姉妹

 あの惨事で命を落とさずに済んだ一二九人の『生き残り組』のその中で、舞はもっとも重篤な状態で発見された。

 トリアージもままならないほどに混乱を極めていた現場で一旦は助からない命と判断された彼女は、同級生達の死体や瓦礫や土塊つちくれとともに取り残され放置されていたのだが、遅れて駆けつけた医師によって救命の可能性を見出されるとドクターヘリで運ばれていった。

 結果として命を取り留め今日にまで至っているのだが、あの日以来彼女が目を覚ますことはただの一度もなかった。


「ここの病院にはね、今の舞ちゃんみたいな状態の患者さんを入院させておく期間に決まりがあるんだって。それでね、次に受け入れてくれる病院が近くに見つからなかったの」

 遅かれ早かれそういったことになる覚悟は出来ていた。

 そして、いざそうなった時に自分がどうするかなどは、もはや考えるまでもないことだった。

 舞がどこに行こうが、会いに行けばいいだけなのだから。

「そっか。早く知ることが出来てよかった。翠さん、教えてくれてありがとう」

「ううん。違うの、都筑くん」

 西日に照らされ長く伸びる彼女の影が急に歩みを止める。

「違うって?」

 そう言ってから振り返ると、逆光で細いシルエットになった彼女がふるふると首を横に振った。

 オレンジ色の背景によく映える黒く長い髪が、まるで高度な演算ソフトで処理されたような美しい軌跡を描く。

「舞ちゃんの転院先、都筑くんには教えることができないの」

 その場に立ち尽くしたまま、彼女の大きな瞳があると思しき顔の場所を見据えながら口を開く。

「……意味がわからないんだけど」

「このままだと都筑くんの人生まで駄目にしてしまうから。だから昨夜、お母さんとおじいちゃんと三人で話し合ったの」

「いやだ」

 いくら俺を思ってくれてのことだとはいえ、それだけは絶対に認めるわけにはいかない。

「都筑くん、聞いて」

「聞けって? 何を? 翠さんもそう思ってるんでしょ? だったらあなたも――」

 その時、沈みかけていた夕日が西の山陰にその姿を隠した。

 オレンジと黒の二色だけで構成されていた世界に色が戻ってくる。

 それによって初めて彼女が涙で双眼を濡らしていることに気づき、続けざまに振り下ろそうとしていた言葉の斧を急ぎ止めた。

「……聞くよ」


 太陽が沈み切るのと同時に、ほんのさっき戻ってきたばかりの色が再び失われてしまう。

 そんな中、唯一色を灯す街路灯の下にあるベンチに並んで腰を下ろす。

 隣りにいながらして彼女のほうに顔を向けないのは、せめてもの反抗心を示したつもりだった。

 ややあって、膝丈のスカートから覗き見える細い足がこちらに向けられる。

「私もね、お母さんとおじいちゃんの言う通りだって。そう思ってるの」

「舞のことはもう忘れろって?」

「うん」

 俺にとって、俺と舞にとってこの上なく重要な懸案を、たったの二文字で切り捨てられてしまう。

「おばさんとおじいさんはともかく、翠さんにそう言われるとは思ってなかったよ」

 もっとも、そんなものは俺が一方的に信頼を寄せていただけなのだから、彼女を責める気持ちなどは一欠片もなかった。

「でもね」

「……え?」

 この話に続きがあるとは思っていなかった俺は、うっかり顔を横に振ってしまった。

 そこにいた翠は本当に舞とそっくりで、たったそれだけのことで俺の胸はナイフで滅多刺しにでもされたように激しい痛みを覚える。

「さっきも言ったけど、私はこっちに残るから。だから」

 こっちに残るから、だからなんだというのだ。

「だから都筑くん、私と付き合っちゃいなよ」

「……は?」

「私のこと、舞ちゃんだと思ってくれてもいいよ」

 この子は本当に舞の姉なのだろうか?

 本当は舞なのではないだろうか?

 そう思ったことはこれまでも何度かあったが、今はそのどの時よりも強くそう感じた。

「……わかった。そうしよっか」

「うん。じゃあ、はい」

 何が『じゃあ』で『はい』なのかの説明もせずに、彼女はその長いまつ毛をそっと伏せる。


 晩春と初夏の間に位置する空白エアーポケットのような今の季節は肌寒くもなければ暑くもなく、かといって過ごしやすい時期かと言われればまた少し違っていた。

 それは人と人との付き合いにも同じことが言え、この舞の姉と一緒にいる時間は微温湯ぬるまゆに浸かっているような安心感と気だるさとが同居しており、主に今はその後者のほうが顕著であった。

「都筑くん……じゃなかった。イツキ、はい」

 彼女はそう言うと「んっ」と鼻を鳴らしながら口を突き出す。

 これ以上は付き合い切れない。

「もういいよ翠さん。それより時間って大丈夫? そろそろ舞のところに戻ったほうがよくない?」

「え?」

 ばさりと音がしそうな勢いでまぶたを開けた彼女は、ベンチの上に置いていた自身のスマホの画面を覗き見た。

「あ、ホントだ。あと五分で終わっちゃうね、面会時間」

 そう言うや否や俺の手を掴むと立ち上がる。

「舞ちゃんのとこ、帰ろ?」


 病院のエレベーターに乗り扉が閉まると、ようやく握られていた手が離れる。

 ほっとため息をつきながら彼女の顔を覗き見ると、まるで欲しかったぬいぐるみでも買ってもらった少女のように、至極にこやかな表情でエレベーターの回数表示を見つめていた。

「なにかいいことでもあったの?」

「うん」

 何も良いことがないのにこの笑顔だったらちょっと恐いので、正直その点はよかった。

「どんないいことがあったの?」

 うっかり幼い娘に接する母親のような物言いになってしまった。

「都筑くんが私じゃなくて舞ちゃんを選んでくれたから」

「そんなの当たり前じゃん」

「うん。わかってたけど、でも嬉しいの」

 とんだ茶番に付き合わされたというわけだ。

 まあ、知ってはいたのだが。


 個室の病室は静まり返っており、少しの時間だったとはいえ舞を一人にしてしまったことを申し訳なく感じた。

「舞、ただいま」

「舞ちゃん、ただいま」

 部屋の主に各々に挨拶を済ませると急いで帰り支度を始める。

 もっとも俺のそれはスクールバッグを手にしただけで終了したのだが、翠はといえば大きな紙袋から取り出した服やら何やらをキャスター付きのラックに仕舞い込んだりと忙しそうだった。

 妹のそれよりも少し大きな彼女の臀部が右へ左へと動く度に揺れる黒髪を眺めながら、その華奢な背中に話しかける。


「あの、さっきの話だけど」

「あ、うん。それはもう大丈夫だから。私に任せておいてくれればいいよ」

 彼女はあいも変わらずに忙しく動きながらそう言い切った。

「任せてって……」

「私がお母さんとおじいちゃんのこと説得するから。二人とも昔から私と舞ちゃんには激甘なの。だってほら、私たち姉妹ってものすごくかわいいでしょ?」

 こういった場面において世間一般ではツッコミを入れるのが作法だが、彼女ら姉妹はその世間一般から逸脱している部分があり、これもそのひとつだということは経験則から知っていた。

「かわいい妹と未来の弟のためなら、お姉ちゃん、ひと肌でもふた肌でも脱ぐから」

「……ありがとう、翠さん」

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