4.『星に願いを』秋田柴子さん

痺れた一文。

いつでも、何度でも帰って来ればいいんやから」(『星に願いを』秋田柴子さん)


 関西弁はズルい。もし「言文一致」が関西主導で実施されていたら、関西弁が標準語だったのかもしれないと思いつつ、いや「言文一致」の本質は、「文による言葉の統制」だったのとの批評に賛同する身として、やはり関西弁は地の文よりも「声」をもった「会話体」であることに意義があるのだろうと考え直す。

 例えば、地の文を方言で書くとモノローグの様相を帯びてしまう。元来、公正中立な立場などあるはずはなく、「文」はかならず書いたものの主観によるのだから、むしろ方言などでモノローグ的に記したほうが公正だと思う。テレビカメラがその場にいない者の目のように機能することに慣れ、その目が視聴者である我々の目そのものであるかのような欺瞞が、傍観者としての怠惰を生むことに、「文」はより自覚的に取り組むべきだと思う。公的文書が関西弁で記された世界を想像するのはおもしろい。たとえば刑法の関西弁訳などは、ひじょうに人情味あふれたものになるのではないかと思う。

 ともあれ、その意味で、このお話においては「お袋」の「関西弁」が中心であり、すべてが「関西弁」の影響下に収まっている。

 収まっている、という意味では、主人公(新条聡)がたどるスターの栄光と挫折の半生もまた、ありがちなストーリー展開に収まっている。ひとことでいえば、「コテコテ」だ。だがこの「コテコテ」さは、「お袋」が思い描いた「コテコテ」さなのである。もちろん、息子が犯罪者になることを望んだというわけではない。だが、「スター」とは、そうして別条の危険性を常に孕んでいるものなのである。「お袋」は息子が「スター」になることを望んだが、それは芸能人でも野球選手でも科学者でもなんでもよかった。大雑把に、大勢に称賛されることこそが「お袋」にとっての「スター」だった。光と影の光の部分だけしか見ず、「あれウチの子や」と周囲の人に誇れることが「お袋」の喜びだったのだが、結果、息子がなめた辛酸の責任を「お袋」は感じ続けていただろう。

 だから出所した息子が実家へ帰ってきてくれたことは、なによりもうれしかったに違いない。息子は「自分がこんな目に遭ったのは母のせいだ」と責めるような子ではなく、自らの犯した罪がいかに母を苦しめたかと悔やむ青年だった。

 「(前略)いつでも、何度でも帰ってくればいいんやから」

 は、そんな互いが互いを気遣い、互いに対して責任を感じて赦し合う場面のセリフである。

 そして、このセリフの後「スター」という「コテコテ」さの呪縛を解かれ、親子のリアリティーあるエピソードが現れる。

 「アジの一夜干し」である。

 そしてこのお話の全てがここに収斂することによって、主人公と母は、改めて、自分自身の人生をスタートさせることができる。その光は、脚光などという作り物の光などではなく、お天道様の光である。

 「いつでも、何度でも帰ってくればいいんやから」は、お互いの御守りのように、いつまでも輝き続ける。

 そのようにこの物語の節目に位置していることが、「痺れた一文」の理由である。

以上。

 

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