第22話:増える『憂悶』
『スパイさんの晩ごはん。』
第二章:味噌ほど美味いものは無い。
第八話:増える『憂悶』
あらすじ:パンが美味かった。
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実のところ、老将軍への接触は急かされていない。
いや、むしろオックスには後回しにするように指示されている。
もともと私が受けた引退した老将軍を探るという命令は、彼が前線に投入される事を危険視してのもの。あるいは、彼の入れ知恵が戦況を左右しないか危惧しての事。
現在直面している危機への対処というより、予防の意味合いが強い。
オックス達では老将軍に接近できなかったので、私が王宮に潜入し物流局から新たにアプローチを試みる予定だった。だが、公爵閣下に引き抜かれたことで、私は当初予定していたより重要な情報を扱えるようになってしまった。
直轄地の運営だったり貴族同士のトラブルの仲裁だったりと雑多な仕事も多いが、戦場へ行った貴族から引き継いだ仕事は多岐にわたる。それに加え公爵として王宮の会議で発言する原稿の草案だったり、王へ向けた提言の清書だったり、閣下の動向から見えてくる情報も重要度が高い。
そして、私が閣下の信頼を得て大きな仕事を任せてもらえるようになれば、仕事と偽って工作の手引きをしたり、同胞を王宮に迎え入れたりと幅広い活動ができるようになる。
下手に老将軍にちょっかいをかけて私の存在を怪しまれると、貴重な立場を失いかねない。命令は取り消されていないが、私から情報の重要度を確認したオックスから慎重を期すように厳命された。
なので、あの日、私が老将軍の屋敷に辿り着いたのは完全な偶然だった。
しかし、もともと私は情報部の人間ではないので、潜入のための教育も任務に就く直前に詰込みで行われた。その後も何十日も旅をして、見知らぬ土地で慣れない生活や仕事で苦労した。今さら目標に近づくのを控えろと言われたところで、そんなに簡単に割り切れていなかった。
だから、門番の男と知り合った時、老将軍を探れそうな切掛けを探したし、あのパン屋で老将軍に近づける可能性を見つけて喜んだ。
『旅のうさぎ屋』
魔道具の石臼を貸与し、シャロットたちの作ったパンを気に入っている老将軍は、あの店に必ず現れる。幸いなことに、あの店のパンを求めて出かける気分になるくらい美味かったし、実際に出かけた。
だが、まさか休みごとに近くに通うようになるとは思っていなかった。
ターニップに渡した土産が美味かったのか、私が行くのならついでに買ってきてくれと頼まれた。それが最初だった。ターニップの口から噂が広まり、瞬く間に近所で『旅のうさぎ屋』のパンが有名になり、いつの間にか購入希望者のリストが作られた。
それ以来、私は休みごとに『旅のウサギ屋』に通う羽目になってしまった。
リストの数のパンを買うために。
ちなみに、チキン先輩もちゃっかりリストに入っている。配達屋を営んでいて王都中を走り回っている先輩ならいくらでも買いに行くことができると思うのだが、わざわざ私から買うのだ。
「いつもありがと~!」
途中の通りでいつもの少女から黄な粉豆を買う。これも休みごとの習慣になった。ポリポリと豆を頬張りながらいくつかの店を冷やかして、果物屋の軒先でスッキリとした甘みの柚子のジュースを選んで壁にもたれた。甲冑を着込んだ男が操る馬車の列を避けるために。
軍用の馬車は優先されるので人垣が割れる。
荷台に乗っているのは100人ほどの若者で新しい穂先を付けた槍を握りしめて頬を紅潮させている。彼らは田舎から出てきたばかりの新兵のようだ。割れる人垣に気を良くしているのか、顔に恐れは無く、それどころか目をきらきらと輝かせている。
老将軍の英雄譚に思いを馳せているのかもしれない。
自分も英雄になれると。
それとなしに若者たちを観察していると、馬車を避けた人垣の中から愚痴が聞こえた。
「なあ、聞いたか?また軍の予算を増やすってよ。」
「ああ、聞いた。うちにも献金の依頼が来たぜ。何度目だって話だよな。」
「勝っても痩せた土地しか手に入らないんだろ?俺達の得にならないのになあ。」
私は黄な粉豆を摘まんで噛みしめる。いつものように黄な粉の香りが鼻腔を満たしカリっと糖衣が割れて豆が砕けるが気分は晴れない。苦くなった口に更に黄な粉豆を詰め込んでいるうちに、馬車は行き過ぎて柚子のジュースを売ってくれた果物屋の女将が私に話しかけてきた。
「嫌だね~。戦争、戦争って立て続けに起こってさ。私達は戦争なんてしたく無いのに、何で向こうさんは仕掛けてくるのかね?」
私だって戦争はしたくない。だが、食べ物が無ければ人が死ぬ。自分が死ぬのはまだいい。どうせ野垂れ死んだって未練が残るような人はいない。だが、馴染みの人物や隣人、仕事の取引相手が死ぬのは嫌だし、ましてや、幼い子供や生まれたばかりの赤ん坊が死ぬのは居た堪れない。
路地裏で冷たくなった幼い躯。
小さな棺桶の葬列はもう見たくない。
この国に来てよかったことは、食べる物に困らない事だ。フォージ王国は食料に困って戦争を起こした。なのに、この街ではこうやって金を払えば食うに困らないどころか美味いものが食える。美味い物を喰っていれば戦争を忘れさせてくれる。
味噌は無いが。
これだけ食べ物が豊富にあるならば、売ってくれれば良いのにと思う。私達だって蓄えた金や命を戦争に使うなら、高くても食料を買った方がどれだけ嬉しいだろうか。
私は黄な粉豆の詰まった喉に柚子のジュースを流し、言葉と一緒に飲み込んだ。
「さあ、私には偉い人間の考えなんて解からない。」
「それもそうさね。ところでねえ、アンタは今日もパンを買いに行くのかい?」
「ああ。」
「ウチにも買ってきておくれよ。お金は出すからさ。」
「悪いがパン屋から職人を増やすまで、数を増やさないように止められている。」
『旅のうさぎ屋』は店も小さいが、働いている人数も少ない。シャロットの家族4人と手伝いの2人の職人で店を切り盛りしているので、当然、1日に作れる量も限られる。
「あら、そうなの。そう言われたら増々食べたくなるじゃない。」
「直接買いに行けば融通してくれるんじゃないか。私がこれ以上買うと他の客の分が無くなるから、増やさないように言われているだけだ。」
「それじゃあ、私も行ってみようかね。あんた~!ちょっと出かけるから店番頼んだよ!」
果物屋の女将がエプロンを外して放り投げると、奥から果物の詰まった箱を運んできた旦那が文句を言いながらも店番を引き受けた。いや、ちょっと待て。私と一緒に来るつもりなのか?買いに行けば良いとは言ったが、連れて行くとは言っていない。
「ちょ…」
いっしょに行くとなればシャロットに迷惑がかかる。私がパンを多く買うので、彼女たちは焼くのに忙しい日なのだ。だが、断る前に果物屋の女将は私の腕をしっかりと絡め捕り有無を言わせず歩き出してしまった。
「ま…」
「ねえ、どこ行くの?若い男と浮気デート?」
「パン屋よ。連れて行ってくれるって言うからさ。」
「え~うそ。あの増えるパン?私も行く!ずっと気になっていたのよ。」
どうにか断ろうと再び口を開こうとしたタイミングで、果物屋の女将が総菜屋の女将に声をかけられた。2人の女将は私の右と左に陣取ってずっと喋り倒していて、私は口を開くきっかけさえ得られずに『旅のうさぎ屋』まで辿り着いてしまった。
「あら、いらっしゃ…い?」
シャロットはいつもの明るい笑顔のまま凍り付いた。それもそうだろう。私の後ろには果物屋と総菜屋の女将が誘った20人を超える女将や看板娘たちがぞろぞろと並んでいる。私だって予想外だったのだ。果物屋の女将が私に着いてくることも、女性たちが増える事も。
「あらやだ、すごくいい香りね!」
「あら、こっちのパンには『勇者の雲』が使われているのね。」
「こんなにあったらまた太っちゃう~!」
始めて来た店に女将たちが顔を輝かせて入ると、狭い店内はたちまち一杯になり黄色い声であふれた。
「いつものを頼む。」
「え、ええ。」
私は冷や汗を流しながら、口元を引き攣らせるシャロットに空の袋を渡すと、代わりにパンの詰まった袋を受け取った。袋には50本のバケットが入っていて、空の袋は次に来た時にまた50本のバケットを入れてもらう約束がされている。
50本のバケットが入った袋をテーブルに乗せた私は、いつものようにベーコンのエピと紅茶を追加で受け取ると、魔道具の石臼を眺めて現実逃避をする。隣にはいつの間にかついてきていた黄な粉豆の少女が座り、ニコニコと『勇者の雲』を挟んだパンを頬張って頬を汚していた。
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次回:『少女たち』と。
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