第3話 スプレンディドマンの惨状
「頼む。この通りだ」
背後からの拘束を振りほどいたかと思えば、目にも留まらぬ素早さで、スプレンディドマンは地に膝をついた。
そして今、分身する悪党を前に為す術もなく、スプレンディドマンは命乞いをしている。
見よ。この潔く、完璧な美しさを持った土下座を。額は地に擦り付け、頭の横にはきっちりと両手を添える。うなじから背中、腰、臀部に至るまでのラインは、人間工学的に最も理想的な曲線を描き、そしてコンパクトに折り畳まれた両脚は、いかなる計算式を用いても書き表せないほど正確に、身体の下の空間に収まっている。知らんけど。
「今回に限って、お前の悪事を見逃してやる。見逃してやるから、見逃してくれ。どうか殺さないでくれ」
安心してほしい。大いに期待してほしい。筆者は確かにそう書いた。
そして今、そう書いたことに対して、筆者は
勝ち目がないと見るやすぐさま手の平を返し、保身のために悪党を不問に付す。未だかつて、こんなにも愚かで見苦しいヒーローが存在したであろうか。
このまま
したがって、筆者はこれより少しばかり、時を戻して語ることにする。
スプレンディドマンとはいったい何者か、その人間性を知っていただければ、読者の怒りも多少は緩和されるであろう。という魂胆である。
※ ※ ※
例えばの話。
みんなの憧れの的であるアイドル歌手も、ステージを降りればごく普通の女の子かもしれない。日々答弁に追及に忙殺される国会議員も、自宅ではごく一般的な父親かもしれない。
要は何が言いたいかって、スーパーヒーローだって四六時中スーパーヒーローであるわけではないということだ。ゆえに我らがスプレンディドマンにも、スプレンディドマンではない時間というものが存在する。むしろ、そっちの時間の彼こそ、真の姿の彼なのである。
ここに、一人の男がいる。名を
その容姿を言葉で説明するのは困難を極める。耳、目、鼻、口。顔面のありとあらゆる構成要素が、呆れるくらいに消極的で平凡だからである。世人の顔の平均を抽出すると決まって美人になるとはよく言うが、平均と平凡とではまるで事情が異なる。一文字の違いに天と地ほどの差がある。
したがって、涼太郎は人から顔を覚えられるということがほとんどない。その証拠に、成人式でも高校の同窓会でも、自分から話しかけるよりも前に同級生に存在を気づかれたことは、ただの一度もなかったという。そして彼はこのエピソードを、なぜか少し自慢げに語る。
別段珍しくもない姓名を持ち、恐ろしいほど印象に残らない容姿をしたこの男。
この男こそ、スプレンディドマンの正体、その人である。
四月現在、涼太郎がスプレンディドマンに変身するのは、週に三日、二十一時以降と決まっている。それ以外の時間の彼は、理系大学の院生として研究に勤しんでいるか、そうでもなければ、
「今、君の目の前にはふたつの選択肢がある。ただしそれは、できるかできないかじゃない。立ち向かうか、逃げるかだ」
こんなふうに、個別指導塾のアルバイト講師として、生徒たちを日々叱咤激励している。
「おんなじ話を聞いた。先週も、その前の週も」
「奇遇だな。僕も同じことを伝えた記憶がある。先週も、その前の週も」
手元のテキストに目を落としながら、涼太郎は声だけを返した。視界の隅で、小学六年生の
「言っておくが、これは僕の言葉じゃないぞ。ずっと昔から、おそらくは僕が生まれるよりも前から、どこかで誰かが似たような言葉を口にしてきたはずだ。それは、陽菜ちゃんのような受験生がずっと昔から存在していたことの証左でもある」
陽菜は腕を組み、天井を見上げる。
「……私には難しい」
「今の僕の説明が? それとも逃げずに立ち向かうことが?」
「どっちも」
陽菜は鉛筆で、机上の問題用紙を指した。
「ここの角度が六十度もあるわけないじゃんね」
「おいおい、図は必ずしも正確とは限らないと、最初に書いてあったろ」
「でもこの問題の図は、正確とは限らないどころじゃない。わざと私を騙そうとしてる。理不尽だよ」
涼太郎は読むともなく読んでいたテキストをばたりと閉じ、隣の陽菜へ顔を向けた。
「理不尽の話をし始めればキリがない。算数においては特に。鶴と亀の脚の数がわからなくなるのも、点Pがじっとしていられないのも、弟が忘れ物をするのも、兄が追いかけるのも――何より、僕たちがそれを計算させられること自体、理不尽だ。その理不尽を許し、受け入れられるように、君は成長しなきゃならん」
陽菜はしばらく唇を尖らせ、鼻の下に鉛筆を挟んでいたが、
「そんなのを成長って言うなら、私はずっと子どものままでいいもん」
独り言みたいにそう呟くと、問題用紙に落描きを始めた。
涼太郎は咎めなかった。
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