「ごめんなさい、マーサ。私の部屋からさっきの本を取ってきてもらってもいいかしら? 赤の表紙の……」

「もちろんです。すぐに戻って参りますから、お嬢様はゆっくりとお寛ぎくださいね」

「ありがとう」


 お茶をしながら読書しようと思っていたのに、うっかりしていた。マーサが立ち去るのを椅子に座ったままで見送ってから、物憂いため息がこぼれた。


 次に舞踏会があるとしたら……今度はちゃんと最後までいよう。


 あの方に会える保証はないけれど。自分から交流の場に飛び込んでいかなければ、きっと彼とも出会えない。


 自信のなさから、今までずっと落ちこぼれのレッテルを受け入れてきたけど……私は変わらなくちゃいけない。


 男爵家では、もしかしたら良縁ではないのかもしれない。でもお父様ならきっと許してくれる。


「だからもう一度……彼に会えますように」

「誰に会いたいって?」


 ぽつりと漏れたひとりごとだった。それに返事が返ってきて、いくぶん慌てた。


 持ち上げたカップを皿に置き、首を振って周囲を確認した。


 すると少し離れた通用口の扉を背にして、ひとりの男が立っていた。


 顔は俯けているので分からないが、行商人のような格好をしている。


「あなた、だれ……?」


 座っていた椅子から恐々と立ち上がり、私は男と対峙する。男は恥ずかしそうに下を向いたままで私との距離をつめた。「単なる肉屋ですよ」と返事がある。


 声が怪しく、くぐもって聞こえた。


 心音が不規則になり、脳に警鐘が鳴り響く。


 一刻も早く、この場所から立ち去らなければいけない、そう分かっているのに、背後のテーブルに体を預けるのが精一杯で、足がすくんで動かない。


 手を伸ばせば触れられる距離まで近づいたとき、突然男が顔を上げた。


 ひゅっ、と喉から細い息が抜けた。あまりの驚愕に悲鳴すら出なかった。


「ご機嫌いかがですか? 麗しきマリーンお嬢様」


 肉屋の男は、顔に白い仮面を着けていた。無表情の、のっぺらぼうを思わせるつるりとした仮面を。


 ふくみ笑いをした言い草に、仮面の下ではニタリと笑っているような気がした。


 ハッハ、と短い吐息がこぼれた。この男は危険だと瞬時に察知して鳥肌が立つ。


 テーブルに置いたカップを投げつけてやろうと後ろ手で探り、カチャンと鋭い陶器の音が鳴る。


「っあつ!」


 うまく掴めなくて手に紅茶がこぼれた。引っ込めた指先で耳たぶをつまむが、少々のやけどに構っている暇はない。


 慌てて振り返り、ティーポットを両手に掴んだとき、首の後ろに重い打撃を受けた。


 あっという間に視界が霞んで見えなくなる。


 なすすべもなく、私はそのまま意識を手放していた。


 ***

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