を言い残すことも認めない。「私」に生きる意味を与えてくれた先生は「私」がずっと傍についていることを「嫌がっている」のだ、と自覚している残酷さが、胸を締め付ける。

 だが、「私」と「私」にとっての「先生」の五つ星を守り抜くため、「私」はあえてその苦行に挑み、先生が本当の「星」になるまで見届けようとするのである。


 先生の最後の時間を私に下さい。


 この一文でもっとも重たいのは「私」だ。「私」はこれによって生きながらえる。

 

 あまりにも壮絶な希望の言葉であることが「痺れた一文」の理由だ。

 以上

 




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