おやすみなさい

「いたぞ! ……生きてるぞ!」


 やけに騒々しい。

 もう少し寝ていたいのに。


「キミ! 大丈夫か?」


 別に大丈夫だけど、でも。

 出来ればあと五分だけでいいから寝かせておいて欲しい。


「先生! こっちです!」


 先生って……もしかして今は授業中?


「聞こえますか? 私の声が聞こえていますか? もし聞こえたら、ゆっくりと目を開けてみて下さい」

 言われた通りに瞼を開くと、まるで眼球に針でも刺されたかのような痛みが襲ってくる。

 その針は光の眩しさだった。

「聞こえているみたいですね。よかったです。ではもう目は閉じて下さい」

 聞き覚えのない声だったが、言われた通りに再び目を固く閉じる。

「それでは、自分の名前は言えますか?」

「……つづき……いつき」

 今さら親に文句を言うつもりはないが、本当に言いにくい名前だと思った。

「ありがとう都筑さん。もう大丈夫ですからね」

 何が大丈夫だというのだろうか。

 まずはそこから説明してくれなければ、俺には一体何が何だかわからない。

「私は麓にある市民病院で救命救急医をやっている医師で、坂下と言います。私は都筑さんのことを助けるために、今ここにいます」

 きゅうめいきゅう……医師?

 医者がなぜ、俺のことを助け――。

 あ。

 その瞬間、すべてを理解した。

 急いで身体を起こそうと動かした手に激痛が走る。

「動かないで! 落ち着いて!」

 強い口調とともに肩を押さえられる。

 太陽の光が痛くて目が開けられない。

「都筑さん聞いてください! 君はいま身体が挟まれたままになっている。このまますぐに助け出すとショック症状が出てしまうかもしれない。だからここで処置をしてから救出します。絶対に大丈夫ですから、どうか落ち着いて」


 違うんだよ先生。

 そんなことは、俺のことはどうでもいいんだ。

「先に舞を……俺の上にいる女の子を……」

 俺は舞と約束したんです。

 たとえ何があっても彼女のことを守るって。

 絶対にひとりにしないって。

 絶対に死なせはしないって。

 だから。

 だから!

 お願いですから!

 彼女のことを助けてやってください!

「俺はどうなっても、死んでもいいから、だから……舞を」

「……わかりました。でも彼女よりもあなたの方が重篤です。だからあなたが先だ。彼女はそのあとで必ず」


 坂下とかいった医師が足の方に移動する気配がした。

「今から注射を打ちます。これには痛み止めと血栓を溶かす成分が入っています。ちょっとだけチクっとしますよ」

 感覚はほとんどなくなっていたが、腿の内側にわずかながら痛みを感じた。

「これですぐに痛みは無くなりますから、もう少しだけ頑張って」

 だから!

 そんなことは!

 俺のことなんて!

「……どうでもいいから!」

 渾身の力を振り絞って上半身を起こすと、たとえ目が潰れてもいいと覚悟を決めて瞼を一気に開いた。


 眼球に突き刺さった光が激しい痛みを引き起こす。

 それでも目を閉じず痛みに耐えた。

 やがて、少しずつではあったが目が光に順応してくる。

 室内だと思っていたそこには天井がなかった。

 太陽の光だと思っていたそれは、投光器から放たれる人工のものだということがわかった。

 辛うじて動かすことの出来た右手を眼前にかざして光を遮ると、ようやくにして自身が置かれている状況を理解することが出来た。


 目の前には瓦礫が山のように積み上げられている。

 その一部は俺の腿から下に乗り上げており、身体を強く捻ってもびくともしない。

 さらに視線を下げる。

 上半身は泥で完全に茶色に染め上げられていた。

 髪や顔もきっと同じようなことになっているのだろう。

 いや。

 今は自分がどれだけ泥まみれであろうが、手足が千切れて無くなっていようが、そんな些細なことなどどうでもいい。

 舞は。

 舞はどこにいるんだ。

「都筑さん! 今すぐに横になって目を閉じなさい!」

 すぐ横から怒声が聞こえ、身体を上から押さえつけてくる。

 俺は逆にそいつの襟を掴み、一旦こちらに手繰り寄せてから次の瞬間には渾身の力で突き飛ばした。

 舞は、舞はどこにいるんだ?

 左右を見渡しても彼女の姿を見つけることができなかった俺は、腰と首を思い切り捻って振り返った。

 瓦礫に挟まれた足から骨の砕けるグロテスクな音が聞こえたが、そんなものは完全に無視して真後ろまで身体を向ける。

 ……。

 ……。

 ……いた。

 ……舞。



 ……。

 眩しい。

 まただ。

 また眩しい。

 ただ、さっきほどではない。

 首をわずかに持ち上げて自身の身体に目をやった。

 何本もの管やコードがそこらかしこに付けられている。

 この光景はテレビドラマで何度も見たことがあった。

 そのお陰で、ここがどこであるのかすぐに見当が付いた。

 ここは多分、病院の集中治療室なのだろう。


 すぐに起き上がろうとしたのだが、手足が紐か何かで縛られているようで動くことが出来ない。

 怠慢な動きで拘束を解こうとしていた俺の姿に気付いた看護師が、隣接するナースセンターからスリッパで床を鳴らして飛んでくる。

 パタパタパタパタパタと、騒々しいことこの上ない。

「都筑さん、どうか落ち着いて」

 ええ落ち着きます。

 落ち着きますから。

 だからこれを取って下さい。

 じゃないと、舞に会いに行けないじゃないですか。

 看護師が携帯電話でどこかに電話を掛けた。

 やってきた医師と思しき男性が指示を出す。

 腕に繋がれた点滴に何かの薬剤を注入される。

 これもテレビで見たことがあった。

 それ、鎮静剤だろ?

「……やめろ」 

 やめてください。

 そんなことをしたら舞に会いに行けないじゃないですか。

 そんなことをしたら舞に会いに行けないじゃないですか。

 そんなことをしたら舞にあいにいけな



 次に気がついたそのとき俺は、もう起き上がろうとはしなかった。

 微動だにもせず、ただじっと天井を見上げる。

 真っ白できめの細かい病院の天井はまるで恋人の肌のようで、ずっと見ていても決して飽きることはなかった。


 どのくらいそうしていただろうか。

「……舞」

 いつしか目尻から溢れ出していた涙が、頭の下の枕までビショビショに濡らしていた。

 いつの間にか枕元に立っていた年配の女性看護師がタオルで俺の涙を拭いながら、まるでガラス細工にでも触れるかのように優しく手を握ってくる。

「都筑さん、気分はどう?」

「……はい。もう大丈夫です」


 俺はその日のうちに一般病棟に移された。

 看護師さんに聞いたところによると、あの日からもう二週間が経っていた。

 面会に来ていた両親は大声を上げて泣きついてきたが、当の俺はといえばまるで他人事のようにその光景を眺めていた。

 実際に他人事だったのかもしれない。

「お父さんお母さん。俺はもう大丈夫だから。それよりもあの日、俺たちに何があったのか教えて欲しい」

「それはお前が退院してから――」

「本当にもう大丈夫だから。教えて欲しい」

 虫か機械のような口調でもう一度念を押すと、ようやく父親が当時の状況を教えてくれた。


 あの日あの地に降った雨は、観測史上類を見ない激しいものだったそうだ。

 それに加えて旅館の上空では線状降水帯が形成され、周囲よりも遥かに多くの雨を降らせていたとのことだった。

 その結果、旅館の裏山の斜面が流れて建物を直撃し、旅館の全従業員と十四人いた教師の半分、それに二三九人の生徒のうち九七人もが犠牲となった。


「舞は?」

「まい?」

「岩水寺舞っていう子は? 彼女もこの病院にいるの?」

「……彼女は」

 国語教師という、いわば日本語のプロフェッショナルであるはずの父の説明は、とてつもなく辿々たどたどしいものだった。

 俺は一言も口を挟まずに最後まで聞き、そしてようやく全てのことを理解し、納得もすることが出来た。

「そっかわかったありがとう。疲れたから少し寝るよ」

 おやすみ、お父さん。

 おやすみ、お母さん。

 おやすみ、舞。

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