6.渋滞
幸路が運転を始めてもう何年も経った。その間に、経済的には安定してきたため、会社の人に保証人になってもらって、アパートに移った。それ以外は、特に変わった事もない日々だった。それでも、過去の事を忘れたわけではない。毎日のように望美の事を思い出してはいた。また、多摩川沿いを歩いている間に、凄く落ち着いた気分になり、望美に電話をしようと思ったことも何回かあった。
ある日の夕刻、いつものように羽田空港で乗客を待っていた。自分の番になると、一人の女性が乗り込もうとした。動作が非常にゆっくりで、ドアや座席に手を触れながら、ほとんど手探りという様子で乗り込もうとしている。気になって後ろを振り向いた時、幸路はドキッとした。まず初めに目についたのは、その女性の顔である。顔面の右側の一部が火傷の痕のようになっている。そして、両目とも閉じており、片手には小さな旅行鞄を、もう一方の手には白い杖を持っている。幸路は思わず、
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。その女性は、
「大丈夫です。目が見えないので、すこし時間がかかりますが、我慢してください」
と言った。
女性が完全に乗車して、幸路がドアを閉めてから尋ねた。
「どちらまで?」
「狛江までお願いします」
「狛江のどの辺でしょうか?」
「市役所の辺りへ行ってください」
「分かりました。この時間少し混雑していると思いますが、高速を使ってよろしいですか?」
「はい、お願いします」
首都高に入ると、幸路にも予想以上の渋滞だった。ほとんど前に進まない状態であった。
「お客さん、申し訳ありません。予想以上に混んでいました。すぐ近くには出口がないので、暫くこのままの状態が続くと思います。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。気を使ってくださってありがとうございます。うちは高知の田舎から出てきたので、こんなにたくさんの車を見るのは初めてです」
幸路は、あれ、目が見えるのかな? と思った瞬間に、追加の言葉があった。
「失礼しました。もうお分かりと思いますが、目は全く見えないのです。それでも、音とか振動とかには随分と敏感なので、周りの状態は見えるように分かることも多いのです。それで、時々『見る』と言ってしまうのです」
「そうですか。それでは、私なんかが見逃しているような事が分かるんですね」
「時には目が見えなかったために素晴らしい経験をすることもありました。当然、たいへんなこともありましたけど。うちの顔の火傷の痕は母がガス台を使っていた時に誤って油がかかってしまったためなんです。その時はそれは大変でした。それ以来、母は揚げ物はしなくなりました。うちの顔を見てすぐに気が付いたと思いますが?」
「確かに、お客さんの顔を見た時はドキッとしました。それは、慣れてないための驚きだったと思います」
「あなたは正直な人ですね。うちの顔を見て『ドキッとした』とはっきり言ったのは、あなたが二人目です。もう一人は、比較的最近うちの母の葬儀をして頂いたお坊さんでした。そして、そのお坊さんもあなたも、そう言った時にみじんも醜いとか耐えられないと言った自分の価値観を加えていないようで、救われます」
「多分、私にはロクな価値観はないと思いますが。それより、お母様の事はお悔み申し上げます」
「ありがとうございます。母は苦労してきたので、今ごろ、ほっとしているかもしれません。そして、死ぬ前にうちが今まで知らなかったことを教えてくれました。うちに双子の妹が居ると言ったのです。そして、その妹は養父母と共に東京の狛江という所に居るはずだと教えてくれました。それで、うちはその妹を探そうと思って東京に出てきたんです」
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