第二章   隣り合わせの死3

 夢を見た。

 だいぶ前の、過去にあったことの夢を。

 ところどころ不鮮明で、画像の乱れた映像を見ているようだった。ところどころモノクロな部分もある。

 ただ、そこに出てくる人だけはあまりにも鮮明に映っていた。

 音はない。いつだってそうだ。そして、そのことが救いでもある。

 場所はこの家の玄関。今とは違う物が置かれている玄関。今よりも新しい感のある家。

 そこにいるのは人の数は三人。

 一人は母。一人は僕。そして一人は――

 そこにいる僕はとても幼い。まだ幼稚園児ぐらいといったところか。

 母さんも今とは違い会社服(スーツ)を着てはいない。それどころか私服にエプロン姿のどこから見ても主婦といった様相だった。

 小さな僕は目の前にいる男の人(、 、 、)に何かを言った。何を言ったかは分からない。読唇術の使えない今の僕に分かるはずもない。

 けれど、一つだけ知っていることがある。

 今の僕が見えている風景は、昔の僕も見ていたということを。

 そいつは小さかった。身長が幼い僕と同じぐらいしかない。いや、それよりも小さかったかもしれない。

 白粉(おしろい)をこれでもかと塗りたくったような真っ白過ぎる顔。

 いつでも張り付いている薄気味悪く、どこまでも人を嘲笑(あざわら)っているかのようなちょっとだけの笑み。

 それでいて目はただそこにあるものを映しているだけのように感情を表しはしない。

 着ている服は黒。上から下までをたった一つの布で覆(おお)い隠している。

 手にしているのは鎌。自分の背丈(せたけ)ほどの鎌を両手で支えている。

「――――――」

「――――」

 母さんと男の人が笑って話していた。時折り昔の僕を見ていることからその時の僕に関しての何かを言っていたのだろう。

 それからすぐに、すでに靴を履(は)き終えていた男の人が玄関の戸を開けた。

 ニヤッ。

 僕は見た。小さい僕も見た。

 父親に憑いている死神が笑ったのを。

 その鎌を振り上げたのを。

 その鎌が       のを。

 他には誰も気付かない。

 気付いたのは過去にそこにいた自分と、夢で見ている自分の二人だけだった。

 その日、

 父さんが心臓麻痺で命を落としたと、どこかの病院から連絡があった。



 ★☆★☆★



 ばっ、と飛び起きる。

 嫌な汗がシャツを気持ち悪くさせていた。この分だとパジャマも洗わないといけないみたいだ。

「二年ぶり、か?」

 確か最後に見たのはそれぐらい前だった気がする。なぜ今更そんな記憶が夢として出てくるのか知らないが、迷惑な話だ。

 透は気分を一新するためにさっさと制服へと着替えた。朝食を食べるときに制服というのはところによって好まれないようだが、透に言わせれば昼食の時は制服なのだから一食ぐらいそれが増えても構わないだろう、というものだ。ちゃんと夕食は私服に着替えているし。

「あれ? 今日は早いんだ……」

「何で残念そうなのか僕は訊かないからね」

 ノックしてから扉を開けるまでの間が酷く短かったこともあり、低血圧気味の透は不機嫌かつ冷ややかに述べた。

「ごめんなさい」

「謝るなよ。何か悪いことした気になる」

 しゅんとしてしまう愛夏に透は笑い掛ける。

 それから部屋を出るように促(うなが)して一緒に出た。

 部屋を出た時には愛夏はもうさっきまでのしおらしい顔をかなぐり捨てて階段へとダッシュ。ひとりで駆け降りて行ってしまう。

 しかも、

「遅いよ!」

 とのたまわってもくれました。

「…………ふー、どうやって鍵を掛けようかな」

 透の部屋には鍵が掛けられない。なぜなら掛けるべき鍵が存在しないから。

 これが愛夏の部屋であったのなら早急に解決されていたのであろうが、残念ながら愛夏は元いた自分の部屋から鍵を取ってきて新たな自分の部屋に付けてしまっている。おかげで透は部屋の鍵を買いに行くチャンスを逃してしまっていた。

「いや、そもそも愛夏が部屋に来るようになったのはだいぶ後だし」

 透は自分の考えに自分でツッコミを入れた。

 透がそんなことをするなど珍しいこともあるものだ。

「っと」

 早く行かないとまた愛夏が何か言ってくるに決まっている。透は頭ははっきりしているが体はまだ眠っているのでゆっくりと階段を降りていった。途中、危うく足を踏み外すところだったのは誰にも見られていないので問題なし。

「にゃあ~」

 これまた珍しくポロが起きていた。そして透の姿を見つけると擦り寄ってまできた。

「ん、どうしたんだ? おまえ」

 なんとなく抱き上げてみる。

 初めて会った時よりも成長した体は、それでもまだ軽かった。

 柔らかくふっくらとして、ぽわぽわとした暖かい体温。少しだけ身動(みじろ)ぎされて手がむず痒(がゆ)くなった。

「みに~」

 相変わらず変な鳴き声を上げることのあるポロは、いつであっても幸せそうに目を細めている。

「太らないおまえが羨(うらや)ましいよ」

 ポロは透が知る限りよく眠っている。運動をほとんどしないポロがデブ猫にならないのは山崎家の不思議の一つだ。

 半(なか)ば家猫となりつつあるポロを適当に遊んでから溜め息を吐きつつ床に下ろす。ポロは薄情にもさっきまでの可愛(かわい)らしく擦り寄ってくるということもなくごはん~、と皿をひっくり返しに行った。

「しょうのない……」

 気紛(きまぐ)れなネコの気分に付き合わされただけだと思うとどこかもの悲しくなってくる。それで目尻(めじり)を押さえると変な感触が帰ってきた。

「ん?」

 よくよく触ってみるとそれは自分の皮膚だった。フレームの感触ではない。

「それでか」

 フレームを押さえる感覚で指を使ったせいか周りから見るとあまりにも間抜けな格好だった。気恥ずかしく思いながら愛夏の姿を探すと、運良く今のは見られなかったらしい。

「今度からはこめかみを押さえるようにしよう」

 もう二度とこんな無様な姿は晒(さら)すまいと心に誓う。

「ねえ、早く席に着いたら?」

 一人で勝手に頷いてる姿を見られた。

 凄い無様だ。

「…………」

「あ、そうだ。メガネ。着け忘れてるなんて珍しいね。寝起きぐらいしか素の顔見られないからなんか新鮮」

「……取って来る」

「? どうしたの、そんな肩下げて」

 透の変貌(へんぼう)振りを訝(いぶか)しんだ愛夏が訊くも、心を砕かれた透には聞こえない。落ち込んではいるものの、マイナスの気を放っていなかったことが幸を成したのか愛夏もそれ以上問い質(ただ)すようなまねはしなかった。

 透は目的の物を部屋に入ってから二秒も掛けずにあるべき場所へと落ち着けた。

「このメガネと付き合うのも、いい加減終わらせるかな……」

 ぽつりと呟く。

 何の気なしの一言だった。

 そしてそれはどうとでも取れるものだった。

 透が今使っているメガネは使用し始めてから五年になる。チタン製の細くて軽いフレームはこれより前に使っていた重いフレームよりも使い勝手がずっと良かった。

 落ち込んだ気持ちを無理矢理プラスの方向へと変換(へんかん)させながら朝食の席に着く。ポロはひっくり返した皿の下敷(したじ)きになっていた。

「やっぱり伊達メガネなんて止めたら? 透の場合、メガネしてると逆に近寄り難い感じが出てくるし」

 愛夏がリモコンでテレビを点けて言った。透はその間にポロのエサを皿に入れた。

 最初に出てきた画面はニュース番組。朝の時間は教育テレビでも点けていない限りこれだろう。

「いいだろ。前にも言ったけど、これは〝気休め〟なんだから」

 何に対しての気休めかは、誰にも言っていない。言ってもしかたのないことで、そしてこれは自分で解決しなくてはいけないことだと思っているから。

「ふうん」

 愛夏はじと目で睨んでくるが透は顔を逸らすことでそれを躱(かわ)した。

 それでも視線は痛かったが。

「あ、それとね」

 透は更なる嫌な予感に背筋が寒くなる。

「今日も(、)明里ちゃんと二人で食べてね。私たち、三人、他の用事があるから」

 後でたっぷり絞(しぼ)るからね。

 そんな心の声が透の頭に響いた。しかも愛夏の顔はとても素晴らしく引きつってる。恐ろしい限りだ。

 真一や美浜と何をしているのかは知らないが、どうにも愛夏にはやや納得のいかないことらしい。

 結局それは推測の域を出ず、透の頭にしこりとなって残った。

 わざわざ透と、草永海さんを離して進めるような話などそうそうないように思われたからだ。

「じゃあ訊くが」

 それはちょっとした反撃のつもりだった。

 一方的に責められるだけの状態に嫌気が差したとも言うが、まあ何にせよ特に他意のないことだった。

「お前たちは何を隠れてやってるんだ?」

「うっ――」

 急にきょろきょろと視線がさ迷いだし、愛夏は言葉に詰まった。

「あー、その、それはー」

 予想外にも愛夏を窮地(きゅうち)に追い立ててしまい困惑する透。だがここで引くわけにもいかない。引いたら良くないことになる。かといってこのまま愛夏に吐かせてしまっても良くはない。

 だから透は眠気の残る――それが原因で余計な話題にしてしまったんだろう――頭を完全に覚醒させて事態の打開を図(はか)った。

 トゥルルルル――――

 透が口を開いたのと同時に電話が鳴った。透は間を外されて行動ができなくなる。

「あ、電話! 取ってくるねっ!」

 これ幸いと愛夏が電話を取りに席を立つ。と、慌てたために足をイスに引っ掛けて盛大な音を立てて転んだ。

「だ、大丈夫か?」

 派手な音はまだ耳に残っている。それほどの音が出たのだ。周りに危険な物がなかったのは幸運だった。

「う、うーん……」

 音の強さに負けず愛夏は体を強く打っていた。

 引っ掛けた右足と受け身を取るようにして床を叩いた両手がじんじんと痛むらしく、その場から動けないでいた。

 トゥルルルルルー

「ん、……大事はないな」

 透は手早く愛夏の容態を確めると、騒がしくベルを鳴らしている電話を手に取った。

「もしもし?」

「とおにぃの――」

 聞き慣れた少女の声が耳朶(じだ)を打つ。こちらが応対した時の息を呑(の)む様子と、今現在の溜め(、 、)から、一つの結論が見出される。

「バカァーーーッッッ!」

 けれどそれを躱す猶予(ひま)は与えられなかった。

 頭を揺らす必殺の怒声に、透は意識が数瞬飛んだ。

「う……あ。か、カヤか?」

 透の問い掛けにうんと答えるカヤ。愛夏の方に目をやるとすでに彼女は起き上がってこちらの様子を観察していた。

 透は愛夏に頷(うなづ)き掛ける。愛夏も頷いて相手がちゃんと誰だか分かったことを示した。

 蓉院(よういん)佳弥(かや)。透の従妹(いとこ)にして二つ年下の中学三年生である彼女は、ことあるごとに透の家へと電話を入れるという悪癖(あくへき)がある。

 キーン、と耳鳴りの止まない状態で受け答えを続けるのは体の健康上よろしくないことではあったが、かといって愛夏と代わるわけにもいかない。愛夏とカヤの電話はとても長い。元々長かったが記憶を失ってからはそれがさらに顕著(けんちょ)になっている。たぶん、少しでも失くした記憶の穴を埋めるためなのだろう。

 硬い言い方をしたが実際は失った時の補填(ほてん)、言わばお互いの仲を再び縮めようとしているに過ぎないということだ。

「朝っぱらからそんなのは致命的だしな……」

 時間的に余裕はあったが、そんなもの二人が話し始めれば光陰(こういん)矢の如しで、指の間から流れる水のようになくなる。とてもじゃないがそんなことを容認できる透ではない。

「どうした。何があったんだ」

 それに、電話口から聞こえる啜(すす)り泣きが気になる。人の事を馬鹿呼ばわりしたのだから、これは絶対に透に関係することのはずである。理由は何にしろ、泣かせた相手をほったらかしにすることは透の良心が許さない。

「さ、さっき電話があったんだよ」

「うん、そうか。電話があったのか」

 泣いてる相手を安心させるには、自分が相手の言ってることを理解してると示すことが大事である。それにはあっちの言っていることを少しだけ変えて復唱するのがベストだ。

「ぐすっ……あいつが、言ったんだよ? とおにぃが、トラックに、ひ、轢かれたって」

 あいつ――透はそう呼ばれる人物に行き着くのに数秒を要した。こんなことをするのはあの腐った記者しかいない。

「あいつが……あいつが電話してきたのか?」

「う、うん。そうだよ。とおにぃが、病院に運ばれたってことも、あいつが」

 ひっく、とカヤはしゃっくりをした。あまりにも驚いて、あまりにも衝撃的で、あまりにも酷い言い方をしたことが手に取るように分かった。

 奴はカヤに重要な部分を伝えずに、誇張(こちょう)と想像を織(お)り交ぜて面白おかしく〝悲劇〟を話したに違いない。聞いた方がどんな誤解や曲解をするかを分かった上で。ましてあいつは愛夏の〝奇蹟〟が本物かどうかを証明する、という馬鹿げた理由で様々なことをしてきた。中には人を平気で襲わせたりしたこともある。

「カヤ……」

 透が次の言葉を言おうとした時、

「透! テレビを見てっ」

 愛夏の悲鳴が透の注意を家の中へと移させた。

「悪い、少し待っててくれ」

 透が受話器を電話機の横に置いて愛夏の下へと駆け寄る。それほど時間が掛かるとは思わなかったし、聞かれて困ることでもないとも思ったので電話口は相手の方と繋がったままだ。

 それに、カヤをここで突き放すわけにもいかないしな。

 カヤの様子からして彼女が今、どれほど不安定なのかはとても推し量れたものじゃない。下手に彼女の不安を煽(あお)ることは避けるべきだ。

「どうしたんだ」

「透、これ……」

 愛夏がテレビを指差す。

 そこにはつい先程に起きた事故現場が映っていた。

 燦々(さんさん)たる被害。ガードレールが拉(ひしゃ)げて曲がるどころか割れ、道路にぽつぽつと立っていた街灯の一つは尽(ことごと)く破壊されているのが見えた。

 そこにいる、画面左端に映る若い女性が現場の状況を説明している。

「ごらんください。ここがほんの数分前、生放送中に事故が起きた場所です。

 車のぶつかった箇所が減(め)り込んでいます。これほどの経込み、一体どれほどの衝撃があったのかを物語っています。

 そして、あちらが暴走車の最後に衝突した歩道です。もし人を轢いていたら、と思ってしまうほどに恐ろしい傷跡が辺りに残っています。

 しかし、ほんとに幸いでした。偶然にも、後一歩のところで誰も巻き込まれずに済んだのですから」

 現場のリポーターがそう言えば、局にいる年配(ねんぱい)のリポーターは相槌(あいづち)を打つ。

「そうですねえ。体のほんの一メートル手前を横切ったっていうんでしょ? ほんと、これだけ人通りの多い場所で誰も引かれなかったってのは、奇蹟に近いですよねえ」

 ふむ、と頷いてから訳知り顔で事故についてその後も語っていた。

「これがどうかしたのか」

 確かに酷いが、それでわざわざあんな声を上げて呼ぶ必要があるとは思えなかった。

「待って。もう少し、もう少しでまた映ると思うから」

 愛夏が行かないで、というように透の腕を掴む。腕を掴んだ手が心なしか震えてる気がした。

「愛夏……?」

 透は途惑いはしたものの、何かしらの嫌な予感が芽生え始めていた。

 それから数十秒後、画面がまたもや事故の現場へと変わった時、そこには見たくもない相手が映っていた。

「……ッ、あいつは」

「いやあ、危なかったですよほんと。生きてるのが不思議なくらいですねえ。いやはや、運が良かったですよ」

 平べったい笑みを見せるそいつは、あの記者。有邨(ありむら)篠生(しのい)という男だ。

「そうですねえ。これだけのことが目の前で起きて怪我一つしなかったのは、運が良いとしか言えませんね」

 リポーターもインタビューされている有邨に肯定の意思を示し、共感を得ようとしている。こうやって相手を気分良くさせるのもインタビュアーとしてのスキルだ。

 その後も無事に生き残った有邨に質問を浴びせる彼女は、どこか嬉しそうに思えた。

 分かってはいるのだが、どうしてもこういう事件・事故を彼らが喜んでいるように思えてしまう。

「ただ、残念ながら運転手の方は死んでしまいました。他に乗っている人がいなかったのと、こうして轢かれる人がいなかったのが幸いです」

 しばらくの間は有邨と話し、リポーターはそう締め括(くく)ってリポートを終わりにした。

 その最後の瞬間、透は確かに見た。

 奴が、底意地の悪い薄い笑みをこちらに向けたのを。

「……なっ」

 気のせい、気にし過ぎ、というにはその視線は強過ぎた。

 明らかに誰かを射抜くような眼光。強固な意志で以て表される意思。不特定多数の誰かを見るにはできないものだ。

「ねえ、今……」

「ああ、見たな。こっちを」

 愛夏にも分かるほどだ。これで間違いないだろう。

 奴がこのタイミングで事故に遭(あ)い、それでインタビューされる。いくら事故の件数が異常なほど増えているからといって、こんな偶然があるのだろうか。

 答えは、否。奴はこうすることでこちらを挑発しているのだ。さあ、お前らもこんな風にインタビューされろ、と。

 一番最後にああしたのは、きっと一瞬でも目にすれば最後まで自分たちが見るということを見越してのことだ。本当に恐ろしい。

 そして、今のことでこの前あった事故のことが気になり始めた。

 あれは本当に事故なのかと。あいつが起こした事件ではないのか、と。

事故後すぐに気を失ったりして記憶が曖昧(あいまい)ではあるが、何か普通では起きないことを目にした気がする。それも、重要なことだ。今だけでなく未来にも関わる大きな……。

「カヤ、済まなかったな。ちょっとごたごたしてて――」

「今、映ってたんでしょ? テレビに」

「見てたのか……」

「うん……。こっちにも映ってたから」

 電話を離れてる間に少しは落ち着いたカヤと一言二言話をし、学校があるからと言ってカヤの方から電話を切った。

「愛夏、もう時間だ。早くしないと遅れるぞ」

 透はつとめて明るく振る舞った。

 それが無理矢理なものであることは重々承知していたし、こうしたからといって場の雰囲気が良くなるわけでもない。

 しないよりはマシという極めて消極的なことでしかないのだ。

「ねえ、透」

 諸々(もろもろ)の所用を終わらせて玄関を開けようとしていた透を愛夏が呼び止めた。

「大丈夫、だよね」

 振り向いた透が見たものは、儚く脆(もろ)いガラスの表情。ほんの少しの傷で、全てが濁(にご)ってしまう感情。

「大丈夫。僕も、真一も、美浜も、草永海さんだっている。何も心配はいらないさ」

 まだ靴を履(は)くことさえしていない愛夏の正面に立ち、その顔を真っ直ぐに見る。安心させるための微笑(ほほえ)みを見せて、所在なげに宙を浮いている手を掴む。

「行こう。大丈夫だから」

 手に力を込めて引っ張る。それに引かれて一歩を踏み出す愛夏。

 そうして、扉が開かれた。

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