第4話
父の修造はタクシーを待つ人の列に並んでいた。
「父さん」
陽子の声に振り向いた修造は、表情を崩した。急な雨に困った人たちが作る列は長く、通路をふさいでいる。陽子は修造に向かって黒い傘を振ってみせた。修造は列を離れ、陽子のほうにやってきた。
「まいったよ。急に降るんだもん」
「だよね。天気予報では降るって言ってなかったもん」
陽子は修造に傘を手渡した。二人は並んで駅を離れる。駅から家までは十五分ほどだ。駅から五分ほど歩いたところで、修造が足を止めた。あるマンションを見あげる。
「ここだろ」
陽子も足を止めた。
「うん」
陽子と隆は結婚後、このマンションで生活する予定だ。父の近くで暮らしたいという願いを隆はあっさり承諾してくれた。
「引っ越しの準備は進んでるのか」
「うん」
「隆君のほうは」
「大丈夫じゃない?」
「あっちは働いてるんだから、おまえがやってやればいいじゃないか」
「だって、嫌がるんだもん。何か見られたくないものでもあるんじゃない?」
「そうか」
二人はまた歩き出した。雨足は徐々に緩やかになっていた。
「苦労させたな」
「え?」
「母さんがいなくなって、父さんだけでは不便なこともいっぱいあっただろう」
「そんなことない」
「あんなことがあったから、母さんのこともなかなか口にできなかっただろうし」
陽子は小さく首を振った。
母からは何度か手紙が届いた。父は会ってもいいと言った。でも、陽子は会わなかった。
会いたくなかったわけではない。恋を知る年頃になると、母を許す気持ちも出てきた。でも、父を裏切るような気がして、どうしてもできなかった。
「こっちこそ、ごめん」
「え? なんだ?」
「父さん、好きな人いたことあるでしょ? でも私のために我慢して一緒にならなかったんでしょ?」
「そんな人はいないよ。父さんはもてない。母さんにも逃げられたしな」
修造が笑う。
おまえの父さん、かっこいいな。父に初めて会ったときの隆の感想だ。その横顔は確かにそんな感じだった。女の人は一人だけではなかったかもしれない。
「父さん」
「うん?」
「ありがとう」
「なにがだ」
「今まで、育ててくれて」
「何言ってんだ」
父が傘をさげる。水を発する黒い布が父の顔を隠した。雨垂れを受ける父の古いスーツの方は小刻みに震えていた。
陽子は修造より、二三歩ほど後ろにずれ歩いた。そして、数粒涙を流し、ぬぐってから言った。
「今日はね、カレイの煮物作ったよ」
「おっ、ごちそうだな」
「美味しくできたから期待していいよ」
「それは楽しみだなあ」
二人は弱い雨の中をゆっくりと歩いていく。空はさっきより曇っていて、雨が似合う色になっている。
しかし、顔をあげ遠くを見遣ると、空は相変わらず白く輝いていて、降る雨を銀の糸のように光らせていた。
ネズミの嫁入り 梅春 @yokogaki
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