5.先輩
タクシーの運転手は比較的孤独な職業だ。それでも、出車前後に同僚と話をすることはある。ある日、幸路が車から出た時に少し年配の女性運転手から声をかけられた。
「あんた、新入り?」
「はい。与野瀬と言います」
「そう? アタシは真夜」
「真夜さん、随分珍しい名前ですね」
「結婚した相手のせいだよ。まぁ、あいつが普通じゃなかったのは、名前だけじゃなかったけどね」
「どうしたんですか?」
「まぁ、浮気と言えば浮気かな」
「えっ?」
「そうだよ。人は、なんで浮気なんかするんだろうね」
「ほんとに、なんで! で~......、実は、僕も......」
「そうでしょう。よくある話だよね」
「その~、妻と二人で暮らしていたアパートに友人を滞在させたことが間違いでした」
「そうなのぉ」
真夜に何となく親しみを感じ、幸路は今までの経緯を話し始めた。途中で、何度も当時の感情が蘇り、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪に陥ったりした。真夜は相槌を打ちながら親身に聞いてくれた。幸路が言葉に詰まると、幾らでも待ってくれるが、時には、「それは何某と言う意味?」等と確認を入れてくることもあった。大体話し終った時、幸路は何故かほっとしたような気がした。今思えば、家を飛び出してから、誰にも自分の感情を打ち明けていなかったのだ。
真夜は何度も頷いていたが、ポツリと言った。
「でもさぁ、考えようによっては、怒る相手が居ると言うのは......、ひょっとすると......、割り切れて、良いことかもしれないな」
「えっ?」
「これは、アタシの場合だけど、あいつの浮気の相手は実在しなかったんだよ」
「えっ?!」
「最初は、出張と言って、連日家を空けたりしたんで、アタシは実際に相手がいると思い込んでいた。ところが、ある日偶然に、あいつがコミックの女主人公と熱烈な『会話』をしているのを聞いたんだよ。当然、一人芝居なんだけど、あいつは本気だった。アタシも、初めからあいつが彼女のファンだということは知っていた。何十巻もある本をすべて持っていたし、最新刊が出るとすぐに買いに行っていた。だけど、まさか、あいつの『浮気』の相手が彼女とは思いもしなかった。兎に角、あの会話は普通じゃなかった。それに、あいつの『出張』と言うのは、実は、彼女と『実際に』出会うために、コミックに出てくる場所、ありとあらゆるところに行っていたんだよ。それに気が付いた時は、架空の人物と格闘していた自分に呆れた。なんだか、自分が、風車を敵の巨人と思いこんで突進したドン・キホーテのような気がしたよ。それで、あいつを精神科に連れて行ったら、案の定、かなりの重症で、即刻入院した。そして、入院中に狂乱死してしまったんだ」
「え~っ!」
「その後は、怒りよりも、悲しさよりも、何とも言えない虚無感が漂ったよ。後から聞いた話では、あいつの母親も精神症で入院したことがあったそうだし、どうやら、血筋にあったらしい。その後、アタシは働かなくてはならなくなった。他に出来ることもなくて、この仕事を選んだ。その頃は女の運転手は珍しかったから、ちょっと強気にならないと、と思って、話し方まで変えたんだよ」
「へ~、そうだったんですか」
「まぁ、昔の話だし、仕方がないよね。それからは、運転しているうちに何か良いことがあるかもしれないと思って、ずっとやって来た。でも、アタシの場合、一向に良いことは起こらなかったね。そしたら、いつの間にか、こんな年になってしまったよ。ハッハッハッ! でも、あんたはまだ若いから、何か良いことあるんじゃない」
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