伝説の剣闘士
はるかはるか、遠い世界。
その世界には、大陸を統べる大帝国があった。
都市は繫栄を極め、人々は平和で豊かな生活を送っていた。
戦争はいまや遠い過去の出来事となり、退屈な日々に刺激が欲しくなった貴族たちは、妙案を思いつく。
それは、闘技場の建造だった。
その闘技場では、奴隷をはじめとした身分の低い者たちが剣闘士となり、命を懸けた戦いを強いられた。はじめは貴族の欲望を満たすための大会に過ぎなかったが、平民の観戦が許可されると、剣闘士たちが命を削って戦い合うさまが一躍話題となり、闘技場での剣闘大会は次第に民衆の娯楽の一つとなっていった。
帝国万歳!
帝国万歳!
死にゆく勇者たちに喝采と祝福を!
その合図を皮切りに、剣や盾、槍、さらには拳まで、己の全身全霊を捧げる戦いが始まる。
激しい剣戟の音が鳴り響き、血と汗が混じり合う。
陽に照り付けられた筋肉がぶつかり合うその様は、命の躍動と生への渇望を併せ持ち、見る者を熱狂の渦へと駆り立てた。
この闘技場では、観客たちの熱情を集めた者こそが真の勇者として称えられる。
そのため、剣闘士たちは自らの命を危険にさらしてまでも、大きな歓声を得ることに執心した。
そんな剣闘士の中に、一人の青年がいた。
彼の名は、アグナス。
アグナスは奴隷の身ではあったが、真っ直ぐな性格で愛嬌があり、それゆえに様々な立場の人間から好かれ、子供達に夢や希望を与える存在でもあった。
また、彼は剣闘士としては珍しく、"不殺"を絶対の掟としていた。
剣闘大会の勝利条件は、相手の殺害、行動不能、降伏の三つである。
己の拳一つで他の剣闘士と互角に渡り合い、気絶させることで勝利を収めるという戦い方は、残虐性を求める観客には受け入れられなかったが、女性を中心とした一部の層からは支持され、いつしか剣闘大会の名物となった。
剣闘士としては優しすぎる彼が、命を懸けてまで戦う理由。
それは、病弱な妹の治療費を稼ぐためだった。
剣闘大会は一試合ごとに賞金が用意されており、実力差がある相手に勝つほど、多くの賞金を貰える仕組みとなっている。
全ては妹のために。
家族への深い愛情がアグナスを突き動かし、彼は確実に戦績を残していった。
そしてついに、あと一戦勝てば悲願が成就するところまで来たその時――――
悲劇は起こった。
妹が何者かに連れ去られてしまったのだ。
妹が留守番をしていた家には「午後八時、闘技場で待つ」という明らかに妹が書いたものではない書置きがあるのみ。
他に行く当てもなく、書置きの通りに闘技場を訪れたアグナス。
そこで待っていたのは、この帝国の第一皇子、ベティスだった。
ベティスは容姿端麗で優れた剣士として有名であり、皇族特権と称した剣闘大会への出場経験もある。
だが、性格に難があり、自らの快・不快を指標に動く傲慢かつ非道な男であるため、民衆からは快く思われていなかった。そんな彼は、不殺を貫きながらも観衆の支持を得るアグナスのことが心底気に食わなかったようだった。
「次回の剣闘大会に参加せよ。余も剣闘士として出る。貴様を妹の目の前で打ち首にしてやろうぞ。棄権した場合、妹の命は無いと思え」
狼狽えるアグナスに対し、ドスの利いた声で彼を脅したベティスは、暗闇の中へと消えていった。
そして、大会当日。
数多の戦士を必死に抑え、何とか決勝まで勝ち残ったアグナス。
決勝の相手はもちろん、ベティスだった。
観衆は彼に対して親指を指し降ろし、非難の声を浴びせている。
無言でこちらを睨み付けるベティスを見て、アグナスは決意する。
たとえ刺し違えてでも奴を倒す、と。
そして観衆の昂りが最高潮を迎えたその時――――
帝国万歳!
帝国万歳!
死にゆく勇者たちに喝采と祝福を!
戦いの合図が、会場に騒々しく響き渡った。
先手必勝。
そう思ったアグナスは、凄まじい踏み込みから全速力で相手の懐に飛び込んだ。
長剣は間合いが広い分、詰められた時に崩れやすい。
アグナスは長剣の弱点を、その身をもって理解していた。
瞬く間に距離を詰め、彼の右拳がベティスの腹を捉えたその瞬間――――拳の先で鈍い音がした。
鉄を殴ったかのような感覚。
見ると、ベティスは拳の一撃を剣の腹で防御していた。
一瞬で距離を詰めたアグナスに劣らないほどの反射神経と俊敏さである。
人間としては最悪だが、剣士としては最高なベティス。
彼はすぐさま剣を振り上げて受け止めた拳を跳ね返し、そのまま剣を振り下ろす構えに入った。
距離を詰めたことが仇になったかに見えたアグナス。
しかし、アグナスは冷静だった。
やられる前にやるしかない――――
アグナスはその場にしゃがみ込むと、ベティスに向かって回し蹴りを放った。
足がさらわれてバランスを崩し、思わず前に倒れこむベティス。
その隙を、アグナスは逃さない。
がら空きとなったベティスの顔面に向かって、彼は渾身の右ストレートを叩きこんだ。顔に拳がめり込むほどの威力で殴られたベティスは、瞬く間に後ろに吹っ飛び、そのまま背面の壁へと激突。
あまりの衝撃によって巻き起こる砂煙。
しばらくして煙が晴れると、そこに現れたのは、パンチと血、それから涙によって自慢の顔面が酷く歪んだベティスの気絶した姿だった。
湧き上がる歓声。熱狂する観衆。
アグナスも思わず右手を天に突き上げ、喜びをかみしめた。
卑怯な相手に屈することなく最後まで戦い抜き、観衆を魅了したその姿は、まさに勇者と呼ぶにふさわしかった。
その後、ベティスの取り巻きから無事に妹を取り戻し、賞金を獲得できたアグナス。しかしその翌日、彼宛に宮殿からの手紙が届いたのだった。
ベティスから報復を受けるのではないか、と警戒しながら王宮に赴いたアグナスだったが、兵士に通されたのは皇帝の間であった。
驚くべきことに、彼を待っていたのはベティスではなく、皇帝だったのだ。
予想だにしない人物にアグナスは緊張を隠せない。
そんなアグナスをしっかりと見据えた皇帝は、厳かな口調で語り始めると、ベティスの非礼について深々と謝罪した。
そして、剣闘士として素晴らしい戦いを見せてくれたことへのお礼として、妹と共に奴隷身分からの解放、そして妹の病気に対して質の高い医療の無償提供を申し出たのだった。
こうして、妹と共に自由に暮らせるようになったアグナスは剣闘士を引退。残りの余生を穏やかに過ごした。
だが、民衆に勇気を与えた彼の剣闘士としての生き様は後年にまで語り継がれており、見る者全てを魅了した伝説の剣闘士として、今でも多くの人々の心に刻み込まれている。
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