終わりの、そのあとに
おかえりなさい
入院してから一月が経ち、心身ともに容態の安定が認めれた俺は、やっと地元の病院に転院することができた。
そこでさらに二ヶ月の入院生活を余儀なくされ、ようやく退院してからは自宅と病院を往復しながらリハビリに励むことになった。
瓦礫に長時間挟まれ続けていた右足は、もう完全には元に戻ることはないと聞いた。
ただ、このまましばらくリハビリを続ければ、日常生活に支障が出ない程度には回復するだろうとのことだった。
うちのクラスはもっとも犠牲者が多く、実にその人数を半分にまで減らしていた。
当然そのままというわけにはいかず、二学期の終わりに学級の再編成が実施された。
その結果、もともとは六組まであった我が二学年は、クラスを二つも減少さて再スタートを切ることになった。
もっとも、三学期に入ってもすべての席が埋まる日などは、ただの一度も訪れはしなかったのだが。
その無数の空席の主たちは、あの日に心や身体やその両方に一生消えない傷を負った者たちであり、転校していった生徒も一人や二人ではない。
生き残った七人の教諭たちも、今やこの学校に一人も存在していない。
そのうち六人は依願退職という形で学校を去っていった。
残りの一人で修学旅行の責任者だった原田教諭は、あの日から二週間のちに行われた被害生徒の保護者を対象とした説明会が終わった直後、校庭の隅にある体育倉庫で予め用意していたらしいロープを使い、自らの命を絶ったそうだ。
果たして彼が自身に下したその決断は正しかったのか?
それは俺にはわからないし、それ以前にどうでもいいことだった。
原田先生も小池先生も聖も南海も、もうこの世界には存在していない。
たったそれだけのことだ。
退院直後から松葉杖を突きながら登校を始めた俺は、何とか留年せずに第三学年へと進級することが出来た。
もっとも、出席日数は全く足りていなかったはずなので、被害生徒に対する何らかの特例のようなものがあったのだろう。
息子の身体と心を気に掛けた両親からは、何度も休学や転校を勧められたのだが、俺はそれを頑なに断り続けた。
それどころか、三年でも再びクラス委員長の任を自ら買って出ると、去年にも増してその責務に精を出していた。
そして今日もその一環として、放課後の教室で帳簿付けという地味な作業に追われている最中だ。
それもこれもすべては、彼女という存在がいつでも俺の心を支え続けてくれるおかげだった。
「都筑君、ほんとにひとりで大丈夫? 何か手伝えない?」
ベテラン経理の速度で電卓を叩く俺のことを気遣ってくれているのは、今年の春から一緒にクラス委員長をしている相方の
彼女とは一年の頃からクラスは同じだったが、南海を介してたまに喋ることがあった程度で、ざっくりと言えばあまり親しい間柄ではなかった。
俺の中で『大人しい女子』にカテゴライズされていた彼女ではあったのだが、職務上の理由で関わりを深めた途端に、南海と同じ大変な世話焼きだということが判明した。
俺と同様に彼女もあの日、学友たちの血や肉にまみれた瓦礫と泥の中から救出された『生き残り組』の一人だった。
そして、俺が足を悪くしたのと同じように、彼女も首筋にその痛々しい傷跡を残している。
いつの日だったか、今日のように放課後二人で経理の仕事をしていた時。
「私もほら、都筑君とおんなじ」と言い、自ら髪を掻き上げて俺にそれを見せてくれたことがあった。
そのあと振り返ると「でも、うちらは運が良かったんだよね」と言い、少しだけ悲しそうな顔をして笑った。
彼女はその大人しそうな見た目とは裏腹に、とても強くて優しい女の子だった。
「全然ひとりで平気だよ。帳簿付けるのは慣れっこだしね」
「じゃあさ? 都筑君のお仕事が終わるまで待ってたら……迷惑かな?」
「細野さん、今日は塾の日って言ってなかったっけ? 俺なら大丈夫だから」
「……わかった、ごめんなさい。次は私がやるから」
「うん、お願い。また明日ね」
細野さんが教室から出て行ったのを見届けると、帳簿から目を上げて大きく伸びをする。
開け放たれた窓からは五月の心地よい風が吹き込み、それに乗って聞こえてくる吹奏楽部の管楽器の音が眠気を誘うが、あくびを噛み殺しながら再び机に顔を向けて作業へと戻った。
次に気がついた時、帳簿の最後の項目にはすでに数字が書き込まれていた。
クラス委員長も三年目ともなれば、我ながらなかなかにして手慣れたものだった。
机の上に所狭しと広げられたA4サイズの用紙をクリップで留めてから立ち上がると、スクールバッグを肩に掛けて教室をあとにする。
下校時間はとうに過ぎ、それでいて運動部の終了時刻までにはまだ幾分かある今の時間の電車は空きに空いていた。
以前であれば恋人と肩を並べたシートにひとりで腰掛け、以前であれば恋人とともに眺めた車窓の景色をひとりで見る。
そうこうしているうちに、終点駅への到着を知らせるアナウンスが車内に流れ、たった数人だけの同乗客たちの一番うしろに続く。
一旦駅舎の外に出てからバスに乗り、そこからさらに一時間を掛けると、やっと目的の場所にまで辿り着くことが出来た。
「こんにちは」
入口でひと声掛けてから、白い壁を夕映えのオレンジで染める部屋に入室する。
ベッドの傍らに置かれたパイプ椅子に腰を下ろしていた彼女は、絹糸のような長く美しい髪を軽く揺らせながら振り向く。
「いらっしゃい。今日は少し遅かったね」
「ちょっとクラス委員長の仕事があって」
彼女はいつもと同じように柔らかな笑顔を浮かべながら、壁に立てかけてあった椅子を用意してくれた。
スクールバッグを椅子の上に載せ、窓際に置かれたベッドの前まで進む。
そして、かつて担任教師の車の後部座席でそうであったように、まるで女神か天使のような極上の寝顔で眠りに就く少女にそっと声を掛ける。
「ただいま、舞」
「おかえりなさい、イツキ」
その声は確かに目の前にいる少女のそれと同一だったが、聞こえた方向はといえば明らかに右斜め後方からだった。
「だ・か・ら。それ、やめてって言ったよね?」
振り返り声の主を睨みつける。
「そうだったっけ?」
「うん。一〇〇回は言った」
彼女は舞の姉で、名を
年齢こそ二つ年上の大学生だが、妹の舞とは双子かと見紛うほどに顔も声も背格好も、それに性格までもが酷似していた。
舞の見舞いで初めて彼女の姿を見た俺は思わず声を上げて驚き、その直後には人目――彼女らの母親と祖父である――を憚らずに抱きついてしまったほどだ。
「今日は翠さんひとり?」
「うん。お母さんも一緒にくる予定だったんだけど、ちょっと都筑くんと二人だけで話したいことがあるからって言って。それで今日はやめてもらったの」
「話したいこと?」
「うん。舞ちゃんには聞かれたくないから、ちょっとだけお散歩に付き合ってもらってもいい?」
この病院は市の中心部からえらく離れた場所にあるだけあって、その敷地の広さたるや、小さなテーマパークのそれに等しいほどであった。
三つある病棟の背後には、散歩コースが一キロメートルに渡り整備されており、今日までにも
入院患者の息抜きやリハビリにも使われるためか、低い丘陵に作られている割に起伏は緩やかで、足の少し悪い俺でも何ら問題なく彼女と肩を並べ歩くことが出来た。
「それで、話って?」
「お母さんには『まだ都筑さんには話しちゃ駄目だから』って言われてたんだけどね」
それだけ聞いて良い話ではないことはすぐにわかった。
「舞ちゃんね、もうすぐ別の病院に移ることになったの」
「……え?」
一瞬悪い冗談かとも思ったが、この姉も妹と同じで本当に大事な場面では誰よりも真摯であることは、短い付き合いながらよく知っていた。
「私は大学があるからこのまま一人暮らしでここに残るけど、もう家は不動産屋さんにお任せして手放す準備は出来ているみたい」
「どこなの? 病院って、その」
頭の処理が追いつかずに出鱈目な文法になってしまう。
「うん。遠いところ、とっても」
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