第3話
夜の闇がテラスを包み込んでいる。
ようやく一人になれた。
ひんやりとした手すりにしがみつくと、そこに顔を埋める。
やっと分かった。
私は好きなんだ。
彼のことが。
こんなにも胸が高なるのも、どうしようもなく苛立つのも、楽しくて仕方ないのも、腹が立って眠れなくなるのも、あの人のことが好きだからだ。
紅い髪が揺らめくのを、視線の先が見ているものを、彼の指が触れるものを、もう知ることが出来ない。
あの人の話す声が、聞こえてくる言葉が、私に向けられたものでなくても、聞いていたかった。
遠くで見ているだけでも、彼に見られているのならそれでよかった。
出来ることならいつまでも側にいたい。
だけど、あの人が本当に望む側にいたい人とあの人が一緒にいるところは、絶対に見たくない!
流れ落ちる涙を拭う。
冷たい夜風が、火照った頬を冷ましてくれる。
遠くに行くのなら、行ってしまえばいい。
きっと彼は、いつか自分の望みを叶えるだろう。
だったら私も、忘れるだけだ。
もう二度と会うこともない。
大丈夫。
マートンのことだって大好きだったもの。
それでもお姉さまとの幸せは祝えるのだから、彼のことも平気よ。
そもそもリシャールにとって私なんて、なんでもないんだから。
肺に溜まる濁る空気を、一気に外へ吐き出す。
新たに吸い込んだ冷たく新鮮な風に、体ごと生まれ変わったみたいだ。
空には月が出ていて、星は見えない。
彼がこれから旅立つレランドは、南西の方角にある。
そこからでもきっと、同じ月はみえているだろう。
自分でもバカなことをなんて分かってる。
それでも繋がった同じ空の下にいることが、今の私にとって唯一の救いだった。
夜会もそろそろ終わりを迎える。
冷えた体を抱きしめた。
今日はもう帰って早く眠ろう。
こっそりと振り返ったホールでまだ夜会は続いているが、部屋に戻っても問題のない時間帯だ。
誰にも見つからないよう部屋に戻るには、どうしたらいいだろう。
ここからだと、一旦ホールに戻るしかない。
もう少し待って、人が減ってくるのを待とうか。
冷たい夜風に、指先が震える。
あの人がいなくならないことには、このパーティーは終わらない。
早く帰ってくれないかな。
別れ難い人との最後の逢瀬を楽しんでいるのなら、さっさと抜けだして二人きりになってしまえばいいのに。
自分の息を吐きかけながら、指先を温める。
そうだ。
ここからならあの人が部屋に戻る時に、回廊を渡る姿が見えるかもしれない。
それを確認したら、私も出よう。
テラスの隅へ移動する。
かじかむ手を抑えながら、身を乗り出した。
夜会に出席していたカップルが、退出を始めている。
「ルディ!」
頭上から声がして、思わず空を見上げた。
リシャールが屋根を伝ってテラスに飛び降りる。
「ちょ、どこから来て……!」
不意に彼の手が私の口元を塞いだ。
「静かに。ここじゃすぐに見つかる」
彼は慎重に辺りを見渡すと、片付けの始まったホールを背に、テラスの反対側へ移動した。
この下には、低木の茂みが広がっている。
「ここから降りられるか?」
リシャールはそう言うと、二階のテラスから地面を指さす。
「降りるって、飛び降りるってこと?」
「そう。出来るか?」
「え? そんなの、無理に決まって……」
人の近づく気配に、私たちは息をひそめる。
「先に行く。ちゃんと受け止めてやるから」
片腕を手すりに乗せ、彼はヒラリと階下に飛び降りた。
真っ暗な茂みの中で、白い服を着たリシャールの腕が、私に向かって伸びる。
「おいで」
月明かりに、紅い目と髪が誘う。
私は手すりを乗り越えると、迷うことなく彼の胸へ飛び込んだ。
ふわりと受け止めてくれたその力強い腕に、しっかりとしがみつく。
ぎゅっと抱きしめた背に、彼の手が回った。
痛いほど抱きしめたつもりだったのに、彼の腕は愛おしそうに優しく私を包み込む。
「行こう。こっちだ」
茂みをかき分け静まりかえった城内を進む。
足音を忍ばせ、建物の壁に沿って月影を歩くこの人の、紅い髪を見ていた。
繋いだ手が、このまま離れなくなってしまえばいいのに。
「見ろ。いい眺めだろ」
「そうね。とっても素敵なところだわ」
リシャールより私の方が城内に詳しいことは分かっているのに、彼は嬉しそうに高台へ案内する。
ここは王城の東にある夏の広場だ。
暑い時期には人工の池に舟を浮かべ、手前にある広い芝生に馬を並べて競い合う。
リシャールが私を連れ出したのは、そんな広場を見渡せる東屋だった。
風通りのよいこの場所は、夏こそ夕涼みに最適でも、秋の深まった今では、確かに人気はない。
幼い頃からよく座っている石造りのベンチに、リシャールと並んで腰を下ろす。
池には大きな月が浮かんでいた。
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