終わりの始まり
結局のところ、集合時間の午後五時までに宿に到着できたのは、二三九人いる生徒の半分にも満たない、たったの九十人ほどだった。
ただ幸いなことに宿の人が地元のタクシー会社に問い合わせてくれ、なんとか全員の安否は確認された。
ロビーで指示を待っていた俺と舞のもとに、先ほど連絡の依頼をしてきた学年主任がふたたび駆け寄ってくる。
「君らのおかげさまでなんとか全員と連絡が取れたよ。本当にありがとう」
彼はこの旅行の責任者でもあったはずなので、肝が冷えるどころの騒ぎではなかっただろう。
「それでこのあとなんだけど、君たちのクラスから先に夕食を取って欲しい。食堂の場所は――」
旅館というからには、畳敷きの大広間での食事を予想していた。
だがここの宿は修学旅行生の利用にでも特化しているのか、テーブルと椅子からなる大食堂が備わっているようだ。
昨日の宿での味気ないファミレスメニューからして、今日の夕食とてまったく期待などしていなかった――のだが。
「おい五月、テーブルの上に
「は? ウソつけ……ホントだ」
北国の幸で膨れに膨れた腹をさすりながら食堂をあとにした俺と聖は、一旦部屋に戻るとキャリーバッグから着替えを取り出し大浴場へと向かった。
今日は朝から美術館を見て回り、続いてガラス工房を見学し、そして昼食を取ってからすぐにタクシーでこの旅館にやってきた。
天気が生憎だったせいで、日程の密度の割には歩いた距離は少なかったかもしれない。
そんなわけで、肉体的な疲労という意味では全然だったのだが、大浴場の浴槽で足を伸ばすと、気づかぬうちに蓄積されていた精神的な疲れが癒やされていくのがわかった。
大浴場から部屋に戻ると、あとは消灯時間を待つだけとなった。
たったいま入った最新情報では、市街地に取り残されていた最後の班が無事宿に到着したという。
旅館の部屋の窓際に必ずといっていいほどある、例の謎の席に腰を下ろし外の様子を伺う。
雨は相変わらず本降りのままに見えたが、まもなく本日の予定のすべてを終える俺たちはもう天気を気にする必要はなかった。
屋根や壁を強かに打ちつける雨音に混じり、コンコンコンというノックの音が聞こえた気がした。
ドアの隙間から顔を覗かせると、そこには意外な人物――副担任の女性教諭の姿があった。
普段であればニコニコと笑顔の絶えない彼女が初めて見せる硬い表情に、また良からぬことが起きているのではないかと胸騒ぎを覚える。
「都筑くん、いまから一緒にロビーに来てくれる? この雨のことで今から話し合いをするみたいなの」
それは本来であれば教師のみで話し合う懸案なはずだ。
クラス委員長までが呼び出されたとなれば、そこにはそれなりの理由があるのだろう。
ベッドに寝転びながらスマホのゲームに興じていた聖にルームキーの管理を依頼し、副担任の後ろに続くと一階へと急いだ。
ロビーには十四人からの教師と旅館の従業員、そして各クラスに二人いるクラス委員長が既に集まっており、どうやら俺と副担任の到着を待っていてくれたようだった。
先に来ていた舞の姿をその中に見つけ、彼女のいるベルベットのソファーの隣に浅く腰掛ける。
旅館の入り口の自動ドアから漏れ聞こえてくる雨音に負けにように声を張り上げた学年主任が、今後の動向について説明を開始した。
「時間がないので端的に言います。先ほどこの地域に大雨による警戒レベル4の避難指示が発令されました。わかりやすく言えば重大な災害が発生しつつあるということです」
その言葉が大袈裟ではないことは、日中ここに向かうタクシーの中で見た光景が物語っていた。
「この旅館は標高の高い場所にあるので、浸水被害に遭う可能性はまずありません。ただ、建物の背後は山の斜面になっているので、地滑りなどの土砂災害が起こる可能性を否定出来ません」
地滑りという単語に背筋に寒いものが走る。
「クラス委員長のあなた方に集まってもらったのは、この旅館には館内放送設備がないのでどうしても人手が必要だったことと、事情を知らない生徒たちにはあなた方から説明してもらうのが一番だと考えたからです。今からこの旅館を出て避難することはそれ自体が大きなリスクを伴うので、明朝まではここで待機し、夜明けとともに指定避難場所である地元中学校の体育館へ移動します」
ここに来る途中の山道は、その時点でもうウォータースライダーのようになっていた。
暗闇の中そこを歩いて下るのはリスキー以前に不可能に思えた。
「あなた方は今から各部屋を回ってください。そして部屋にいる生徒には、山側から離れた場所で身の安全を確保するように指示を出して下さい。私たち教員と旅館の従業員の方は、部屋にいない生徒に指示を出します。それでは出来るだけ早く、お願いします!」
先生から号令が掛けられたのと同時に、そこにいた全員がそれぞれの役割を果たすべく駆け出した。
俺は男子の部屋を、舞は女子の部屋へと向かい全力で階段を駆け上る。
その途中ですれ違った生徒にはすぐに部屋に戻るように指示を出し、廊下の片っ端からドアをノックして出てきたクラスメイトに事情を説明する。
パニックを起こさせないためなるべく柔らかい表現を選び、尚且切迫している状況を理解してもらうというのは二律背反としか言いようがなかった。
「とにかく部屋の隅に布団を移して、その上で恋バナでも怪談でもしてくれないか?」と、頭を下げながら旅館中を駆け巡った。
十分ほどですべての部屋を回り終わることができた。
今後の指示を仰ぐために再びロビーに戻るために階段へと向かって廊下を早足で歩いていると、後ろからスリッパの足音がパタパタと聞こえてくる。
「おい五月。なんか大変なことになってるみたいだけど、オレにもなんか手伝えることってないか?」
「ああ、うん。ありがとう聖。じゃあ一緒にロビーの先生たちのところに行こう」
いつになく真剣な表情をした聖を引き連れ、階段を一段とばしで降りて一階へと到着したところで、ちょうど向こうから舞と南海が歩いてくるのが見えた。
その表情はとても硬く、南海に至っては舞の腕に抱きつき顔を青くしている。
「男子のみんなは? 部屋にいた?」
舞はそう言って不安げに身体を縮こませる。
「半分くらいかな。ここまで戻ってくる時に少し遠回りをして廊下にいる連中にも声を掛け――」
最初は気のせいだと思った。
だが、自分以外の三人が辺りをキョロキョロと見渡す様をみて、それが現実のものだと理解する。
「……揺れてる?」
揺れはすぐに建物全体を震わせ始めると、直後には大きな地響きを伴い始める。
「イツキ……これって」
「舞! こっち来て! 早く!」
次の瞬間、その時は訪れた。
舞が俺のもとへと一歩踏み出したと同時に館内の照明がすべて消え去り、自分の前髪さえも見えないような完全な闇に包まれる。
「舞っ!」
再び彼女の名を叫んだのと同時に、柔らかく温かい何かが胸に飛び込んでくる。
咄嗟に抱きしめたそれからは、よく嗅ぎ慣れたコロンとシャンプーの香りがした。
「キャアアアアアアアァァァァァッ」
遠くから悲鳴が聞こえた。
それも一人や二人ではない。
地響きと同調して揺れの幅と強さが次第に増してゆく。
地震……いや、違う。
教師たちが抱いていた懸念が的中したのだとすれば、これはきっ
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