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ふとマーサに言われた言葉を思い出していた。
ーー『お嬢様が幸せな気持ちでいてくれると、私も嬉しいです。その方とうまくいくと良いですね』
あの言葉に嘘いつわりは感じられなかった。舞踏会の帰り、初めて会ったエイブラムに恋に近しい感情を抱いて、それを彼女に打ち明けた。
マーサはもちろん、彼のことを知っていたはずだ。いったいどんな気持ちで私の話を聞いたのだろう。
マーサが誘拐を依頼したのだとしても、私には彼女を悪く思えなかった。彼女に悪意はなかったと信じたい。
「マリーンは」と呟き、一度エイブラムが言葉を切った。言うべきか言わざるべきか、またどんな言葉で伝えようかと考えているようだった。
「マリーンは……これまでキミの父親がしてきたことを知らない。知らないほうが幸せなのかもしれないと思っていた。でもこのままあの屋敷で一生を終えるとなると……俺には不憫で仕方がない。どうにかしてやりたいと思った。これは……マーサ・アリソンも感じていたことだ」
え……?
自分の眼球が不自然に泳ぐのを、脳で認識する。
お父様がしてきたこと、そう言葉にされてなんとなく嫌な予感がした。
「お父様のしてきたことって……? 幼いころ私と仲の良かったイブを、死なせたこと?」
エイブラムの顔がゆっくりと私に向けられる。どこか困惑したように眉を下げ、いいや、と首を振った。
「それもあるのかもしれないけど。そうじゃない」
「……じゃあ?」
「イブ・アランは生きている」
「っえ?」
「あの日、頭を撃ち抜かれて死んだのは別の少年だ。少年の名はピーター・アリソン……キミの侍女の、弟だ」
マーサの……弟?
みぞおちを打たれたように、声も出せなかった。
彼の言葉がどこまで本当なのかはわからないけれど、しばらく何も考えられなかった。
「マーサ・アリソンの弟は……人違いで撃たれた。後ろ姿の背格好が、イブ・アランとよく似ていたんだ」
エイブラムは鎮痛な面持ちで語り、下唇をキュッと噛んだ。そのまま俯き、私にまた横顔を見せる。
驚くべきことはたくさんあるけれど、そもそも私は、イブの
ギ、と乾いた音を立て、静かに椅子を引いた。立ち上がり、彼を見つめる。まだ食事に手はつけていないので、無作法だと咎められる心配もない。
彼は困惑した様子で私を見上げ、眉をひそめた。
テーブルから離れ、私は彼の隣りに座った。大きな黒いフードに手を伸ばし、それを脱がせた。表情をよく見て話したかった。
「マリーン……?」
驚きと戸惑いの入り混じった瞳で、エイブラムが私を見つめた。くっきりとした二重まぶたで目の下に涙袋がある。大きなこの瞳を、私は知っている。
「そんな……っ、黙ってるなんてあんまりよ」
ハッと呼吸音がして、彼が息を飲み込んだ。膝の上に置かれた彼の手が不自然に動いた。
革手袋をした彼の左手を両手で握り、見てもいい、と目で尋ねた。
エイブラムは観念したように頷いた。まつ毛の影が頬に落ちた。
左手の手袋を外すと、思ったとおり、あの頃より大きくなった褐色の金魚がいた。手の甲に浮かぶ尾びれをふわふわと揺らして泳ぎ出しそうで、優美だ。
「あのころのあなたの
彼は自分の左手に目を落とし、「ああ、そうだ」とどこか泣きそうな瞳を細めた。
戸惑いから曖昧な笑みがこぼれた。込み上がる涙で、視界が少しだけ霞んだ。
「それじゃあイブは……ニックネームかなにかだったのね。すっかり騙されたわ」
「すまない……別に騙すつもりは」
「ううん、いいの。今の家にはどうして? 引き取られたということ?」
「そう。里親なんだ。とても良くしてもらってる」
エイブラムが少しはにかんだように笑った。唇の隙間から白い歯がこぼれる。美しい笑みだと思った。
「マリーン。キミのことはいつも気になっていたよ。キミに会えなくなってから一度あの生垣の向こうから名前を呼んだこともある。キミは気づいて応答してくれたけど……父親がすぐ側にいたから、それ以上声を上げることができなかった」
「ええ、覚えてるわ。あのときお父様が言ったのよ、あの少年はもう来ない、罰を受けたって」
目を伏せると、両目に溜まった涙が頬へとこぼれ落ちた。
「イブが……、生きていてくれて本当に嬉しい。でも、マーサのことを思うと私……どんな気持ちになったらいいのかわからない」
躊躇いのある手つきで、彼の指が頬に触れた。粒になって流れた涙を、慣れない手つきでそっと拭ってくれる。
「それは……。俺も一緒だよ。彼女に申し訳なくて……彼女が望んだことと俺の利害が一致して、キミを攫ったんだ」
マーサが望んだこと。その続きを聞くのが怖くなった。
きっとマーサは。お父様に復讐をしたい、そう思って生きてきたに違いないから。
***
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