2.軟禁と抵抗


「あなた……うちに来ている肉屋を装って忍び込んだのね?」


 呼び戻した記憶から、私は仮面の男の行動を詳細に思い出していた。


 男は肉屋のふりをして屋敷の外側を周り、通用口の辺りで待機していたのだろう。


 肉を運ぶための手押し車かなにかに入れて連れ去られたのかもしれない。


「記憶に問題はないようだな、安心したよ」


 フッと笑う気配がして、急に男が立ち上がる。上から見下ろされているのが恐ろしくて、私は居住まいを正した。


 男を慎重に見張りながら、そうっと上体を起こす。ベッドはちょうど壁に寄せてあったので、少しだけ後ずさってから背中でもたれた。


 寝転んだ状態の身体をさらして、男に変な気を起こされたら困ると思った。


 なにせ、仮面を着けているせいで表情がわからないのだ。無表情なのか笑っているのか、私になにかをしようと企んでいるのか。


 急に襲われるかもしれないと恐怖し、私はなんでもいいから話をしようと考えた。


「あっ、あなた。誘拐する人材を間違えたわね?」

「どうしてそう思う?」

「だって。あの家では私なんかより、妹や弟のほうが……ずっと優秀だから」


 男は少しだけ、首を傾げた。


「いいや。間違えてなどいない」


 男が私に手をのばした。黒い皮手袋をはめた人差し指を見て、肩がビクついた。黒い指は私の喉のあたりを差していた。


 唾とともに短く息をのむ。


「ローダーデイル伯爵の、ノエル・ラ・ミューレンが溺愛する娘がマリーンお嬢様だ。キミで間違いない」


 仮面に空いた穴から、男が目を細めているのが見えた。クック、と声をもらし、笑っているのがより一層不気味だ。


 背筋に冷たいものが流れ落ちた。男の挙動にゾッとして唇が震えそうになった。


 グッと奥歯を噛み締めて、私は恐怖をひた隠しにした。


「に、二、三日で……っ、帰してもらえる?」


 男は笑うのをやめて、再度首を傾げた。


「だって。誘拐、なんでしょう? お父様と身代金の交渉をして、それが済んだら帰らせてもらえるのよね、そうよね?」

「色々と準備がある。今はおとなしくしていろ」


 こちらの問いにはなにひとつ答えず、男は立ち上がりきびすを返した。室内から立ち去る気配がした。


「ねぇ、お願いっ、早く私を帰らせて!」


 男は出入口らしき扉を開けて、振り返ることもなく出て行った。やはり返事はなかった。


 ガチャガチャ、と外側から鍵を掛けるような音がした。


 見知らぬ部屋のベッドに座りながら、思考がぐるぐると周り、三角形を描いている。


 男がいなくなったことの安堵と、これから何が起こるのかの恐怖、そしてどうしてこうなってしまったのかという後悔の気持ちがない混ぜになって、私の目頭を熱くする。


 瞳に溜まった涙があとからあとからこぼれ落ちて、私はその場にうずくまり、嗚咽を漏らした。


 恐くて、悲しくて、悔しくてたまらなかった。


 なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?


 舞踏会の夜、男爵家の彼と出会って変わろうと決意したばかりだった。


 ミューレン家にとって、私は低脳でお荷物同然なのに、これ以上迷惑をかけたら見放されるかもしれない。


 私を甘やかすお父様だって……。


 そう考えたところで、ううん、と即座に思い直した。


 お父様は心配するに違いない。ママがいなくなった過去を思い出して、心労のあまり倒れてしまうかも……。


 もともとお父様は心臓が弱いのだ。この誘拐でお父様の身にもしものことがあったら、私は……。


 途端に胸が圧迫されるように苦しくなった。


 今起きていることと、これから起こる最悪のケースを想像し、体から血の気が引いた。


 お父様はママに捨てられたことで私への愛情が過敏になっている。


 普段から私のお世話を任されているマーサは、私から離れたことで、何か咎めを受けたりはしないかしら?


 たとえばクビにされて屋敷を追い出されたり……、なんてことになったりはしない?


 仮面の男が身代金の交渉を済ませて、無事に屋敷へ帰れたとしても、今ここにいる時間が長引けば、私の居場所はなくなるかもしれない。


 お母様とは血のつながりがないし、妹や弟とは異母姉弟いぼきょうだいなのだ。


 唯一心を許せる侍女とお父様が、あの屋敷からいなくなってしまったら、私はひとりぼっちになる。


 そんなの、耐えられない。


 仮面の男がもう一度この部屋に現れたら、お父様が無事かどうかを確かめよう。そして交渉も早めに済ませてもらおう。


 私はなにがなんでも、あの屋敷に帰らなくちゃいけない。



 **


 幼いころは自分と歳の近しい遊び相手がいなかった。


 広い屋敷を探検してまわって、時には使用人たちを巻き込んでかくれんぼをしたこともあった。


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