24.混迷
それから数週間の間に、望美の容態は順調に回復し、日常生活はほぼ普通に出来るようになった。幸路は依然、混沌としていたが、少しずつ、今までの事を望美に話した。望美は幸路の話の途中、何回も泣いた。そして、望美が回復するにつれ、幸路は、望美との今後の事を考えていた。お互いに15年に渡る苦難の後の再会で、よりを戻せるだろうか。別々の路を行かざるを得ないだろうか。そして、美世里のことはどうしたら良いのか? だが、何も良い考えは浮かばなかった。
ある時、望美が一人で買い物に行ったのだが、その帰り、アパートの階段を上っている時に、急にふらふらとして段を踏み外し、転倒した。大きな音がしたので、部屋の中に居た幸路は気になって外に飛び出すと、望美が倒れていた。幸路は慌てて119番した。望美は救急車で、再び慈恵医大第三病院に運ばれた。幸路が駆け付けた時には、息も絶え絶えで、「美世里を......」と言って息を引き取った。脳内毛細血管の出血に伴う障害と言われた。これは、暴行事件の時の頭部打撲に起因するが、非常に小さい血管なので検査では見つからずに進行してしまったのだろうと言われた。
望美の死は、幸路に、右波や左波の時のような絶望感はもたらさなかった。だが、今まで以上に複雑な気持ちを起こさせた。望美が限りなく哀れに思えたし、その理由の一端を担った自分がひどく邪悪に思えた。
あの時、俺が貫太を滞在させなかったらこんなことにはなっていなかったはずだ。あるいは、俺にもう少し分別と忍耐があったなら。そして、望美は自分の体を張ってまで、一人で美世里を育ててきた。たとえそれがうまくいかなかったとしても、俺の無責任な行動に比べたら、それは勇敢だし尊敬さえすべきことかもしれない。それにしても、もし俺が右波あるいは左波と幸せな暮らしを続けられていたとして、その最中に、哀れな望美と美世里の事を知ったら、どう感じただろうか? どうしようもない罪悪感に駆られたのではないか? と言うことは、右波、そして左波との幸せな時でさえ、俺の汚点が陰に潜んでいたと言うことか? もしかして、それが何の罪もない右波と左波を禍に巻き込んだのかもしれない。そうだ、右波と左波は、俺に出合いさえしなければ、あんなに若くして死ななくても済んだはずだ。そう思うと無性に辛い。それに......、ひょっとすると俺の欠陥はすでに、望美との生活の間にも現れていたのか? まさか、それで望美が浮気を? どう転んでも、辛いだけではないか?
そして、幸路がその頃考えたもう一つのことは、自分の両親のことである。老人ホームに移ったことは分かった。すでに、それから随分と経っている。どうしているだろうか? 今や、自分の娘が家出中の状態で、自分自身が親に現状や居所を伝えていなかったというのは何とも罪なことだ。おそらく、こんなことだから、俺の周りで不幸ばかり起こるのだろう。これは、すべて俺のせいかもしれない。それでも、なかなか連絡出来ないでいたが、ある日、思い切って電話してみた。だが、その電話番号はもう他の人に使われていた。それで、老人ホームの番号を調べて、そこに掛けてみた。事務員の話では、数年前の流行性感冒の時に父親が亡くなり、その後、母親はすでに患っていた認知症が急に進行し、近くの特別養護施設に移ったと言うことだった。
幸路は、その特養の電話番号を教えてもらい掛けてみた。丁度、フロア担当の相談員が居て、話してくれた。
「大変言いずらいのですが、お母さまは4か月ほど前に亡くなられています」
「そうでしたか......」
「入所時から認知症はかなり進んでいて、すでに亡くなられていた配偶者の事も分からない様子でした。ところが、ご自分がもう生きていたくないという意志だけは非常に強く、食事を全く受け付けてくれないのでした。私たちは全力を尽くして、食事を召し上がっていただくようにしました。また、担当医と共に胃ろうを勧めたのですが、頑として受け付けてくれませんでした。残念ながら、ご家族とも連絡が取れず、最終的には栄養失調で亡くなられてしまいました。誠に申し訳ありません」
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。大変お世話になりました」
幸路は思った。遅かったか。何と言うことか! いずれにしても、どうして俺の周りの人間はみな死んでしまうのか?
しかし、その途端に、いや、待てよ、まだ美世里がいる、と気が付いた。それにしても、まだ一度も会ったことのない娘の美世里の不幸に対して、自分にも責任があるということが、耐え難かった。そして、美世里が戻って来るかもしれないという気持ちから、マンションを維持する必要があると思った。幸か不幸か、幸路は望美と離婚していなかったので、マンションを相続することが出来た。ただ、マンションの改築積み立て金がかなりの額のため、狛江のタクシー会社に移って仕事を再開した。同時に、少しずつ美世里の捜索を始めた。初めは近所を歩いて回っていたが、後に自転車を購入し、狛江市内、そして近隣の市区と捜索範囲を広げていった。それにしても、幸路の持っている情報は与野瀬美世里という名前と、マンションに残っていた小学校の卒業写真だけである。それに、左波の捜索の時から自明のように、幸路にはそういった才能がない。それで、依然、手掛かりはつかめなかった。
その後も、幸路にとって辛い日々は続いた。そして、折を見ては、近くの野川沿いを歩き、また、時には多摩川まで足を延ばしたりした。だが、それは、迷える者の歩き方で、到底、歩行禅と言えるようなものではなかった。将来の見通しがなく、尚更、今までの出来事を振り返っていた。望美と貫太のこと。右波と左波のこと。自分の両親と美世里のこと。そして、真夜のこと。そんな中で、いつも辿り着く疑問は同じだった。俺はほんとに幸せな路を歩むように生まれてきたのだろうか? これから何を拠り所にしたらいいんだ?
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