第17話 名乗り

 店番の男性は震えながらもアンジェの後を追おうとする。

 ナプキンで口を拭いて立ち上がったギサール様がそれを止めた。

「僕が代わりに出るよ。その間、お昼の見張りをお願い。鳥が持っていっちゃいそうだから」


 扉を抜けて建物の中に入っていくギサール様を俺も追いかける。

 ぶっちゃけギサール様の手に負えない事態というのは考えにくいし、もしそんなことになったら、俺にできることはほとんどなかった。

 まあ、体は大きいのでギサール様へ飛んでくる何かを代わりに受け止めるということぐらいはできる。


 俺は一応注意喚起をした。

「あまり首を突っ込まない方が良くないですか?」

「どうして?」

「コーネリアス家の評判というものもありますし」


「困っている人を助けて評判が悪くなるなんてありえないでしょ。それに僕はアンジェさんも気に入っているからね」

「そこまで仰るなら」

「でも、コーイチをアンジェさんに譲るつもりはないよ」


 話を続けようとしたところで、ギサール様がプライベートゾーンとお店を分けるカーテンを潜り抜ける。

 俺もすぐ後に続いた。

 なんだ、この香りは?


 頭をぶん殴られそうな濃厚な薔薇の香りが鼻を強襲する。

 次いで真っ赤な薔薇を抱えた男の姿が目に入った。

 一抱えもありそうな薔薇の花束に埋もれるようにして立っている男はにやにや笑いを張り付けている。


 首とつく体のあちこちにじゃらじゃらと金のごつい鎖をつけているところから、金持ちだということが知れた。

 体に巻き付けている布の端が赤く縁取りされていることから同時に貴族であることも読み取れる。


 アンジェは腰に両手を当てて険しい顔をしていた。

「私は商品は売っても私自身は売らないよ」

 あー、なるほど、そういうことね。

 状況は理解したけれど、あまり子供に聞かせたくないな。


 鎖じゃらじゃらマンの横に控えた骸骨みたいな痩せこけた男が返事をする。

「お前はまだ状況が分かっていないようだな。こちらにいらっしゃるナジーカ様がお前のような境遇の女のためにわざわざ花束をもってこられたのだぞ。跪いて感謝の言葉を述べるのが道理というものだろうが」


「そういうのは迷惑だからやめてくれと言っているんだよ」

 アンジェが応じると骸骨男は唇をゆがめた。

「つけあがるのもいい加減にしろよ。ナジーカ様がその気になれば、こんな吹けば飛ぶような商売ができなくなるようにすることなど朝飯前なのだからな」


 ナジーカが腕を上げて骸骨男を制する。

「やめよ。お前は何も分かっておらぬ」

 骸骨男は膝をついて身を震わせた。

「申し訳ございませぬ。ご主人様」


 ナジーカはたるんだ頬を震わせてアンジェに話しかける。

「下賤の者であるから、我が腕に抱かれるのをためらうのであろう。我は心が広いからな。そのようなこと気にする必要はないぞ。ま、世間体というものもあるでな、妻というわけにはいかぬが、ちゃんと妾として迎えてやる。なんの不足もあるまい?」

 にちゃりと音のしそうな笑みを浮かべた。


 アンジェは盛大なため息をつく。

 数度深呼吸をすると骸骨男に向かって叫んだ。

「あんたのご主人様を連れてさっさと店を出ていっておくれ。私もこの後に用事があるんだ。いつまでも居座られると迷惑なんだよ」


 チラとギサール様を窺うと腰の辺りで親指を立てている。

 やれ。

 昨日ありがとうの他に取り決めた合図だ。

 了解であります。ギサール様。

 俺はずいと前に出るとアンジェに加勢した。


「そうだぞ。お前は我が主の貴重な時間を奪っている。これ以上邪魔をするようなら後悔することになるぞ。お前の主ともども速やかに退去するがいい」

 くそ面倒くさいが貴族様の許しなしに直接話しかけることは不敬にあたる。

 なので、従者である俺はナジーカの従者相手にしゃべらなければならない。

 

「なんだ。我が主のナジーカ様を知らぬとはこの田舎者めが。ナジーカ様はカヘナ・ヌオヴァの長官であらせられるぞ。控えろ」

 アイラ島に一番近い本土側の町がカヘナ・ヌオヴァである。

 こんな絵に描いたようなエロ親父が長官とは住民も気の毒にな。

 しかし、ただの貴族が横恋慕しているだけと思ったら、ちょっと事態は深刻である。


 アイラ島は領内ではないがカヘナ・ヌオヴァは密接な関係にあり、そこの長官に睨まれると確かに商売はしづらくなるだろう。

 さっきの骸骨男のセリフはこけおどしじゃなかったわけだ。

 ナジーカは舌を出して唇を舐めている。

 もう、アンジェを手に入れたつもりでいるのだろう。


 俺は息を吸い込む。

「それがどうした?」

 骸骨男は虚を突かれた顔をしていた。

 ナジーカも顔をしかめている。

 あくまで皇帝に命じられた官吏であるとはいえ、長官の統治権に楯突かれることはそうそうないだろうからな。


「お前の主が何者であろうと知ったことではない。皇帝陛下でもあれば別だが、我が主の時間を奪う理由にはならぬ。ギサール・ウル・エスタ・コーネリアス様はこれからアンジェ殿とお過ごしになられる。これ以上邪魔立てするようなら容赦はせぬぞ」

 俺が恭しくギサール様の正式名称を口にするとギサール様の腕にはめた腕輪が淡い光を放った。


 コーネリアス家の相続権を有する長子以外の男子。

 ちなみに俺のことを罵った姉上はソフィア・ネス・エスタ・コーネリアス、コーネリアス家の嫡出の長女ソフィアとなる。

 いずれにせよ、都を遠く離れた場所の田舎貴族出の長官なんぞよりははるかに立場が上なのだった。

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