第71話 初めて見る野生動物
父上達の馬車で山へと入っていく。アリシアは、ずっと窓の外を見つめていた。
高速で走っている時は目が追い付かなくて酔いそうだと、外を眺めることを諦めていたアリシア。今は通常走行だから景色を楽しめるようだ。
クラディア伯爵邸と学園しか行き来をしたことがなかったアリシアからすれば、この何でもない景色も好奇心を刺激するのだろう。興味深そうに眺めているアリシアの姿が、愛しく思えて堪らない。
「あれ?」
「どうかした?」
アリシアが外の景色に視線を這わせながら戸惑うような声を上げるので、僕も一緒に目で追った。
何かいたのか? まさか危惧していたことが!
「今、茶色の大きな」
「茶色?」
「あ、あれです!」
アリシアが指差す先を見ると、そこには茶色の巨体が。
「あれは……イノシシだね」
「あれがイノシシ! 大きいのですね!」
拍子抜けした僕とは対照的に、アリシアの視線は心躍るようにガラスの向こうを見ている。
イノシシか。焦る必要はなかったな。それよりアリシア、まさかとは思うが
「あ、シリウス様! あれは?」
「あれは……シカだね」
「あれが本物のシカ」
「アリシアちゃんは、シカを見るのは始めてなのか?」
「はい! 本当に、あの角が生えているのですね!」
疑問に思った父上に尋ねられて、興奮気味に答えるアリシア。
あぁ、そうか。確か、学園の学園長室にシカの角が飾ってあったな。きっと、それを思い浮かべているのだろう。
「あ、シリウス様! あの茶色の耳が長いのは、もしかして」
「あぁ、ウサギだね」
「あれがウサギ! 本当に小さいのですね!」
一瞬だけ僕を見たアリシアの目は、再び必死にウサギを追って
ゴンッ
「痛っ」
窓ガラスに額をぶつけた。
「アリシア、大丈夫?」
「はぃ」
アリシアは、はしゃぎ過ぎて恥ずかしいと顔を赤くしている。そんなアリシアに、今度は母上が声を掛けた。
「まさか、アリシアさんはウサギを見るのも始めてなのですか?」
「はい! 小さくて可愛いですね」
額を摩っていた手をサッと戻すと、アリシアはニコニコと答える。
それにしてもアリシアは、かなり視力が良いようだ。
野生動物は馬車には近づかないから、少し離れたところにいる。それにも関わらず、あんなに小さくて保護色の茶色のウサギが見えるとは。
「本で読んだことはありましたが、山に来たのは始めなので、本当に動物がいるんだと実感しました」
ご機嫌なアリシアの言葉に、父上も母上も唖然としながら視線を向けてくるので、僕は静かに頷いた。
そうだよな、川を見たことがないのだから……当然、山もだろうな。
「アリシア。窓を開けて、よく見せてあげたいところなんだけど、危険だから我慢してね」
窓を開けていたら、アリシアが額をぶつけることもなかっただろう。
きっと使用人達に見送られた時と同様に、窓から顔を出したいだろうアリシアに告げると、何が危険なのか分かっていないようだが「はい」と頷いた。
(本当なら休憩して、ゆっくりと動物を観察させてあげたいところなんだけど)
危ないから、そうもいかない。それに僕としては、一刻も早く国境を越えたい。聖女でもあるアリシアを守るために。しかしアリシアに、ちゃんと動物を見せてあげたい。一体どうすれば。あ、そうだ!
「その代わり、王城へ行くまでにウサギがいる森を通るから、その時ゆっくり見るといいよ」
「森に行けるのですか! 一度でいいから行ってみたかったので楽しみです!」
僕の提案に、アリシアの表情がパァーッと明るくなる。
少し寄り道になってしまうが、ハーゼの森に寄ろう。あそこなら安全だ。シカやイノシシはいないが、ウサギの狩場としても有名だから、アリシアに見せることが出来る。きっとアリシアに楽しんでもらえるだろう。
頷きながら微笑み返した僕の向かいで、何てことだと父上は手を目元に当てて天を仰ぎ、母上は小さく震えながら口元を押さえて嘆きの表情を浮かべていた。
(そうですよ、アリシアは森すら行ったことがないんですよ)
アリシアを森に連れて行くと決まったことで、僕の憂いはなくなった。早く山を抜けたいところだ。
ここは、まだダノン国の領土。アリシアが聖女だと知ったダノン国王が、聖女を手放すことを惜しんで取り返そうと追手を送ってくる可能性もある。一応、手は打ってあるが、油断は禁物だ。
だが休憩も入れずに急いでいる理由は、それだけではない。
僕達の山越えが遅くなれば、後発隊にも遅れが出てしまい、山を抜けるのが夜になってしまう。魔獣除けの鈴を装備しているとはいえ、さすがに暗くなれば危険が増す。まぁ、明るくても危険はあるのだが。
野生動物は脅威ではないし、魔獣除けの鈴があるから、その点も心配はない。一番危惧している危険は―――
(このまま、何も問題が起きなければいいのだが)
チラリとアリシアを見ると、彼女は相変わらず山の景色に夢中だった。
動物を見つけては「ウサギだわ」「あ、あれはシカね」「あれ? あれはイノシシ? 大きいのと小さいのがいるわ。あ、もしかして子ども? 小さくて可愛い!」と小声で呟いている。
まるで子どものように目を輝かせるアリシアに、僕の心は何か温かいものに満たされるようだった。
(あぁ、可愛いな)
僕は満足気にアリシアを見つめた。そんな僕を横目に、父上と母上が「愛だな」「愛ですね」と囁き合っている。
「シリウス。私らで力になれることがあれば、何でも言うんだぞ」
アリシアに聞こえないよう小声で言いつつ、父上は親指を立てるので、僕はコクリと頷いた。
父上が力になってくれるのなら、これ以上に心強いことはない。
(もっとアリシアに色々なものを見せてあげたいな)
王城へ行くまでに、まずはクローバー川で休憩して、確か宿はその近くだったな。それなら、ゆっくり散策するのもいいかもしれない。アリシアが気に入れば、数日滞在を延ばしてもいいだろう。
そしてハーゼの森に寄り道して……あぁそうだ、僕らが行くと通達しておかなければ。万が一、狩りの道具でアリシアが怪我をしたら大変だ。広大な森ではあるけど、立ち入りを制限して貸切ることにしよう。
それから……あ、観光名所にもなっている大時計塔に行くのは、どうだろうか? 川も山も森も行ったことがないアリシアなら塔にも行ったことがないだろうし、高い所からの展望も見たことがないはずだ。
大時計塔からは王都が一望出来るし、日頃立ち入れない屋上にも王太子である僕が頼めば入れるだろう。え、権力の乱用だって? はははっ、この程度は乱用の内に入らないさ。
さて、他にアリシアが興味を引かれる場所は何処があるだろうか? いや、待て。それとも早く王城へ行って休ませるべきか?
アリシアにとっては初めての大移動だから疲れているかもしれない。だがアリシアに見せたいものが、まだまだある。
ふと心の中のフェリシアが「シリウス様、やり過ぎはいけません」と忠告してきた。そうだな。フェリシアの言う通り“ほどほど”にしないとな……しかし“ほどほど”って、どの程度だ? う~ん。
僕が思案に耽っていると、馬車が僅かに減速した。
チッ、一番危惧していた事態が起きたようだ。
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