第二十九話 夢

 これが夢だということは分かっていた。

 自分が、祓魔師鷹橋柊夜として生きるようになった、始まりの過去。


 あの日、雪が降った日。

 誰にも見つけてもらえなかった自分を、たった一人の家族さえ守ることができなかった自分を、拾い上げてくれたあの人。


「ねぇ、大丈夫?」


 降りしきる雪と同じような、しかしそれ以上の輝きを持った白銀の髪色に、柊夜は全身を刺すような痛みを忘れて見惚れた。

 少しかがんでくれたことで、ぼやける視界の中でも黄金の瞳はキラキラと光っていた。


 まるで、雪原に佇む天使のような彼女の姿に、ただ時間を忘れて見入っていた。


「妹を……助けてください……」


 体力が既に尽きかけ、意識が朦朧としている中でも妹を助けてと言えたのは、母から託されたからか、それとも自分の意志なのか。

 どちらにせよ、妹と違って既に死にかけている自分は、助からないだろうと思った。


 だから、せめて妹だけは、なんとしてでも生きてほしい。

 それは、尽きかけの命でもなお、決して消えることのない意志の炎。

 初冬の寒さでも、決して凍えることのない想い。


 その思いが通じたのか。


「貴方の妹は、もう助けました。安心してください」

「そう、ですか……良かった……」


 妹は既に助けられたと訊いて、安心して目を閉じる。

 もうこれで、自分の役目は終わったと、凍えるような寒さと針に貫かれるような激痛から開放されようと、意識を闇の中へと沈める。


 だが、最後の心残り。

 妹を助けてもらったこの少女の、名前を、訊いておきたいと思った。

 覚めることのない眠りへの誘いを跳ね除け、最後の気力を振り絞って尋ねる。


「貴方の……名前を、教えて……ください」

「私は明日香、羽柴明日香。貴方の名前は?」


 明日香、羽柴明日香。

 その名前を何度も心の中で反芻する。


「俺は……柊夜、鷹橋柊夜。……ありあとう」


 最後に感謝の言葉を告げると、気力が尽きて意識が消えていった。

 最後に思ったのは。


(綺麗な、名前。美しい名前。最後に訊けてよかった)


 彼女の名前の美しさだった。







 その七年後の、雪原で。

 これはそう、柊夜が、祓魔師として未来へ進もうと前を向くことが出来た日の記憶。


「俺は、お前がいないと、前を進めない。未来を見て歩けない。だから、そんな事言うな」

「良いんだ、僕の存在はイレギュラー。でも間違いなく、魔霊と同じ存在。そんな僕の隣りにいる君は、間違いなく茨の道を歩くことになる。他でもない、僕のせいで。柊夜に迷惑をかけるくらいなら、僕は君に祓ってほしい」


 無傷だが血が大量に付着した柊夜と、薄く透けるような柊夜の相棒。

 二人は向かい合っていたが、柊夜は今にも泣きそうに、しかし相棒の彼は泣きそうだが笑っていた。


「俺が、俺がなんとかする!! お前が、生きていけるように!! だから――」

「違うよ、柊夜。僕はもう、死んでいるんだ。死んでもなお、こうして現世にしがみついている、醜い怪物。僕は、もう未練はない。柊夜を助けられた、僕の想いを、託せた。何も、思い残すことはないよ」


 相棒の彼は、もう良いんだと、柊夜に告げる。

 その表情は、自分の仲間の間違いを諭すときのような、そんな困ったようでいて酷く優しげな目付きで。

 しかし。


「だったら、何でお前は泣いているんだ!! その涙は!! 一体、どうして溢れているんだ!! 本当は、生きていたかったんじゃないのか!!」


 相棒の彼の優しい目から溢れた、大きく温かい雫が頬を伝っていた。

 魔霊は、意志そのもので出来ている。

 泣きたいと思ったら、涙を止めることは出来ない。


 だが、どんなに悲しくても、彼はもう決断している。

 どれだけ柊夜に言われようと、違えるつもりはなかった。


「僕だって、まだ生きていたかった。君と馬鹿なことで笑っていたかった。君と背中を預けて戦っていたかった。いつも一緒に過ごしたかった。でも、僕は死んだ。僕の役目はもう、終わったんだよ」

「そんな事言うな!! まだ、成人すらしていないじゃないか!! もっとこれから強くなって、両親みたいに人を救うんじゃないのか!?」

「そうしたかったさ。でも、僕の想いは、君に託したんだよ。僕の意志は、君が継いでくれるんだろう? なら、君が生きる続ける限り、僕の心は君の中で生き続ける。僕の託した想いと意志は、永遠に不滅だ」


 だからそんな悲しい顔をするなと、今も涙を流し続ける彼は柊夜に笑いかけた。

 だが、その笑みのうちに秘めた悲しさは、全く隠せていない。


 相棒の彼だって、柊夜と別れるのが寂しくないわけじゃない、辛くないわけじゃない。

 彼にとっては初めて、心から信頼できる相棒で、これからも一緒に戦うはずの親友で。


 それでも、彼は命を落とし、その想いと意志を柊夜に託した。

 ならば、たとえ身を引き裂かれるような悲しみに暮れていたとしても、その中に一片の悔いも残ってはいない。


「でも、俺だけでは、お前の想いも、意志も、果たせない」

「大丈夫。柊夜なら、きっとできる」


 柊夜が弱音を吐いても、彼はできると励ます。

 それはきっと、今までずっと彼が、隣でどんな恐怖や苦しみにも屈せずに自分の意志を貫こうとした、相棒の姿があったからで。


 でも柊夜からしてみれば、それは全て彼が一緒に戦ってくれたからで。

 一人で、できるような気がしなかった。

 これからずっと、一人で戦える強い気持ちを、持つことができる気がしなかった。


「どうして、そう言い切れるんだ?」

「だって、そうだろう?」


 そんな自身を持てない柊夜に対して、彼はたった一言。


「柊夜は、僕の相棒なんだから」


 それだけの言葉だったが、柊夜にとってはどんな長い励ましよりも、自身を包み込んでくれるように温かく、そして絶対の根拠に裏打ちされたものだった。


「……あぁ、そうだな。俺は、お前の相棒。そうだったよ」

「そうだよ、何を忘れているんだよ。僕の相棒は、こんなところで挫けるような男じゃないよ。どんなときも必ず、何度でもやり遂げる不屈の男なんだから」


 そう言って、彼は笑った。

 今度は、悲しみに暮れた中での虚勢のような笑みではなく、相棒の自慢をするような、そんな温かい笑みだった。


 それを見た柊夜は、どうしてか可笑しくなって一緒に笑うが、それでも心からのものではなかった。


「でも、やっぱりお前を祓うなんて、俺には出来ない。親友を祓うなんて、相棒を手に掛けるなんて、俺には出来ないッ」


 どんなに彼に言われようと、柊夜はこの手で相棒を祓うなど出来ない。

 二年もの間、共に笑いあい、共に戦い、ときには意見が分かれぶつかりあい、それでも最後は一緒に過ごした相棒を、自ら祓うなど、できるはずもなかった。


 柊夜にとって、彼の存在はもうなくてはならないものになっていた。

 失うことなどあってはならない、欠けてはいけない存在になっていた。


 柊夜の絶対に認めないという言葉に、彼は困ったような顔をするが、それは一瞬のことで、すぐにいつもの、いやそれ以上の優しい顔つきになった。


「ねぇ、柊夜。柊夜はもう、僕の全てを受け取った。君はもう、一人で歩けるはずだよ」

「そんなことない!! 俺は、お前が必要だ。お前がいないと、俺は歩くことは出来ない。お前が教えてくれた未来に、お前とでなければ進めない」

「大丈夫だよ、僕の想いと意志が、柊夜とずっと一緒に進んでくれる。それに、何も一人で歩く必要はないんだよ。君の大切にしているお姫様に、いつでも頼って良いんだ」

「お姫様って……明日香様のことか」

「そうだよ、祓魔師のことを明かせなくても、彼女はきっと、柊夜の心に寄り添ってくれる。だから安心して。君はもう、前へと進めるよ」

「……そうか。お前を、信じるよ。俺の相棒は、一度たりとも大事な選択で間違えたことはなかったからな」


 柊夜はそう返事をして、彼の持っていた黒い直剣を握った。

 その切っ先を、彼の心臓に向けて。


 剣を向けられても、彼はずっと優しい笑顔で微笑んだまま。

 涙ももう、止まっていた。


「ごめん。俺のせいで、俺を庇ったせいで……」

「良いんだよ、もう。僕が、柊夜を守ることが出来た。それだけでもう良いんだよ」

「……ごめんじゃ、ないよな」


 そう言うと、いつもの真顔でも、別れの辛さに悲観する悲しげな顔でもない。


「ありがとう」


 彼と同じような微笑みで、一気に心臓を貫いた。


 すると彼の魂が破壊されたことで、より身体が希薄になる。

 透き通って、今にも消えそうになる。


 そんな儚い、少しでも触れてしまえば塵となって消えてしまいそうな彼は、全てが消え去る前に柊夜を抱きしめた。


「それは、僕のセリフだよ」


 力いっぱい、全てが尽きるまで、彼は柊夜を抱きしめる。


「柊夜と過ごした沢山の日々は、僕のなによりも大切な思い出。一人で蹲っていた僕に、光を与えてくれた君と一緒にいられて、楽しかった」


 彼の心に、柊夜と今まで過ごしてきた日々が駆け巡る。

 それはきっと、彼の辛い記憶を包み込んでくれるような、温かい思い出で。


「君と出会えて、僕は前を向けた。君と出会えて、僕は前へ進めた」


 そんな柊夜がくれた思い出が、彼を前へと進ませる原動力になった。

 柊夜がいたからこそ、彼はどんなときも最後まで諦めずに戦っていられた。


「ありがとう。僕と出会ってくれて」

「あぁ、俺もお前と出会えて、良かったよ」


 柊夜も出会えて良かったと伝えると、彼はもう消えていた。

 霊子も残り僅かだったからか、爆発することなく温かいエネルギーが柊夜を包み込む。

 柊夜を照らすその光は、まるでお別れを言っているようで。


「さようなら、黎」


 最後に彼の名前を呼んで、柊夜は空を見上げた。

 

 柊夜の心を、彼と過ごした多くの思い出と悲哀、力が届かなかった悔しさと激しい怒りが埋め尽くしているというのに。


 真冬の夜空は、雲一つなく、星々が輝いていた。




    ◆◇◆◇◆◇◆◇




 そこで柊夜は、目を覚ました。

 

 それはきっと、今の柊夜を形作った決してなくてはならない過去で。

 そして、柊夜の生きる意味で。


「嫌な夢だ。でも、忘れてはいけない夢だ」


 この先もずっと、絶対に忘れることはない、忘れてはいけない思い出だ。


 携帯端末の画面に目をやると、いつもの起床時間の午前五時よりも前だった。

 おそらく二度寝しても、すぐには眠ることは出来ないだろうと判断した柊夜は、素早くランニングを始めようと着替え始める。

 楓はまだ寝ているため、静かに準備してドアを開ける。


 そんな外に出た柊夜を出迎えたのは、明日香に命を救われ、黎が命を落とした真冬の夜空に輝く星と対称的な、真っ赤に立ち昇る朝日だった。


「絶対に、忘れない」


 柊夜は、黎との約束――彼から託された想いと受け継いだ意志を思い出して、夏の朝を駆けていった。

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