止まれないではなく、止まることは絶位に許されない。2人の間ではそのように変換されてそうですね。
人の性に誰も彼もが振り回されて1000年を超え、それでもまた起きるかもしれない。本当に何も学ばない。いや、この映画で学ぶことになるのかもしれないですね。
作者からの返信
世界でもっとも力を持ってしまった者のジレンマですね。
自分がやらねば他の誰もできない。
なれば自分が干渉しないことで発生した悲劇も、自分の罪になりうる。
ただし、干渉したことで発生した罪もまた、自分が被ることになる、という。
現実の地球だと歴代の覇権国家が常にこのジレンマを抱えていましたが、この世界だと個人がこの力を持ってしまってるわけですね。
天罰の大火と言われつつ、一度目とついてる時点で何度もあったわけで…
三千年の間平和を祈りながらゾーフィアもラスコーリンも精神の擦り減る虐殺を続けたことがよく分かります。
諦めない強固な意志の強さが彼女たちを支え続け、凶行に走らせてしまったと…。
作者からの返信
100001人を救うために、100000人を死なせるような行為のくり返しですね。
それでも一人は多く救えた。と納得できるならいいですが。
じゃあその一人を救ったとして、戦争がなくなるわけでもなく、また次ぎの戦争が始まる。
そして次は200001人を救うために、200000人を死なせるというくり返しです。
しかも、エルフに一度は味方したあとで、首都を壊滅させたように
自分達で救った人々を何度も手にかけたわけで……。
『一人でも多く救えたその一人』すら自分達で死なせることすら日常になってしまっていたわけですね。
人と言うものの性ですね。ラスとゾーニャもそうだけど、人と言う生き物もまたどうしようもない生き物ですね。彼等が争うからラスとゾーニャは動くのだから。
結果平和なんて訪れはしないのに、どちらもこれを繰り返す不毛な殺生。遣る瀬無いですね。
エルフも天罰と言っていながら争いを繰り返すのはなぜだろう。
作者からの返信
二人が行動しようがしまいが、戦乱が繰り返されちゃいますからね。
そうなると、二人ができることは、少しでも犠牲者を減らすこと。
犠牲者を減らすために、犠牲者をだすことを繰り返すしかないどん詰まりですね。
そのわずかに救われた人々を助けたことに意義があったかどうかは、他人から見れば、少しでもあったと考えることはできるかも知れませんが。
二人から見れば、永遠に終わらない地獄が繰り返されているだけになっちゃいますね。
結局のところ二人がやっていたことは、本来は他人がやっていた殺人を、自分達で肩代わりして、他人のかわりに罪を背負うことになっちゃっています。
エルフの行動は天罰の解釈がどうとでも言えちゃうからですね。
1度目の天罰は大義がない開戦をしたからだと解釈しても
2度目には別の開戦の大義があると彼らが考えた場合には、「開戦しないことが逆に罪」という解釈もなりたっちゃうからです。
さらにはどれくらい信仰心が強いかも、世代によって差があるので、
3度目のときは天罰という概念自体が形骸化してました。
焼けたエルフの都で見た光景、自分たちの故郷と重なったようですね。
いつの間にか、された側からした側に変わってしまった。
ラスコーリンさんの苦悩はいかばかりか。
戻る事もできず、迷いながらも己の信念を貫く二人。
三千年も続いたのは、絶えず戦争へ導く『人』がいたからなんですね。
作者からの返信
まさに『人』であるゆえですね。
何かを守るために戦い。殺す。それは人の宿業としかいえないものですが、本来は全人類で分担して担うようなその宿業を、二人は肩代わりしてしまってるような状態です。
本来は他の人々が死なせるはずだった犠牲者を、彼らが先回りして死なせることで、犠牲を最小にするわけですからね。
短期的にみれば犠牲は減っていますが、長期的にみれば同じ事が繰り返されるわけで、何も変わりないという絶望です。