第4話 西野涼太郎の日常①

 涼太郎の勤務先は「清義館せいぎかん」という。


 個人経営の小さな学習塾だが、下は小学三年生から上は高校二年生まで、五十人前後の生徒を抱える。


 涼太郎の担当は小学生の全科目、及び中高生の英語に数学、物理、化学。といっても、彼が特別有能であるというわけではない。多くの大学生と同様、学部入学と時を同じくして大したモチベーションもなくアルバイトを始めた。するといつの間にか、五年が経っていた。その五年の間に、担当科目が増えていった。ただそれだけのことである。


「西野先生は、うちのエースですからねえ」


 これは慢性的な講師の人手不足に頭を悩ませる清義館塾長・牧田まきた利彦としひこが、涼太郎に提案と称して新たな指導科目を押し付ける際の常套句である。涼太郎としてもエースなんて呼ばれて悪い気はしないのでひょいひょい引き受けてきたが、そもそも他の選手がほぼいないのだから、無駄にバイト歴だけ長い彼が自動的にエースを任されているだけなのだ。という事実に涼太郎自身が気づく頃には、彼は既に中高文系科目以外の全科目を一手にさばく、スーパー多刀流の使い手として名を馳せていた。これにはあの世の宮本武蔵も、海の向こうの大谷も、驚嘆、仰天、阿鼻叫喚。二刀流にはさらに上がいたのだと、それぞれ深く内省し、自分探しの旅に出た――


「……という噂が、まことしやかに囁かれ」


「てるわけないでしょ」


 熊埜御堂くまのみどう乃愛のあの鋭いツッコミが飛んできて、涼太郎は現実へと引き戻された。

 隣を見ると、乃愛は机に突っ伏したまま、腹立たしそうにこちらを睨みつけている。その瞳をまっすぐに見つめ返し、


「なんだ、生きてたのか」


 涼太郎が無表情でそう言い放ってやると、乃愛は一言「うざ」とだけこぼし、再び腕に顔を埋めた。


 乃愛は中学三年の女の子である。そして実は、この物語のもう一人の主人公でもあったりする。


 涼太郎とは、彼が清義館でアルバイトを始めた頃からの付き合いだ。無論、付き合いといっても単なるバイト講師と生徒の関係である。男女とはいえ、二人の間に甘くて熱くて刺激的な恋の火種は生じ得ない。ましてや、無知ゆえの破廉恥な過ちなど、決してあってはならないことだ。


 というわけで、今後この二人にそういった展開は一切見られないことを予め断っておく。


「よくもまあ、そう延々と寝ていられるものですな」


 涼太郎が呆れて言うと、乃愛は返事の代わりに大きなあくびをひとつした。長いこと大切に育てられてきた猫みたいに、気ままなあくびだった。頬にカーディガンの袖の跡が付いている。


「ずーっと寝てたら、こっちの世界のほうが夢にならないのかな」乃愛が呟いた。


「随分と哲学的なことをおっしゃる」


「西野先生、私はすっかり現実の世界が嫌になっちゃったよ」


 赤くなった目をごしごしと擦って、乃愛は言った。


「僕も君くらいの年齢の頃は、そうやってとかく厭世的になったものだ」


「厭世的にならざるを得ないくらい、この世界は救いようのない有様だよ。悪党たちが跳梁跋扈ちょうりょうばっこ、犯罪は一向になくならない。それをヒーローが華麗に倒して、平和を取り戻してくれるって信じてたのに、この街のヒーローは超ポンコツ。いてもいなくても変わんない」


「スプレンディドマンをけなすな!」


 涼太郎は思わず声を荒げた。個別指導ブース内の視線が一挙に彼に集まり、空気がぴんと張り詰める。


「……別に、スプレンディドマンさんを貶したわけじゃないけど?」


 突然の出来事に、乃愛も怪訝な表情を向ける。涼太郎はふと我に返り、慌てて咳払いをして平静を装った。


「この街のヒーローといえば彼だろ」


「知らないけど、他にもいるでしょ何人か」


「スプレンディドマンの活躍ぶりに比べれば、他の連中などそれこそいないも同然だ」


「やけにスプレンディドマンの肩を持つね」


「持ってない、スプレンディドマンの肩なんて」


「持ってんじゃん、スプレンディドマンの肩」


 二人は同時に溜め息をついた。いくつかの言葉が、形にならずに吐き出され、二人の間に沈殿した。


「とにかく、いくら睡眠時間を稼いだところで、君は模試の成績という現実から逃れることはできないのだ」


 言うが早いか、涼太郎は乃愛のスクールバッグから覗く成績表を強引に引っぱり出した。乃愛はぎょっとした顔を見せたが、抵抗はしなかった。


「なるほど……。確かに君の言った通り、救いようのない有様だな」


 表を軽く眺めて、涼太郎はすっかり意気消沈した。得点や全国順位の数字が、心なしか赤面して縮こまっているように見える。


「乃愛ちゃんよ。君には受験生としての自覚や危機感というものがないのかね」


「まだ春ですよ。焦るような時期じゃない」


「この成績じゃそんな呑気なことは言っていられないぞ」


 涼太郎は郵便受けに入っていた勧誘のチラシを捨てるみたいに、気息奄々たる成績表を持ち主に返却した。


「少しは莉人りひとを見習ってほしいものだ」


 言いながら、斜め前の席を一瞥する。呼ばれた夏井なつい莉人は顔だけをこちらに向け、涼太郎と乃愛を見比べると、口許に微かな笑みを浮かべた。


 通う学校こそ違えど、莉人は乃愛と同じ中学三年生である。しかし学業成績および授業態度はまさしく提灯に釣鐘。どっちがどっちかは言うまでもなく。今も、貴重な授業時間を空費する涼太郎と乃愛のことなど気にも留めず、殊勝にも自習に励んでいるらしい。


「どうだったんだ? 今回の模試は」涼太郎が問うと、莉人は少し困ったような表情で答えた。


「可もなく不可もなくってところですね。自慢できるような成績じゃないですよ」


「君の可もなく不可もなくは、世間一般の中三にとっての可を超えて秀くらいのもんだろ」


「さあ、どうでしょう」莉人は目を細めて笑うと、


「まあ少なくとも、乃愛ちゃんには勝てたんじゃないかなあ」


 爽やかに毒を吐いてから、前へ向き直った。


「莉人くんは関係ないじゃないですか」


 勉強の邪魔をして悪かったな、と莉人の背に声をかけようとした時、横から抗議が飛んできた。乃愛はなぜか少し赤らんだ頬を、わざとらしく膨らませる。それを涼太郎は憐れみの目で見つめる。


「彼のライバルとして相応ふさわしいレベルにまで君が成長してくれることを、僕は担当講師として心から期待してるんだけどな」


「その期待には、残念ながら応えられそうにないですね。私の担当が西野先生じゃなくて岸本きしもと先生だったら、ちょっとは可能性あったかもだけど」


 岸本とは清義館の講師、すなわち涼太郎のバイト仲間である。


「講師に責任を転嫁するな。だいたい、岸本くんが担当なら真面目に勉強するってのか?」


「だって岸本先生は、教えるの上手いし面白いしかっこいいじゃん」


「まるで僕が教えるのが下手でつまらなくて不細工であるかのような言い方だな」


 乃愛は何も答えず、頬杖をついて、机上の英語の問題集を眺めた。その目からは健康的な中三女子が備えているべき生気というものが、まるで感じられない。


「……否定しておくれよ。嘘でもいいからさ」


 涼太郎は呟いた。自分にしか聞こえないほど小さな声で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る