扉のせいで見えないけれど、男の視線はベッドに向いているようだ。


 男の足が一歩二歩とここから遠ざかる。今朝も朝食を入れた紙袋を抱えているだろうから、それをテーブルに置いてから鍵を掛けにくるはずだ。


「マリーン?」


 男の背中を完全に捉えて、私はゴクリと唾を飲み込んだ。男はひとつきりの紙袋をテーブルの上に置いた。


 やったわ!


 扉が閉まるすんでのところで、私は手を伸ばし取手を掴んだ。と同時に、ぐぅぅ、と聞き慣れた低音が響いた。


 しまった、と思い、振り返る男と確実に目が合った。


 男が息をのむのがわかった。私は慌てて取手を引いた。部屋を飛び出し、全速力で駆け出した。


 男の足音はすぐには聞こえなかった。逃げ切れているのを確信した。


 石畳みの、少しだけ長い通路があって、階段が見える。階段を登り切った先に木製の扉が現れて瞬時に嫌な予感がした。


 ドアノブを掴み、ガチャガチャと回しながら押したり引いたりしてみるけれど、扉はびくとも動かない。


 うそ、ここにも鍵!?


焦ってドアを叩きながら「なんで」と力なく嘆くと、背後から平たいため息が聞こえた。


「悪いな。扉はひとつじゃないんだ」


 すっかり落胆した私と向かい合い、男が仮面の奥で青い瞳を細めた。


 怒っているでも笑っているでもなく、ただただ哀愁を帯びた瞳だった。


 スッと差し出される手を見つめ、私は観念した。革手袋ごしに男の手を取り、再び狭い部屋へと戻った。


「俺を出し抜いたことは褒めてやる」


 いつものように部屋を施錠し、男が紙袋から朝食を順に取り出した。


 ベッドに座ったとき、ようやくその痛みに気がついた。袖の中のものを取り除き、横に置く。


「っいたた」


 あらかじめ右の袖に仕込んでおいた陶器のカケラが腕を擦り、細く赤い線が入っていた。どうやら逃げようと躍起になっていたときに切れたようだ。


「は? 怪我をしたのか? 見せてみろ!」

「ちょ、大したことないわよ」


 男に腕を引かれ、少しだけ血の滲んだ箇所を見られる。ハァ、と嘆息が響いた。


「ちょっと待っていろ」


 そう言い残し、男が一旦部屋から居なくなる。数分もすると、解錠される音がしてまた戻ってきた。手には薬箱と思われる袋を持っている。


 全部自分が悪いんだけど、私はなんて間抜けなんだろうと思った。ベッドに座ったまま大人しく怪我の治療をされる羽目になった。


 右腕に白い清潔な包帯が巻かれた。「ありがとう」と一応、礼を言う。


「ったく。こんな無茶をするとは思わなかった。陶器の皿はだめだな。割れるものは全て撤収する」

「もうしないわよ」


 皿を割った理由を白状すると、男は心底呆れていた。食器類に関しては「木製に変えるか」とひとりごちていたけれど、ミルク瓶に関してはどう対処しようかと頭を抱えているようだった。


「さすがの私でも、瓶を割ったりはしないわ」

「いいや、信用ならないな。今後は三度ここへ来るか……しばらく監視してから帰ることにする」

「監視って」

「ヘマして酷い怪我でもされたらたまらないからな」

「そこまでドジじゃないわ」


 私はむくれながら椅子に座った。男が用意してくれた朝食にありつくことにする。今朝のりんごとパンも良質なもので美味しい。そのうえチーズまで用意されている。


「ねぇ」と男に声を掛けた。


「あなたに誘拐を頼んだのって、妹のクリスティーナじゃない?」


 ベッドに座る男が一拍あけてから口を開いた。


「なぜそう思う?」


 問いに対して、私は自身の考えを述べた。


 クリスティーナは私と違い、社交性に富んでいる。既に婚約者がいる上に、何人かの男性と交流もある。


 家のことや私個人の趣味嗜好を把握していて、なおかつ外の男性に誘拐なんて突拍子もないことを頼めるのは、妹のクリスティーナしかいないと考えていた。


「妹がそうかもしれないという理由はわかったけど……普段から妹とは不仲なのか?」


 不仲、とはっきり言葉にされてすぐさま首を振る。


「全然っ、そんなことないわ! ただ……お父様が話題になるときは、あまりいい雰囲気じゃないから」

「それは……どういう?」

「この間にも少しだけ言ったけど。お父様は私にだけ甘いの。お父様の態度はあからさますぎるから……そのことでクリスが私のことを良く思っていないかもしれないって。……そう、感じてて」


「なるほどな」と相槌を打ち、男が黙り込む。


 ーー『お父様って、姉様にだけは甘いわよね』


 ふいにあの日の朝に言われた妹の言葉を思い出した。


『姉様だけずるい』という明確な嫉妬心を向けられた気がして、悲しみのなかにどうしようもない歯痒さと申し訳なさを感じ、居た堪れなくなった。

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