ねがいごと

加賀 魅月

本編

 ねえ、美散みちる。春だよ。あなたのいない季節が、また巡ろうとしているよ。ねえ、あなたがいないと寂しいよ。お姉ちゃん、とは最後まで呼ばせてくれなかった。でもね、美散。私、知ってたよ。美散が良い姉であろうとしたことも、誰よりも私の味方だったことも。私の姉。私の半身。……ねえ、お姉ちゃん。高校生になったよ。

 薄紅に着飾った桜が風に誘われ、ちらちらと舞い始めた春の始め、佐羽木さばき未咲みさきは新しい制服に身を包み、墓前で瞑目していた。

 その日は高校の入学式だった。美散と共に目指していた志望校の、未咲の、入学式だった。

「未咲、まだかかりそうかな。お母さん気分が悪くなっちゃったみたいでさ、連れて先に帰っちゃうな」

 手を合わせている未咲の背中に穏やかな父の声が聞こえた。うん、と小さく返して、うまく逃げたな、と頭の隅で父を思う。母を理由に立ち去ったが、父だってこの場に居たくはないはずだ。気負いすぎる母も、誠実な父も、双子の妹である未咲も。一人として佐羽木美散の死を受け入れられていないのだ。


「まったく、人生とは無情だ」

 どこからか聞こえた声に、未咲はびくりと反応する。母と父の姿は見えず、辺りには誰もいないはずだった。

「……だれ?」

 桜の木の陰から、小学生くらいの男の子がひょこりと現れた。

「こんにちは、ボクはヨハネ。羽を与えるで、与羽。キミの願いを叶えに来たよ」

 唖然として目を瞬かせる未咲の手を取って、勝手に握手をする。

 と言っても、三つだけだけれどね。あどけないウィンクをひとつして、与羽は話を始めた。

「さっそくだけれど、キミは『アラジンと魔法のランプ』を知ってる? ああ、有名な青い人の方じゃなくてね、厳密に、『千夜一夜物語』における方のやつ。あれって実は願いの数に明確な制限があったわけではないんだよね」

 淀むことなく話す与羽を前に、未咲はまだ状況がわからずにいた。けれど与羽はそんなことを意に介さず続ける。

「じゃあ何故あの有名な青い人は願いを三つしか叶えられなかったのか。答えは『魔法のランプ』が砕け散ってしまったから」

「……え? なに、どういう話?」

「そして、砕け散った魔法のランプと共に魔人もそれぞれに分散して宿った。だからボクたちは全能ではないし、叶えられる願いはたったの三つきり。ボクたちは『洋燈インスタント欠片ランプ』となった」

 芝居掛かった身振り手振りで大げさに話す。話の筋がまるでわからないはずなのに、頭は妙に冴えていた。

「だからね、ミサキ」

 教えた覚えのない私の名前が、目の前の不思議な人から発せられた。与羽の指が三を作る。

「三つだけなら、叶えてあげる」

 優しい声だった。それでいて挑戦的な。さあ、キミはどうする? そう言っているようだった。

 未咲はすっと右手を上げて、指で三を作り返した。

「先に三つ、質問があるわ」

「答えよう」

 一つ。指を二つ折った。

「一つ、どうして私の名前を知ってるの?」

 与羽は笑った。くだらないことを聞く、と。

「簡単だよ、ボクを生み出したのが世界だからさ。世界はなんでも識っている。漢字を間違えられた双子。姉の美散と妹の未咲。姉は未だ散る由もなく、妹は美しく咲くはずだった」

 指をひとつ増やす。未咲の指は震えていた。

「二つ、どうして、私はこれまでの説明で全てをすんなり受け入れているの。私はこの私自身の理解が怖くて仕方がない」

「それはマジックだよ。ご都合主義の魔法さ。世界という流動体は、こと帳尻合わせに関してはプロ中のプロだからね」

「三つ、本当になんでも叶えてくれるの?」

「当然。デメリットもないよ。ボクは悪魔や死神なんかじゃあない。もちろん、キミの人生を狂わせる猿の手でも、ソーセージをアゴにくっつける悪趣味な女神でもない」

 信じられない、と思った。しかし、未咲の脳は理解していた。信じていた。これは現実だ。事実だ。本当だ。その不当な理解が、尋常の出来事ではないことを端的に示していた。

「すぐにとは言わないさ。人間とは欲望の生き物だ。尽きることのない願いをたった三つに絞るのには時間がかかることだろうよ。……まあ、放置プレイはあんまりお好みではないんだけれどね」

「……空」

「え?」

 未咲は居心地悪そうに視線を逸らしている。照れ臭いのだろうか。それとも、バカにされると思ったのかもしれない。

「空、飛びたい」

「……へえ、そんな幻想的なことを言われるとは思ってなかったよ」

 与羽は嬉しそうに応える。与羽は人間の持つ可能性や想定外の発想、想像力をとても興味深く思っていて、人間が大好きなのだ。

「いいよ、飛ぼう。いつが良いかい? 今はまだ日も高いし、夜にでもする?」

「いいえ、今でいいわ。別に夜景が見たいわけではないの。蝋で羽を作るわけでもないし」

 与羽の笑顔は消えない。本当に楽しくて、心の底から未咲に応えようとしているのが伝わる。無邪気な笑顔を見ると、本当の子供みたいだ。

「じゃ、太陽が眩しくないようにしよう。ミサキが不自由なく飛行できるように」

「ありがとう」


 力いっぱいに地を蹴ると、未咲の身体はふわっと宙に浮いた。身体の使い方、腕の動かし方、その全てが当然の知識のように未咲に獲得されていた。未咲は下の景色には目もくれず、一直線に上へ上へと舞い上がった。

「ミサキ! それ以上は無理だよ、大気圏だ」

 自力で浮遊してきた与羽が声を上げると、未咲はその場で静止した。さらに上空を見上げて、目を瞑る。雲よりも上、無風の空間に未咲と与羽だけ。静寂が訪れる。

 未咲が目を開ける。首の角度は変えず、空の奥、ずっと遠くを見つめている。しばらくして、ゆっくり、ゆっくりと未咲の頬を涙が伝った。

「もう少し、近いものだと思ってた。昔、死んだ人は星になったとか、空へ行ったとか言ってたから。美散はこの先にきっといて、もっと近くに感じられるものだと思ってた」

 未咲の涙は止まらない。力の抜けた腕はその雫を拭うこともせず、ただ、美散との距離と、零れ落ちる涙を静観していた。

 もういいわ、と未咲が地上に降下したのは、夕日が暮れ始めた頃だった。

「ちゃんと泣いたの、初めてなの」

 内緒よ、と泣き腫らして赤い目で笑った。

 それじゃバレバレだよ、と与羽は内心突っ込んだが、小さくて温かい秘密は二人を奇妙に繋いだ。

 連れだって帰る道すがら、未咲は与羽に聞いた。

「私以外の人間に、あなたの姿は見えるの?」

「見えないよ。願い事を三つ叶えた後、キミもそうなる。ボクは用済みになるからね」

「なにその言い方」

「相互協定さ。ボクだってキミが必要なくなる。その証拠として、キミはボクのことを忘れる」

「どういうこと?」

「そのままだよ。三つ目の願いが叶うと、キミはボクという存在を忘れるってだけさ。キミは叶えた願いを『自分の力で成し得た』と錯覚を起こし、形に残るものなら永続的に残る。キミがそう望みさえすれば」

 未だ不可解な顔をしている未咲に、与羽が説明を加える。

「例えば、六千億円欲しいと願ったとする。三つの願いを終えた後、キミの手元には六千億円残るし、キミはその六千億円をキミの力で得たと認識する。失効することはないってことさ。キミがその莫大なお金を使い切るまではね」

「待ってよ、私はどうやったら私自身の力で空を飛べるのよ!」

「さあね。でもキミはそれを成し遂げた。たった一度だけだけれど、キミは空を飛んだ。キミ自身の、独力で」

「なんてこと……」

「偉大な為政者や成功者の本質が本人にないことだって、珍しい話じゃないのさ」

 与羽は笑った。その影が街灯に照らされて、悪魔みたいに見えた。きっとこいつは悪魔よりもたちが悪い。

 佐羽木邸宅は墓地から十分ほど歩いた住宅地の中にある。玄関には家族写真が飾られているが、美散の写ったものは伏せられている。片付けるでもなく、ただ倒されただけのフォトスタンドが美散の不在を強調しているように思う。美散はここにいるんですよ。今はいないけれど、たしかにここにいたんですよ。そういう気配が、家全体を支配している。

「ただいまー」

 靴を脱ぎ散らかして自室のある二階へと向かう未咲に、おかえりーと二つの声がする。中途半端に開けられた扉の向こうから、カレーの匂いが鼻腔をくすぐった。未咲はシーフードカレーが好きだ。美散はビーフカレーが好きだった。美散がカレーとシーフードの組み合わせが苦手だったから、うちではシーフードカレーがほとんど出なかった。今日のカレーは、シーフード。私はカレーが食卓に並ぶたびに、喜びと悲しみが混ざり合った感情を手に入れた。

 食卓そのものだってそうだ。長方形の机の短辺に父と母が向かいあって、長辺に私と美散が並んで座る。左利きの美散が左に座るから、私は右側。今じゃ長辺を独り占めできるのに、私は右端に座る。お母さんだって食器を右端に置く。嬉しいことと悲しいこととの計算が、うまくいかない。

 大切なものを失ったあの日から、ゼロ足すイチ引くイチが、ゼロにならない計算を繰り返している。この家は引き算をしすぎたのかもしれない。

 けれど、未咲はこの家が大好きだった。お母さんもお父さんも、かけがえのない存在だった。だから、未咲が自室で叶えた二つ目のお願いは必然だったのかもしれない。大切な人の死という経験が、彼女にこらえようのない恐怖を植え付けたのだから。


「お母さんとお父さんが、長生きしますように。円満に生きて、笑って最期を迎えますように」


 与羽は家族の団欒を未咲に気づかれないよう盗み見ていた。温かい食事、弾む会話。いくらかぎこちなさは感じるものの、現代の家族のあり方として規範的とすら言えるだろう。母親に代わって食器を洗っている時も、湯船に浸かり上機嫌で流行りの歌を口遊んでいる時も、未咲の笑顔は絶えなかった。

 午後十一時を過ぎた頃、両親に就寝の挨拶をして未咲は自室へ戻ってきた。

「お帰り、ミサキ」

「ただいま、与羽。あなたずっとここにいたの?」

「いいや、キミたちの様子を覗かせてもらってた。自然体でいて欲しかったから、気配を消していたんだ」

「まさかお風呂まで覗いてないでしょうね?」

「おいおい、ボクを人間と同じ勘定に入れないでおくれよ。キミの裸なんかに興味はないさ」

「……それはそれで失礼ね」

 未咲はパジャマの上にコートを羽織った。

「どこかへ行くのかい?」

「ええ。付いてきて。最後のお願い事をしようと思うの」

「それは楽しみだ」


 未咲が与羽を連れて来たのは、家を出てすぐ、近所の公園だった。ブランコと滑り台しかない、小さな公園。

「ここ、美散とよく遊んだ公園なの」

 未咲の声は震えていた。

「識っているとも」

「そう、だったわね」

 美散と未咲はいつも一緒だった。だから未咲の思い出には常に美散がいる。とりわけ、ここは特別だった。一つしかない滑り台には目もくれず、二つ並んだブランコに乗り笑い合うこともあった。未咲がクラス内でいじめられ、美散がかばって傷だらけになることもあった。周りを桜の木が囲っているから、家族で花見に来たこともある。苦しい日々を共に過ごしたのも、二人だけの秘密を打ち明け笑いあったのも、この場所だった。

「最後のお願い。私を……私を、佐羽木美散に会わせて」

 与羽は微笑んだ。

「いいとも。叶えよう」


 そうして、佐羽木未咲の姿は消えた。


「あーあ、そっちか」

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