4.決心

翌朝、幸路は24時間喫茶を出て、3時間程歩き、大田区、京浜東北線の鉄橋付近まで来た。その後、更に少し進んで、とうとう多摩川の河口近く、羽田空港の手前までやって来た。もうこれより川下には行けない。どうしようか。何かを考え出そうとしても、結局頭の中にあることは今まで同様、完全に堂々巡りで、一向にらちが明かない。その時、また、最初の彼女と別れた後の事を思い出した。あの時、俺はもう立ち直れないと思ったが、それから何年か経って望美に出会ったのだ。おそらく、今も、もう少し時間が必用なのだろう。そうしたら、時間が解決してくれるに違いない。今更逆戻りせずに、全く新しい生活を始めよう。それが俺の性分だ。そうしたら、何とかなるだろう。


幸路は、そのすぐ後に携帯を多摩川に投げ捨てるかのように見えた。ところが、どうしたことか急にその動作を辞めた。まず、携帯電話のすべての個人情報を消去した。その後、少し歩いて、最初に見つけた電化製品店のリサイクル品回収箱に携帯を投げ込んだ。そして、「これで良し」と独り言を言った。


多摩川沿いに来れるところまで来たので、幸路はこの辺で取り合えず滞在出来るところを探そうと思った。あたりを歩いていると、電車の線路沿いに簡易宿泊所があり、そこを借りの住まいとすることにした。そこを拠点に、日中は毎日のように多摩川の河原に行って、川沿いに行ったり来たりした。また、時には街中を当てもなく歩き回ることもあった。そして、一週間ほど経った頃に、タクシー運転手募集の看板を見つけたので事務所に入ってみた。仕事に必要な二種免許は会社の補助で10日程で取れる。そして、すぐに社員寮に入れるという。また、住民票を移さずに、住所が確認できる郵便物で運転免許証の住所変更が出来るということも知った。幸路は望美に居所を知られたくなかったので、これは好都合と思った。


それに、幸路は両親にも連絡しなかった。そんなことをしたら、これからやり直そうとしている俺の気持ちに水を差すだけだ、と思ったからだ。そんな状態は、水入らずの親子には想像できないであろうが、幸路の場合、それほど驚くことではなかった。幸路と両親との関係は劣悪ではないが極めて疎遠である。これは、望美とその両親の関係も同様であった。結婚する時、一応二人で両家に挨拶には行ったが、親類縁者を招待するような結婚式はせず、友人を集めて飲み会をしただけだ。極端な言い方をすれば、駆け落ち的な結婚で、その後は二人とも両家にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。


そして、その頃は、羽田空港が沖合に移転した直後だったので、タクシー会社も活気があった。近いので、幸路も自然と羽田で待機することが多くなった。ただ、タクシーの仕事は体に良くない。それで、幸路は出来る限り歩くことで運動とすることに努めた。良く行くところはやはり多摩川の河原だ。幸路の性格上、今だに過去の事を思い起こして怒ったり、悲しんだりすることは多い。それでも、四六時中そうしている訳にもいかないので、いつの間にかボーっと何も考えていないということもあった。次第に、そんな無心の状態が続くこともあった。そして、幸路の悟ったことは、無心の状態の後は気持ちが落ち着いているということであった。そこで、いつの間にか、歩くときに積極的にそのような状態を保とうとするように努めた。言うなれば、自分なりの歩行禅を身につけていったというこになろう。幸路は思った。運転の仕事は楽じゃない。だが、俺の粘り強さで、なんとか続けられるだろう。

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