第2話

「ルディ。君が今の仕事をとても大切にしていることはよく知っている。だからこそもっと、多くのことを見て、聞いて、知って、経験を増やしたらどうかと思ってるんだ」

「それだと、聖堂の仕事は減ってしまいますわね」

「君には出来ることがたくさんある」


 真っ赤なサララントの果汁が、あの人の目の色を思わせる。

すぐそばにいるのに、手の届かない人。


「もちろん、今すぐにというわけじゃない。今後のことを考えれば、早めに慣れておくのも悪くないんじゃないかな。まぁ、ゆっくり考えてみてくれないか」

「……。そうね、分かったわ」


 グラスの中の赤い果汁を、くるくると転がす。

王女として、いつまでもこのままではいられないよと言われているのだ。


「リシャール殿下もいなくなる。君が聖堂に残って、あれこれ気に病む必要もなくなる。早く楽になればいい」

「お姉さまには、近々よいお返事をしにいきますわ」

「よかった。期待しているよ」


 優しいマートンの微笑みには、いつだって安心させられる。

幼い頃からずっと見守ってきてくれた人だ。

風邪を引いた時も怪我をしたときも、大好きなぬいぐるみをなくして泣いていた時も、この人はいつも助けてくれた。

マートンとエマお姉さまが喜んでくれるなら、なんだって出来る。


「そうだルディ。今度ダオランの街にね、新しく出来た……」


 不意にマートンはおしゃべりを止め、一礼すると後ろへ下がる。


「失礼。邪魔したかな」


 リシャールだ。

二人の時なら悪態をついて髪の毛やスカートの裾を引っ張ってくるくせに、今は上品なよそ行きの笑顔を崩さない。


「リシャール殿下。あなたがいなくなると、この城も寂しくなります」

「まさかあなたのような恋敵がいるとは、思いませんでした。私の最大の誤算ですね」

「お戯れを。私など殿下の足元にも及びません」

「いやいや、完敗ですよ。おかげで手ぶらで帰国することになりそうだ」


 マートンが恐れ入るように頭を下げる。

リシャールは美しく整った高貴な目を、私に向けた。


「ルディさま。私とダンスをするのは、もうお嫌になられたかな?」


 すました顔をして平然と誘うこの人に、私だってちょっとは困惑している。


「まぁ。そんなことはありませんわよ」


 渋々差し出した手に、彼の手が添えられた。

腰に回された手が、私をエスコートする。


「よかった。君に嫌われたままここを去るのは、心残りだったんだ」


 ふわりとしたリードで、ダンスが始まる。

彼の腕の中で小鳥の卵にでもされてしまったような感覚だ。

そんなに大事そうに恐る恐る丁寧に扱わなくても、今さら壊れたりなんかしないのに……。


「どうされたのですか。私になんか優しくしても、なんの意味もありませんのに」

「意味なんてあるかよ。ただ俺がこうしたいから、やってるだけだ」


 リシャールが王子の微笑みを浮かべる。

私が聖女でないと知ってから、一度も向けられることのなかった笑みだ。

最後にこんなことをしてくるなんて、本当にズルい。


「……。殿下が、いつも楽しそうにしておられるのを、遠くからお見かけするのが唯一の楽しみでした」

「もっと近づいてくればよかったのに」

「あなたとここで過ごした日々は、決して忘れません」

「ふふ。そうだな」


 繋いだ手が高く持ち上げられた。

触れているのも分からないくらい、腰に軽く添えられただけの腕で、くるりとターンする。

紅い目がじっと私を見つめているのに、会場の片隅がどよめいた。

リシャールの視線は、たちまち会場へ現れたエマお姉さまに奪われる。


「あなたの恋が報われないことに、ほっとしましたわ」

「どうして?」

「だって、そんなことになったら、私が困りますもの」


 彼とのステップに、もう力強さは感じない。

初めてこの人と踊った時の、あの焼け付くような情熱は、やっぱり私に向けられたものではなかった。


「君を困らせるようなことばかりを、俺はずっとしていたんだな。そうか。この先は全部、忘れてくれ」


 真っ白なお姉さまの聖女服が、目に眩しい。

キラキラと輝く純白の衣装が、こちらへ近づいてくる。

エマお姉さまは、明らかにリシャールが踊り終わるのを待っていた。

彼の視線もまた、お姉さまへ向けられる。

顔を出すのは分かっていたけど、こんな時にまで、この人がお姉さまにひざまずく姿を見たくはない。

音楽は終わりを迎えた。


「さようなら。よい旅路を。無事の帰国をお祈りしております」


 まだ踊りきっていないのに、私は彼の腕から離れた。

一歩早いタイミングで、膝を折り礼をする。

彼が頭を下げた瞬間、背を向けた。


「ルディ、待て!」


 走ってはいけないと分かっているのに、足が止まらない。

それは勝手に動いて、階段を駆け上がる。

後ろを振り返りたくても、怖くて出来ない。

お姉さまが来ていた。

彼は追いかけて来ない。

そういうことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る