第二章 隣り合わせの死4
冴えない頭で車を運転するその姿は、一見して外からでは不機嫌としか映らない。
ノリの良いアップテンポの曲を奏でさせながら真っ赤なスポーツカーを爆走させる姿は何とも言い難い。
容姿に恵まれた彼女は、途中の信号をぼんやりした頭で二つ三つ無視した記憶がありつつも、それでも事故にならなかったのはひとえに日頃の行いだろうと勝手に納得する。
昨日受けた柔肌への傷は服の下へと隠れて見えはしない。それほど大きな傷でなかったのもあってか痛みはうっすらとした感じでしか現れない。業務に差し障りのある被害がないことを喜ぶべきか自分の油断を厳しく追及するべきか。普段からして怠け者に近い性質を持つ彼女には悩みどころだった。
「まあ、気にしてもしょうがないか」
昨日のことも、今朝どころか現在進行形で無視している赤信号も。
と、そこで何やら胸の内ポケットを片手でまさぐり始める。
片手運転で車を走行させ、辺りの被害などお構い無しにかっ飛ばす。
それはまさに周囲の迷惑を顧(かえり)みない危ない人そのもので、実際に何度か他の車と衝突しそうになっていた。
「あったあった。まったく、何をぼんやりしてたりしてたのかしらね」
呟いて、手にしたシナモンスティックをじっくりと見る。片手運転によそ見運転までもが加わり、赤いスポーツカーは誰にも止められない暴走車と化していた。
哀愁の瞳で見つめること数瞬。その間に常人ならば一体何度死んでいたであろうか。考える気にもならない。
「昔のことに現(うつつ)を抜かすなんて、やっぱりだめね」
そうして、彼女はめんどくさそうにそれを口へと運んだ。
執着というものがほとんどない彼女の、数少ない執着する物が過去の出来事(シナモンスティック)だった。
別に酔狂(すいきょう)でこんな物を口に咥(くわ)えているわけではない。れっきとした理由があってそれをしているのだ。
「〝死〟って、何なのかしらね」
過去に語り掛けられた言葉を、今度は自問と言う形で浮かび上がらせる。
車内の中に、一見してそれと分からないようなところに一枚の写真が貼(は)られていた。
そこには今とは全く違う姿の彼女がそこにいた。そしてもう一人、そこには十近くも歳の離れた、今の彼女より少し上の男が傍らにいた。
風に揺られて踊ることもなく、ぺったりと貼られた写真は見る者にどこか眩しさを与える。
けれども彼女がそれを写真立てに入れもせず、他の所に大事に保管したりせず、運転席からは見える位置に無造作に貼ってあるのは、本人にとっていつまでもそれが〝戒(いまし)め〟であるからに他ならない。
彼女はそれを見て言う。
「馬鹿馬鹿しい、余計な物に執着してた頃の私」
嘆息。そして今一度、先に述べた問いに対する答えを並べる。
「人生の終わり、今まで存在した全てのものの回帰、ただただ朽(く)ちて行(ゆ)く物語、どれもが正解で、どれもがはずれ。答えは死んだその人一人しか持ち得ない永遠のテーマ」
反対車線を走るトラックとぶつかりそうになる。だがこれを彼女は一瞥(いちべつ)さえくれずに回避した。いや、危険が迫っていたのを感じたかさえ怪しい。
「いまだに答えの出せない私は、死んだその時にさえ答えを出せないのでしょうね」
自嘲(じちょう)し、苦笑する。
何が死だ。
何が答えだ。
「ふざけやがって」
思い出す。最後の時。
「人を護って、人を助けて、何一つ教えずに逝(い)って、結局最後は人を置いて行って」
知らず、彼女はアクセルを踏んでいた。加速する速度に風が頬(ほほ)を打ち、たなびく髪は荒荒しく。
「あんた追っ掛けて教師やっても分かんないし、生徒は気に入らないのがほとんどだし、気が付いたらどんな手使ってでも生徒を危険から護ることしかできないし……。変なのに巻き込まれるし、痛いし」
段々と萎(しぼ)んで行く声。仕舞いには顔を伏せて嗚咽(おえつ)まで出してしまっていた。
もちろんその間も運転はなされてるわけで……その軌跡は目も当てられないほど酷い。
不可思議な力で惨事を免(まぬが)れてるとしか思えないような状態だ。
「あーみっともない。化粧してなくて良かった。ったく柄にもない感傷なんて、このケガが影響でもしてんのかね」
持ち前の切り替えの速さでちゃちゃっと相貌(そうぼう)を崩し、パタパタと手で扇(あお)ぎ胸元に風を送った。
「湿っぽいのはみな却下~っと、うん?」
だらしなく、夏の暑さにやられでもしたかのようにだらけきる。ようやっと外界に意識を向け始めた彼女が最初に見たものは、見覚えのある生徒たちだった。
「仲良く五人で登校です、ってね。ちょっと話してくか」
落ちることを知らなかったスポーツカーが、今、次第にそのスピードを緩めていった。
★☆★☆★
「松原先生」
不意に道端に止まった真紅のスポーツカーから顔を覗(のぞ)かせるのは、学食の校医である松原志枝(しえ)その人だった。
「おはようね、仲良しこよしの五人組」
うふふと大人な感じで微笑する彼女は、パリッとしたスーツに身を包み、朝であってもその瞳の中に強い光がある。憧(あこが)れる女子も多いだろうと透は思った。
ただ、こんな物凄い女性(ひと)が量産されたらさぞかし地球の男性諸君は困るだろう。どんな方面で困るかは人それぞれではあったが。
「えっと、だれ?」
自称親戚(しんせき)の真一、かつては学食三昧であったという美浜、昨日あった明里と透は彼女のことを知っていたが、唯一一人だけ彼女のことを個人的に知らないのがいた。
「あらあら、この学食にこの人ありと謳(うた)われた〝学食の松原〟も、勤務五年目にしてついに翳(かげ)りが出てきたか」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、目で真一に自分を紹介するよう促(うなが)した。
「えーと……」
視線を泳がせ、何やら答えあぐねる真一。どうしたものか考えている風にも、何も言うことが思い付かないかのようにも見えた。
「ああまあ、うーん」
その姿は最早完全に挙動不審としか言いようがなく、今ここで真一が警察に捕まっても誰もフォローできそうにはなかった。
「はっちゃけたお姉ちゃんです」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
一同、沈黙。
まさか頭をぽりぽりと掻きながら気恥ずかしそうにそんな事を言われるとは思ってもみなかった友人四人は、ある者は口をあんぐりと開け、またある者は空を仰ぎ見て、そしてまたある者は現実逃避の妄想を膨(ふく)らませ、最後の一人に至っては憮然(ぶぜん)とそう口走った相手を見るのみであった。
「は、ふふ。あんた、今何を口走ったか自覚してる? してるんならこれを口に咥えてみな。ダイジョウブダカラ」
この場でたった一人、状況把握(はあく)能力が正常であったのは、そう言われた本人のみであった。
言った本人である真一でさえ心ここに在らずとしていた証拠に、松原先生に差し出されたとてつもなく辛いことで有名なガムを、身構えることもなくぱっくんと食べた。
しかも、味覚まで支障をきたしていたのか何度も噛んでからやっと悲鳴を上げ――ることなく地面に倒れた。ぱったりと、軽い音を立てて後ろに。
人って気絶してから倒れると足が上に上がることないのな。足は地面から離れないぐらいに。
「うわっ、これぐらいで気絶するとはね。鍛(きた)え方が足りないよ」
ねえ?
松原志枝は生き残った四人に困った顔で訊いた。
「ど、同意を求められても……」
突発的な味覚を蹂躙(じゅうりん)する攻撃を、どう鍛えれば耐えられると。
「まあ、いいわ。学校には遅刻しないようにだけしてね。くれぐれも、学食の先生が何か食わせたとか言ううんじゃないよ。何かしたってのなら、まあセーフにするけど。食べさせたってのだけはダメだから」
この念の押しよう。この人にとって真一よりも自分の担当する学食――正式名称、学生たちの食に関する研究所――の方が大事と見える。
「そこの四人! 顔に出てるわよ」
どうやら全員が同じようなことを思ったに違いない。
透は目も当てられないとばかりに顔を手で覆(おお)って首を振った。
「ほんとにもう……。それじゃ、私はもう行くから。そいつをしっかりと学校まで運んで来なよ?」
卒倒(そっとう)した真一を置いてけぼりにして、松原志枝はクリムゾンレッドの機体を慈悲の一欠片(ひとかけら)も残さずに発進させた。
「……悪夢だった」
透は無意識のうちにそんなことを言い、他の三人は自然に頷いていた。
地面に寝そべった不幸な犠牲者のことを忘れて。
★☆★☆★
豪快なエンジン音に聞き入り、さっきあった過失事件を忘却の彼方へと追いやり、更には誰も被害を受けなかったと記憶を改竄(かいざん)して愛機を走らせること二分。
彼女はようやっと、弱っていた気持ちによって引き出されていた過去の記憶や感傷のまどろみから抜け出した。
そして、次に入り込んだのは負の悪循環(スパイラル)だった。
無意識から意識でのハンドル操作に代わったことが原因で、時が来るまで自分を護る死神がいないことで、さっきまでとは違うあわやという事故が起き掛けていた。
「くっ、まさかこれほどとはねっ」
悪戦苦闘というに生温い、獅子奮迅の活躍で事故を未然に防いで見せ続ける。
右へ左へのらりくらり、千鳥足の運転手が見せる蛇行運転が可愛く見える素晴らしい運転テクで突っ走る赤い車。
最近異常に増えた事故がドライバーに危機感を与えていたせいか、先程までもそうであったようにどの車もいつも以上に安全運転を心掛けていたために間一髪で誰もが命を永(なが)らえる。
「ちっ、このままじゃあジリ貧ね。交通量が少ない上にゆっくりだから助かってるだけ。ほんとに、どうしようかしら」
彼女が今一番心配しているのはラジエーターが異常をきたしてしまうことだ。さすがにこれが壊れれば長くは走れない。というより確か炎上・爆発へのプロセスまっしぐらだった気がする。
「傷ぐらいは許すわよ。どうにかして隠したりできるから。でもね、そんな未来はダメよ。断固拒否っ! まだ三年しか乗ってないのに!」
脳裏に煩(うるさ)いくらいにチラつく最悪な光景に叫びを上げていると、それに呼応したように相棒が唸りを上げ始めた。
ヴヴヴヴヴヴヴッ!
それはエンジンの昂(たか)ぶりであり、同時に限界が近いことを示すサインであった。
ラジエーター云々(うんぬん)の前に内部温度の限界に到達したらしい。中の備品が熱で融解(ゆうかい)したりしないことを祈るのみだ。
「……っ、この、もう少し大人しくしなさいっ。ペシャンコのでろんでろんに成りたいわけじゃないでしょうがっ」
自分でもいまいち訳の分からないことを言って叱咤(しった)しつつ、じゃじゃ馬の制御を神業並のドライブテクで扱い切る。
紙一重で事故を回避して先へと進み続ける。ブレーキが利かない上にスロットルペダルまでもが壊れた今の状態で思い浮かぶ理想の止め方は、彼女の頭では一つしかない。
ドリフトを利かせて大きい壁に車のサイドをぶつける。
それしかない。というかそれ以外だと車がおしゃかである。それは絶対に避けなければならない事態である。
たとえ人を轢いてしまうようなことがあっても起こしてはならない最優先事項だ。
曰わく、私が今生きてる理由の半分があれで、三分の一がこれ、残り六分の一は惰性(だせい)とすこしはある面白いことに出くわすことに期待してるからとのこと。
人死にはまずいとは思うがそれ以外ならオッケーという人だった。
「どうしよ。もちそうにない……」
幾らなんでもメーターが制限速度を倍近く越していたら泣きたくもなる。なにせ望んで出してるわけではないのだから。
「こうなったら、荒業だけどどっかに突っ込むしかないわね」
彼女は理想に固執(こしつ)し過ぎて全てを台無しにする阿呆ではない。それだけしかダメということでもない限り妥協(ランクダウン)はする。
覚悟を決めた今、ギアをトップに入れる。プライドがそうさせた。これはまさに命懸け。自分だけでなくこいつにも全力を出させないでどうするというのだ。
それは昔の名残(なごり)であり彼女自身根深い所に存在する死への相対(あいたい)でもあった。血が渇望(かつぼう)する、とでも言えばいいのか。
とにもかくにも、彼女はここで最速を出さなければ気が済まないような興奮状態になっていた。
「〝鬼姫(おにひめ)〟を舐めんじゃないわよ!」
直線的な道へと入った時、ストロークを深く踏み込む。前に一台も車がないことを確認してからの行動だった。
自分の半身とも言える車が自らの求めに応え、爆発的な加速を始める。
松原志枝はそのことに笑う。笑った。
「最高よ。このまま行けば上手く飛べそうね」
この先には一つの川があった。橋で繋(つな)がれたその川には土手があり、彼女は橋からその土手に飛び降りるつもりであった。
「通学路を離れれば生徒への被害も出ないし、ね」
この川はほとんどの生徒たちには通学路として使われてはいない。彼女が知る限り一人だけ使っていたが、この時間にドンピシャでいることなど確率的にはかなり低い。
一息に橋まで突っ走ろうとした時、彼女は臭いを嗅いだ(、 、 、 、 、 、)。
嫌な臭いだった。
視界に一人の男が入る。記者風の、一見して世の中を舐め腐っているかのような態度の男。
それは同族の臭いだった。負の部分に特化した同族の臭い。
何となく分かる。
こいつは自分と同じだ(、 、 、 、 、 、 、 、 、 、)。
どこが同じなのかは知らないし分かりたくもない。けれど感じる。どこか、例えようもないところで似ていると。
「まっずいわねえ」
どうしようか。
偶然か否か。その男はちょうど、彼女がこれから突撃を仕掛けるポイントへの射線上にいた。
「ま、いいか」
どうせ止められないし。
言外にそんなニュアンスを含んだことを言う。
男はどの道直線上の先にいて、彼女がどんなことをしても車は止められない。このまま行く限り衝突は避けられない。こっちから避けるなど言語道断。そんな殊勝な心掛けをするくらいならとっくの昔に、それも十代の頃にしている。
故に、彼女はそのまま男を跳ね飛ばし、そのままの勢いで土手へとダイブし、スピンを掛けながらドリフトを敢行(かんこう)して減速。適当な壁代わりになる物を一瞬の内に探し出してぶつけた。
後に彼女を知る者はこう言ったそうだ。
「鬼の霍乱(かくらん)か?」
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