16.『そのポスターにご用心』ことのは もも。さん
『今の時代、コピーなんて簡単なんですよ。(『そのポスターにご用心』ことのは もも。さん)
技術的に容易になると、倫理的な自己検閲基準も甘くなる。達成までの過程が複雑だったり面倒だったりすることで、ごく自然に保たれていたセキュリテイーというものが確かにあった。玄関の二重ロックや、自転車の鍵、パスワードの強度、薬物の購入経路、他人へ自分の要望を伝える手段。匿名でつながり合うための仕組み。遠距離でもリニアで30分なんだから毎日会いに来てほしいという欲求。わがままを正当化する理由は、それが「簡単だ」ということだ。
「簡単」なのになぜしないのか? なぜしてはいけないのか? してはいけないのならば「簡単」にできないようにしておくべきではないか? 無人販売店舗から万引きをするのは簡単だから、万引きされない工夫をすべきではないか。電動キックボードは簡単なのだから免許なんていらないはずだ。運転を簡単にしたから、アクセルとブレーキの踏み間違えが増えたのは仕方がない。
こんな簡単なことがなぜできないのか?
と問われるとき、「簡単だから」というのがなんの理由にもなっていないと考えることは少ない。
技術的に可能ならば行うべきだ。全ては使う者の倫理観にかかっている。という常套句は、「簡単」さが「倫理観」を引き下げるという自明のことから目を背けている。
人類はなぜ、人間のクローンを作成することに慎重なのか?
移植のための豚はすでに製造されている。臓器移植は一般化している。だがそれは人体に対する意識をより「機械化」させている。そこから「予備部品」という考え方が生まれるのは当然だった。「部品」の集合体が「人体」だということ。だが「部品」がそろっても「意識」が戻らないことがあることから、「心身二元論」が再び常識化しているように思う。それは「コピー」不可能の領域を確保したいという願い、の顕在化のように感じられる。だが『攻殻機動隊』(士郎正宗)や『電脳ナイトクラブ』(村上龍)で採り上げられているように、「人格」もまた「脳」という部品と「記憶」というデータによって、理論的にはコピー可能である。SFにおいてはすでに、死者をコピーしてよみがえらせることは一般的になっている。
「個人の尊厳」という倫理観がお題目であることは、「尊厳死」を認めないことからも明白である。クローン人間に対する制約もまた、単に法整備の問題にすぎない。いずれそれが、簡単になれば、法整備が進むだろう。
あらゆる差別があり、差別は撤廃されなければならないという運動がある。「ブレードランナー」のレプリカントも、臓器移植用クローン人間も、AIも、数が増えれば同様に、連帯し運動をするだろう。
この話は、部品どりとしてのクローン人間をめでたく脳死させたが、それをオリジナルに対する臓器移植のために用いるのではなく、他の適合者へ部品を余剰部品として販売し、自らは、自分の記憶や経験などの「人格」を、新たに作成した若い身体へ移すところで終わる。
「人格」はどこにあるのか? わたしは「人格」も「肉体」の機能の一部だと考えている。ダイエットや美容整形、病気の告知や治癒によって人格が変化するのは、つまり、肉体が社会的存在であることを意味している。文字通り肉体とは、個人名としてのインターフェイスなのである。
この話の主人公は、個人名の書かれたポスターに呼び込まれる。ポスターとは大量に複製され、世にでまわる広告物だった。大量の複製によって世界から多様性を失わせ、それによって相対的にオリジナルが価値を持つという幻想をぶちこわそうとしながら、破廉恥な資本主義経済社会によって逆にオリジナリティに価値があると喧伝されてしまったアンディー=ウォーホールについて再び考えさせてくれた「痺れた一文」の理由である。
以上
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