不意に水を浴びたように心臓が縮こまり、私は数歩あとずさっていた。


 あれから水一滴も口にしていないエイブラムを想像し、足元から冷えが這い上がる。このままだと本当に彼が死んでしまう。


 いったん気落ちした体を奮い立たせ、私は貯蔵庫の扉を思い切り叩いた。


「エイブラムっ!」と中に呼びかけると、数秒の間を置いてかすかな応答が得られた。掠れた力のない声で、私の名前を呼んだ。


 私の挙動に対して見張り番はじゃっかん慌てるが、止めはしなかった。


「待っていて! ぜったい私が助けるから!」


 そう言って貯蔵庫の扉を注意深く観察する。簡素な南京錠がぶら下がっていた。これなら鍵がなくても壊せそうだ。たとえば銃なんかで。


 エイブラムと共にいた部屋へ、踏み入られたときのことを思い出していた。あのときも銃で鍵を壊されたのだ。


 扉に両手を付けたまま奥歯をギュッと噛みしめて、「待っててね」と再度エイブラムに語り掛けた。


 ドレスの端を掴み、足に力を入れて走り出す。脇目もふらずに来た道を戻り、階段を駆け上がった。


 途中でアレックスの慌てた声を背後に聞いた。構わずに二階ファーストフロアを突っ切り、これまでに何度も来ている書斎にたどり着いた。お父様のプライベートルームだ。ハァ、と息が切れた。


「姉さんっ、いったいなにをする気ですか!」


 アレックスに肩を掴まれて振り返る。彼は少しも息を乱さず、眉を吊り上げて私を見ていた。少し遅れて彼の侍従が追いついた。


「お父様の書斎から銃を持ち出すのよ」

「はぁ!?」


 わけがわからないと言いだけに、アレックスは露骨に顔をしかめた。


「銃があれば見張り番も脅せるし、あの南京錠も壊せるでしょう?」

「そんなの正気じゃないよ、大体そこまでして犯人を逃がしてなんの意味があるんだよ!」

「彼が死んでしまうからよ!」


 アレックスを黙らせるように声を張り上げると、彼の目から私を止めようとする意欲が消えた。


「でも。そいつは姉さんを攫って閉じ込めていたんですよね? お父様が怒ってそうするのも……無理ないんじゃ……?」

「彼は野蛮な誘拐犯なんかじゃないわ。お父様もみんなも、彼を誤解してるのよ」


 書斎の取っ手を引くと、予想通り鍵が掛かっていた。私は側に飾られた絵画の裏を手探りで探した。


 ハァ、と弟の大仰なため息が、いくらか空気を重くする。


「みんなの言う通り、やっぱり姉さんは病気だよ。犯人に洗脳されてるんだ」


 両手で頭を抱えたままアレックスがその場にしゃがみ込んだ。侍従が心配し、「部屋へ戻られますか?」と声を掛けている。


「私を病気にしたいならそれでも構わない。けれど私は。だれが何と言っても、エイブラムを助け出すから」


 思った通り、手に真鍮の鍵を掴み、扉の鍵穴に差した。お父様が普段から鍵をなくさないようにと、絵画の裏へ隠すのを知っていた。


 解錠して扉を開けると、アレックスが顔を上げた。どこか緊張した面持ちで部屋の様子を窺っている。


 弟や妹はこの書斎に入ったことがないので、好奇心がうずくのだろう。


「面倒なことに巻き込んでごめんなさい、アレックス。私は私の責任でやり遂げるから……あなたはもう部屋へ戻っていいわよ」


 書斎に入り扉を閉めようとすると、弟の手がガッとその縁を掴んだ。書斎に足を踏み入れる弟を侍従がおろおろと見守っている。

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