1.日常とコンプレックス
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不気味な男に囚われた前日の朝へと、私の記憶は巻き戻る。
その日は起きて早々、不定期で見る夢に悩まされていた。
怖くて辛い内容の悪夢に、正直うんざりする思いだった。目尻からこぼれた涙の跡を拭いもせず、ベッドから起きだし、窓辺に立った。
サイドテーブルに置いておいた紫水晶のブローチを持ち上げる。少しだけカーテンを開いて陽にかざすと、白い壁に光の粒が舞った。
淡く輝く紫色を見つめて、そのときは平静さを取りもどしたつもりだった。
*
「マリーン! またなの? これで何度目のミスかしら。あなたといったら変な癖がついてしまったせいで、ミスタッチが多すぎるわ。それに十二小節目を飛ばして弾いたでしょう? もう少し気を引き締めてちょうだい!」
「……はい。すみません、ローランド先生」
「だいたい姿勢がよくないもの。……そうね。頭にこの分厚い本を載せて立つことから始めなさい」
今日はもう弾かなくていいから、と続け、私はピアノの前から遠ざけられる。手には厚さ七センチほどもある古い教本が一冊。
肺にたまった重苦しい息を吐きだしたとき、ポロンと軽快な音色が五線譜をなぞるように流れてきた。
さっきまで私が弾いていた曲と同じものだが、調子はまるで違っている。はじけるような音を奏でるスタッカートも、そのあとにつづく音符をつなぐスラーも完璧だ。ちゃんと楽譜通りに弾いた上で、自分だけの音色に仕上げている。
「クリスティーナは今日も完璧ねぇ。その才能の半分でもお姉さんにあれば良かったんだけど」
「ありがとうございます、ローランド先生。けれど、姉も頑張っています」
「あら。頑張ることなら誰にでもできるのよ、クリスティーナ。伯爵令嬢にしかるべき教養を、とお母様から言い渡されていますからね」
あなたは優しいこね、と言って微笑み、先生は妹の頭をなでた。
私は固く重い教本を頭に載せたまま、楽しそうに会話をするふたりをながめていた。
ピアノは苦手だ。
ううん、ピアノだけじゃない。令嬢が身につけるべき教養というものが、どうにも頭に入ってこない。
勉学は教本を読むより、講義を聴いて覚える耳学問を主流としていて、うっかり集中力がとぎれたら何が何やらわからなくなる。
裁縫や乗馬、ダンスといったお稽古事に関しても、同じところで何度もつまづき、なかなか上達しない。さっきのピアノがいい例だ。
「姉様はなにごとにも慎重で臆病すぎるのよ、エイッて勇気をだしてもっと要領よくやらなきゃ」
四歳下の妹はそう言っていつも無邪気に笑う。そうね、と同意して笑うのが精一杯だ。
私には妹のほかに弟もいる。五歳下で、今日も騎士になるための訓練を宮廷で行うため、家を空けているはずだ。
「元気をだして? まさかそんなしょぼくれた
「そのことなんだけど、クリス……私やっぱり今夜は」
「だめよ。ミューレン家の長女が舞踏会に出席しないなんて、そんなことあってはならないわ。ぜったいだめ。お父様とお母様が恥をかくもの。それに姉様は……みてくれは美人なんだから、堂々と胸を張っていればいいの」
「ええ」
舞踏会も苦手だ。社交界デビューを果たしたのは、もう七年も前のことだが、結婚を申し込まれたことはただの一度もない。お父様やお母様から縁談を持ち込まれたこともない。教養の身につかない低脳な私は、だれにも選ばれない。
胸のあたりが苦しくなって、息を吐きだしたとき、血まみれで倒れる少年の映像が一瞬だけ頭のなかに浮かんだ。背筋がひやりと寒くなる。
悪夢はいまだに消えてくれない。
さっき。ピアノの鍵盤と向き合っているとき、朝に見た夢の映像をふと思いだしてしまった。
右手の中指でソの音を弾いたとき、乾いた発砲音が頭のなかで轟いた。
黒い銃口が狙っているのは少年の頭。真っ直ぐ飛んだ弾丸が少年の頭を打ち抜き、少年は地面に倒れる。
半開きの目には涙。左手の甲には金魚に似たあざがある。自分がその日、銃で撃ち殺されることになるなんて、夢にも思わなかっただろう。
呼び戻した記憶の映像が恐ろしくて、十二小節目を飛ばして鍵盤をたたいていた。
実際のところ、私がその現場を見たわけではない。まだ六歳という幼さだったので当然だ。幼女の私は、起きた事実を人づてに聞き、勝手に頭のなかで創りあげた。
銃で頭を打ち抜かれた少年の映像も、地面を赤く染める血の海も、私の想像でしかない。けれど少年が死んだのは事実だ。
少年の名前は、イブ・アラン。当時、私と仲良くしてくれたお友達だった。
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