第26話 帰宅
何かが胸に巻きつきぐっと体が持ち上げられる。
ぐうっ。苦しい。
首じゃなくて胴体を折りにきたか。
メキメキと音を立てて胸郭が破壊される衝撃に備えたがいつまで経っても押しつぶされる感覚がしなかった。
なぜか背後に強く風が当たるような感覚がする。
あれ?
もう実は俺死んじゃった?
固くつぶっていた目を開けると俺は海面から10メートルほどのところを後ろ向きに飛んでいる。
離れたところにある砂洲で焚火が燃えているのが見えた。
その近くには大きなカニが爪を振り回している。
どういうわけか分からないが俺は危機を脱したらしい。
気が付けば内股が濡れていた。
あー、恐怖のあまり漏らしちゃったか。
30過ぎて失禁するなんて恥ずかしすぎるが、今は他に確認すべきことがある。
胸に手を当てようとすると見えない何かが両脇の下を通って胸の前に回されており俺を釣り上げていることが分かった。
なんとか首を捻って何が俺を引っ張っているのか確認しようとするが、ちょっと前かがみよりの姿勢のせいなのか全く見ることができない。
体ごと捻ろうとしたら声が降ってきた。
「コーイチ。飛びにくいから動かないでくれる?」
この声は……。
感動で胸が一杯になる。
「ギサール様!」
「大きな声を出さなくても聞こえているよ。あともう少しだから我慢していて」
ほうっと安堵の息が漏れた。
これでもう大丈夫だ。
安心すると同時に両目から涙があふれ出す。
なんとか泣き止もうとするが止まらず、嗚咽の声も漏らしてしまった。
鼻水も出て酷い有様となる。
だらんと吊り下げられたまま、俺は夜空で静かに泣いていた。
情けないという思いと、助かったという安心感が交互にやってきて情緒がぐちゃぐちゃになる。
しばらくすすり泣いて、ようやく、俺は他の人たちがどうなったのか聞き出す余裕ができた。
「ギサール様のお怪我は? ソフィア様たちもご無事で?」
鼻声で聞き取りにくい声を出す。
「うん。みんな無事だよ」
「ああ。良かった……」
かなりのスピードで飛んでいたのが減速し、空中で停止した。
ひょっとするとギサール様の魔力が尽きそうになっているんじゃ?
「ギサール様。負担なら私を投棄してください」
返事はなくすうっと高度が下がると俺は海水にちゃぽんと浸かる。
波がざばんと顔にかかった。
手で顔を拭う暇もなくまた空中に釣りあげられる。
先ほどよりはゆっくりなスピードで飛び始め、すぐに眼下には陸地が見えるようになった。
灯火も見えて、ポートカディラの上空にいることに気が付く。
「はい。お疲れ様。到着だよ」
その声と共にみるみるうちに地面が迫って俺は両足から着地していた。
脇の下から見えない何かが引き抜かれる。
全身からポタポタと海水を滴らせながら振り返ると、別荘の玄関から漏れる光の中にギサール様が立っていた。
心持ち首を傾けた姿勢で心配そうに俺のことを眺めている。
厚い革のコートを着込んでいるギサール様は、額へゴーグルのようなものを押し上げた。
目元が灯りを反射してキラリとしたのは気のせいだろうか。
ギサール様はふんわりとしたいつもの笑みを浮かべる。
「コーイチ。お帰り。空を飛ぶときにその格好じゃ寒かったでしょ?」
振り返って玄関に集まる人々に問うた。
「お風呂の準備はいいよね?」
さあ、さあとギサール様が俺の背中を押す。
「ギサール様。濡れてしまいます」
「いいから、いいから」
玄関に屯していた人々が左右に別れた。
その中にはソフィア様もいる。
「ギサール」
「お姉ちゃん。ただいま。お話はお風呂の後でいい? それとも一緒に入る?」
無邪気に聞いているが、ソフィア様は呆れた顔をした。
「もうそんな子供じゃないでしょ」
「それじゃあ、後でね」
転々としずくを垂らしながら歩くのは申し訳ないが、大人しくギサール様の後をついていく。
別荘の使用人たちが優しい目で見てくれているのが救いだった。
頭の後ろに手を当てて心持ち屈め左右に恐縮そうな顔を向ける。
廊下を抜けて別棟へ続く扉のところへと着いた。
前に出ようというのを制止されギサール様が開けてくださる。
「今はそういうのはいいから」
短い渡り廊下を抜けて別棟の扉を抜けると暖かい空気に包まれた。
ギサール様はさっとコートを剥ぎ取ると、下の衣類も脱ぎ始める。
「はい。コーイチも脱いで。風邪ひいちゃうよ」
手の指をかぎ爪状にして笑みを浮かべた。
「早くしないと僕が脱がしちゃうぞ」
指をわさわさと動かす。
「わ、分かりました。自分でやります」
海水に浸かって肌にまとわりつく服を脱ぐ。
その間にギサール様は素っ裸になって棚からタオルを2枚取って1枚を腰に巻いた。
もう1枚を手渡してくれるので俺も腰に巻く。
「脱いだのはその辺りに置いておけばいいからね。それじゃ行こう」
ギサール様に文字通り手を引かれて浴室に入った。
浴室といっても日本のように湯船があるものではない。
いわゆるサウナのようなものだった。
湿度の高い暖かい空気が体にまとわりつく。
サウナと称したがそこまで高温ではない。
熱帯植物を育てている温室に温室に入ったぐらいの温度だった。
空を飛んで冷えた体に心地よい。
端に立つ彫刻の持つ水瓶からお湯が出ていた。
そこの下に行って髪の毛を洗う。
潮水でごわごわになり砂もついていたのがさっぱりした。
「生き返ったような顔をしているね」
ベンチに座っているギサール様が目を細める。
あ、そういえばまだ助けてもらったお礼を言ってなかった。
片膝をつく。
「言うのが遅くなりましたが、危ないところを助けていただきありがとうございます」
「間に合って本当に良かったよ。そうじゃなかったら自分が許せないところだったから。あ、そんなとこにいないでここにおいでよ」
ギサール様はぺちぺちと自分の座っているベンチの横を叩いた。
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