男がテーブルにナイフを置き、ハンカチに包んだりんごを私へと運んだ。今度は「ありがとう」と言って受け取り、ひとつ、またひとつとりんごを咀嚼する。


 男は再び袋を探り、瓶詰めのミルクとパンを出した。それらをテーブルの上に放置し、別の袋から生活衣類らしきものを順に取り出した。


 私は膝の上に広げたりんごを食べながら、男の動作を目で追った。


 さっき私が調べた浴室へ入り、タオルや衣類を側の棚に置いている。使いやすいように浴室の前に置かれたカゴにも詰めている。


 もしかして。私が生活するためのものをそろえてる……?


 そのようにしか見えなかった。


「ねぇ」


 男から与えられたりんごを食べたことで、少しだけ恐怖心が和らいでいた。男が振り返る。


「今、屋敷はどうなっているの? お父様は心配しているでしょう?」


 男は何も答えなかった。


「身代金の交渉は進んでいるの? 私はいつになったらここを出られるの?」


 男は立ちあがり、首を横に振った。


「そんなことはしていない」

「……え」

「あの家と交渉などするつもりはない」


 一瞬、耳を疑った。「だって」と続けた言葉がいくらかかすれる。


「誘拐、なんでしょう? 私をさらったことであなたは何かを得たいんじゃないの?」


 少しだけ考える素振りをし、「そうだな」と男が答えた。


「だったら、私の身柄と引き換えに取り引きをするものでしょう?」

「欲しいのは金じゃない」

「……え?」

「そもそも、そんな目的でキミを連れ出したわけじゃない」

「でも」

「先に言っておくが……。キミを攫ったからと言って、俺がキミに何かをすることはない。キミに危害を加えるつもりもない。

 これは俺の意思でもあるが……。他人ひとに頼まれてしたことだ」


 自然と表情が固まるのを感じた。


 今、なんて言った?


「マリーン。キミはあの屋敷へは帰れない。理由は言わないが、今はここがキミの居場所だ」


 男はテーブルの袋に手を突っ込み、残りのりんごふたつと本らしきものを一冊取り出した。


「キミの屋敷ほど贅沢にはできないが……。最善は尽くす。ここでくつろいでほしい」


 持ち込んだ紙袋が空になったらしく、剥き終えてゴミになったりんごの皮が代わりに詰められた。果物ナイフは別の紙袋に包まれ、男の懐に仕舞われた。


 側にある戸棚を見つめ、「ここに食器が必要だな」と男がひとりごちる。


 そのまま出入口へ向かった。


 解錠される音が鳴り、私は咄嗟に駆け出した。


 そのままの勢いで、男の背中めがけて肩で体当たりをした。途端に足がふらついた。男は扉に置いた手で体を支え、微動だにしなかった。


 代わりに私の上体がぐらりと傾いた。男の手が私の腕を掴み、転びそうになるのをすんででまぬがれる。


「何のつもりだ!?」


 男は当然怒るが、あとには引けないと思った。


「離してっ、今すぐ家へ帰るんだから!」


 両手で男を押しのけて、扉から出てやろうともがく。やはりと言うべきか、私の力は難なく抑え込まれた。


 側の壁に両手を押しつけられたまま、男が低い声で言った。


「屋敷へは帰れない、と言ったよな?」


 脅しで足がすくみそうになるが、全力で反発する。私は仮面に空いた男の目をキッと睨みあげた。


「家にも帰れずこのままここで暮らすなんて冗談じゃないわ! そんな横暴を受け入れるほど、私は馬鹿じゃない! あなたが何をそろえてくれても、こんなところじゃ寛げない! ここは私の居場所じゃないんだからっ!」


 壁に押し付けられたままで言いたいことを言い切り、肩で息をしていた。男は目を細めた。


「大人しいと思っていたが、とんだじゃじゃ馬だったな」


 冷めた声だった。一瞬、不気味に笑うのかと思っていたが、男の声に怒りが滲んでいた。


「さっき言ったことを少しだけ訂正する。キミには危害を加えないと言ったが、やむを得ない場合には気絶させるぐらいの措置は取ることにしよう」

「……っえ、」


 そのままベッドへと腕を引かれ、そこでドン、と背中を押された。


「きゃっ!」


 悲鳴をあげて転んだ私を、仮面の目が冷たく見下ろしていた。


「マリーン、キミはここで暮らすんだ。いいな?」


 男は即座に背を向け、扉のハンドルを掴むと手前に引いた。そのまま扉の奥へと消えて唯一の出口が閉ざされる。


 ガチャガチャ、と施錠される音をどこか放心した気持ちで聞いていた。


 ***


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