第12話

 千晴と紗季のアドバイスを念頭に、スローラインを越えないように意識しつつ、ミドルスタンスで構える。肘を動かさないよう細心の注意を払いながら、明音はダーツを投擲した。


 軽快な音を立てて、ダーツが中央の赤丸に突き刺さった。ブルズアイだ。電子ボードがシングルブルを報せ、「お」と千晴、紗季、燈子の声が重なる。


 次いで二投目、狙いはやや右下に逸れて15のシングル。


 三投目。再びフォームを意識し直して投擲したダーツは、吸い込まれるようにど真ん中へ突き刺さった。ダブルブル。セパレート形式を採用していないこのゲームにおいては変わらず50点で、合計115点。LOWTONの文字が派手なエフェクトと共にダーツ台の液晶部分に表示され、明音は大きく息を吐き出した。振り返る。


「どうだ」

「やるじゃん」

「ダーツ分かってきたかも」


 振り返った明音に千晴からの賛辞が飛ぶが、明音は調子に乗って生意気なことを言い放つ。それを聞いた千晴は「認知バイアス」と呟きながら鼻で笑った後、スローラインにクローズドで立った後、やや前のめりになりながら三本のダーツを投擲した。


 三本のダーツは全て、綺麗な軌道でブルへと直撃した。HATTRICK。


 ゼロワンゲームにおける残数150点のカウントダウン。それを三発で綺麗さっぱり消し去って一抜けした千晴は、吐息と共に勝ち誇った顔で後ろの三人を振り返った。


「ちょっと大人げなかったかな?」


 明音と燈子の額に青筋が浮かぶ。


「大人げが無いと言うか余裕が無いよね」

「やだやだ。初心者の前で実力を誇示するような経験者にはなりたくないですね」

「うはは、何とでも言いなさい」


 千晴は笑ってボードからダーツを引き抜き、悠々とした足取りで椅子に戻る。


 台に残数148点と表示され、入れ替わりで紗季が立つ。彼女は白い目で千晴を見た。


「こいつほんと、何やらせても上手いんだよ」

「すみませんねぇ、天才肌で」


 んふふ、と上機嫌に不愉快な笑い方をする千晴を三人で一睨みして、残る三名で上がるまで投げ続ける。最終的な順位は148点を見事に一発で仕留めきった紗季が二番手、続いて明音、燈子の順だった。初心者同士で愚痴を言い合って傷口を舐め合うさまは何とも情けない。


 放課後。約束通りに駅前のネットカフェを訪れ、四人でダーツを始めた。


 最初は約束通りに経験者二人から初心者に軽い指導が入ったが、一時間もする頃にはハンデ無しのゼロワンゲームが始まり、そして先ほどの結果に至る。歳月の差はそう埋まらない。


 横に広い木目調の空間の一面に敷き詰められた、無数のデジタルダーツボード。そこからスローラインを挟んだ場所に、それぞれ上背のスクエアテーブルが一つと、椅子が二つ。他の利用者は居らず、四人での利用ということもあって明音達はダーツボードを二台レンタルしており、四脚の椅子にそれぞれの鞄が置いてあった。


「疲れた。休憩」

「同じくです」


 久しぶりのまともな運動に、明音と燈子は早々に休憩を始める。


 それを見た紗季も小休止を挟もうとしたが、千晴の白羽の矢と人差し指が突き刺さった。


「おい紗季さん、アンタはまだ疲れてないだろ。逃げるな、人間ぶるな」


 鞄を持って椅子に座ろうとした紗季は、呆れの溜息を捨てて鞄を置き直す。


「逃げてないし、ぶってもない。私は人間なんだよ。で、ゲームは?」

「クリケ。この前のリベンジ」


 そんな具合で始まった経験者二人のクリケットルールを、明音と燈子は紙コップのドリンクバーを堪能しながら眺める。


 楽しそうなことで実に結構だったが、明音にも別にやるべきことがあった。


 隣の椅子に座ってスマートフォンを弄る燈子を横目に見る。


 昼間、学食で彼女は達子と会話をした。その結果、達子は口を閉ざした。その間でどんな会話があったのかは、両者ともに口を噤んでいるが、少なくとも『達子が介入しなくても問題ないだろうと判断する』ような、この事件の全貌が明らかになったはずだ。


 安直に考えれば、ラブレターの差出人は事情を知る佐倉燈子ということになる。


 だが、やはりそれは安直過ぎる。明音の目の前で口封じをすれば、明音に疑われることも分かるはず。それなのに平然と実行する人間が分かりやすく犯人だとは思えない。しかし、事実をベースに思考を展開すると、彼女が事件解決の糸口を掴んでいるのは確かだろう。


 明音はしばらく燈子を眺めた後、心配半分、会話の糸口半分で切り出す。


「ダーツ、どう? 私は中々面白いと思ったけど」


 燈子は驚きの眼差しをスマートフォンから上げた後、目を細めて笑う。


「つまらないですね、勝てないので。勝てないゲームは全部つまらないです」


 「そりゃそうだ」と笑い返した明音に、「ただ」と燈子の言葉が重なる。


「家で、一人で裏垢やってる時よりは、ずっと楽しいですよ」


 「そっか」と返した明音はやはり笑顔だったが、先ほどのそれに比べると、幾分か嬉しそうなものに変わっていた。燈子は自らの投稿に対する返信にリアクションを付け終え、スマートフォンを裏向きにテーブルに置いた。


「前までは、一人の時間の方が好きだったんですけどね」


 まるで文句を付けるような口ぶりだが、表情には恨み切れない感情が苦笑として滲んでいた。


 佐倉燈子には家族が居ない。彼女を引き取りつつも家族としては扱わない叔母が後見人となった末、逃げるように一人暮らしを始めた。本当に孤独を愛していたのか、そうしないと自分が惨めだったのかは明音には分からなかったが、二年前の彼女を思い出す限り、彼女の本質は寂しがり屋のようにも思える。


「最近は、一人にしてくれない人が身近に増えすぎました」


 そんな彼女が、そんな言葉を笑いながら言うのだから、自分のような平凡な人間でも誰かの支えになれたのだと、明音は少し嬉しくなる。


「良い事だね」

「そうなんでしょうかね? ……だとしたら、まあ、切っ掛けとなった明音先輩には感謝しないといけませんね。皆、貴女から知り合った人なので」


 燈子は、殊勝な感謝とは到底思えないような薄笑いと共に明音の瞳を覗く。意中の相手に見詰められていることへの動揺と、真正面から感謝を向けられることへの恥じらいを顔に含む。


「自分を立派な人間だと思ったことは無いかな」

「だったら今日が初めてですね。いいですよ、私の前でなら。そう思って」


 そう臆面もなく言い切った燈子が眩しくて、明音は苦笑しながら紙コップのオレンジジュースに逃げる。――燈子、紗季、千晴の三人は全員、明音を経由して知り合った、『友達の友達』だ。燈子と千晴は、三人でのオンラインゲームが発端だったか。明音と千晴の受験勉強に、教師役として紗季が来た時に二人が出会い、最後、紗季と燈子はカラオケだった筈だ。


 いつの間にか自分を差し置いて交友を深めている友人達を嬉しく思いつつ、いつの間にか忘れられたりしないように存在感をアピールしないといけないな、と己を戒める。


 その時、卓上に置いた燈子のスマートフォンが震動する。


 明音は思わず目を向けて、燈子は画面を確かめる。そして着信の内容を見て顔を曇らせた。


 人のスマートフォンを覗き込んだり、その反応を窺ったりというのはあまりよろしくない行動だとは自覚しつつ、見てしまった以上は気になる。


「どうかした?」

「ああ、いえ――大した内容では」


 伏せるなら聞かないようにしよう。納得した顔を作る明音に、燈子は唇を尖らせながらメッセージアプリにテキストを打ち込みつつ、構わず続けた。


「今日、告白されたんですよ。クラスの男子に」

「告白!」


 思わず大きな声を上げると、千晴と紗季の興味津々な目が一斉に向いた。


 燈子が白い目で「しっしっ」と追い払う所作を見せると、二人は肩を竦めながら対戦に戻る。


 そんな中、明音だけは少々気まずい。告白という一線を踏み越える勇気など持ち合わせていないものの、それでも燈子に対する恋愛感情は一丁前に持っている。


 簡潔に言うと、心中穏やかではなかった。


「そ、それで。燈子は何て答えたの?」


 つっかえながらも可及的自然に尋ねると、燈子の澄んだ綺麗な眼差しがジッと明音を見た。ドキ、と跳ねる心臓。早鐘が彼女に聞こえないことを祈る。


「なんて答えたと思います?」


 どこか挑発的な眼差しは、明音の心の奥底まで見透かしているようだった。


 椅子の余白に置かれた明音の右手に、燈子の左手が重なった。千晴や紗季からは見えない位置だ。目を白黒させて彼女を見ると、彼女はその薄桃の唇に弧を描く。――先日、交際を申し込んではいないが恋愛感情は伝えた。それを承知でこのような真似をするのは、何とも悪女としか言えない。何のつもりなのかと聞きたかったが、狼狽えて、その上で彼女の交際事情が気になって言葉が出なかった。


 辛うじて、返答が喉から絞り出される。


「分からない、けど」


 一呼吸を置いた燈子は、紗季と千晴に聞こえないくらいの小さな声で囁いた。


「お試しで、少しだけならいいよ。と」


 明音は瞳を揺らす。一瞬、燈子が二人に見えた。指先が冷たく感じる。頬が強張るが、急いで何かを言わなければと虚勢だらけの祝福の声を上げようとする。


 だが、明音が声を発する直前、トンと燈子の指が明音の手の甲を叩いた。


「――なんて、嘘です。断りました。今まで話したこともない相手でしたから」


 最初に驚いて声を失い、次に理解して口を閉ざし、最後に呆れと不満を言葉にした。


「あのさ」


 明音は不満を言いつつ、しかし、直接的に彼女に交際を申し込まない立場の分際で、自分にそんな権利があるのかとも思う。確かな安堵を浮かべる自分を情けなく思い、遠からず、どうにかしなければなるまいと心持ちを改める。予定は、未定だ。


「あはは、ごめんなさい。ちょっと意地悪でしたね」


 そう言いながら彼女は重ねた手を離す。数秒、手の甲に熱が残った。燈子は微笑を浮かべ、しー、と指を立てながら千晴と紗季には聞こえない程度の声で囁く。


「先輩が私のこと好きなのは知ってますから。傷付けるような真似はしません」

「……いや、普通にちょっと苦しかったけど」

「そこはほら、好きとまでしか言わない先輩が悪いのでは?」


 確かに、交際の申し込みまで満了して初めて『告白』という手続きであることは否めない。完全に言い負かされた明音は不貞腐れたように唇を尖らせるが、燈子は嬉しそうだった。


「苦しんでくれたんですね」


 段々と顔が熱くなってくる。空調が弱すぎるんじゃないかと天井に顔を逃がすが、風はしっかりと吐き出されていた。氷の入ったオレンジジュースを飲んで、ブラウスの内側を手で仰ぐ。視線を忙しなく彷徨わせた後、明音は燈子のスマートフォンに目を留めて安堵の顔を見せた。


「そうだ。それで、どうしてメッセージが来るの?」

「え? ああ、人気な男子だったみたいで。断ったことが広まった途端、各所から色々と。『俺ならいけるんじゃないか』って考えた男子とか、どういう人がタイプと言ってたか、って、その男子を狙っている女子からも。一々返すのも面倒なので、自分で調べてほしいのですが」


 明音はその言葉に田中と佐藤を思い出す。彼女達も、片方が誰かに想いを寄せ、もう片方がその手伝いとして交際相手の有無を確かめていた。


「あー、そういうやり方もあるよね。私も最近、そういうのを見たよ」

「役割分担や協力、つまるところ互助は人間社会の基本ですが、交際相手が居るか居ないか確かめる勇気も無いのに、告白の申し出をする勇気はあるんですから、不思議ですよね」

「なんかだいぶ棘があるね。嫌なことでもあった?」


 「現在進行形で」と彼女に見せられたスマートフォンのメッセージアプリには、既に四件の新着メッセージがあった。登録名から学友だと分かるそれらは、確認できる範囲でいずれも色恋沙汰について言及しているように見える。見てはいけないものを見た気分で、明音は顔を背けた。


「頑張って」

「勇気を出せない彼らに言ってあげてください」


 どうやって。と聞き返すのも味気ないので、「がんばってー」と床に向かって言っておく。思いのほかウケたので、少し調子に乗ってしまいそうだった。


 しかし、『互助』。明音の脳裏にはその言葉が強く引っ掛かっていた。今まで明音が考えたこともない、恋愛における観点。つまり、自分の想い人を友人に伝えることで、その成就に協力してもらおうという文化だ。それが何か、どこかで自分と繋がるような気配がした。


 そんな会話をしていると、千晴と紗季のクリケット勝負が幕を下ろした。どうやらリベンジは果たせず、紗季が前回に引き続いて白星を勝ち取ったらしい。心の底から悔しそうに歯噛みしていた千晴は、深呼吸を一つ挟んで、改めて悔しがる。


 そんな千晴を見た燈子が「今なら勝てそうですね」と、意気揚々と彼女にゼロワンゲームを挑む。初期スコアは701で、400点のハンデを付け、間髪を挟まずに勝負が始まった。


 必然、無事に勝利を収めた紗季が休憩をすることになる。


 隣のテーブルの一席に座した紗季は軽く溜息を吐いた。


「お疲れ様」


 手を振ると、彼女は微かに相好を崩す。


「ああ、うん。確かに疲れた」


 紗季は紙コップに手を伸ばし、そして、その中身が空になっていることを思い出す。次いでテーブルの上の紙コップを順番に見た後、徐に立ち上がった。


「――おい、飲み物取ってくるけど何が良い?」


 他の利用客が居ないのをいいことに、ぎゃーぎゃーと言い争いながら投げ合っていた千晴と燈子は、譲り合いの精神は何処、我先にと言葉を被せて答えた。


「コーラ! あ、やっぱ炭酸水!」「お茶系でお願いします」


 「はいはい」と苦笑して紗季が立ち上がるから、明音は自分側のテーブルに置かれていた紙コップを両手で持ち、「手伝うよ」と一緒に立ち上がった。二人で並んでドリンクバーへ向かう。


「しかし、驚いたよ。紗季さんも千晴も、相当上手だね」

「そりゃあ練習したからな。最初はお前らと似たようなもんだった」

「そんなにやってたんだ。一回くらい誘ってくれてもよかったのに」

「そりゃお前……無理な相談だ」


 階下のドリンクバーに着いて、四つの紙コップに順番に飲料を注いでいく。


「どうして」

「どうしてだと思う?」


 困り顔でそう尋ね返す紗季の横顔を、明音はドリンクバーのボタンを押しながら眺める。お茶が紙コップから零れそうになるから、慌てて止めた。


 無理な相談――無理とまで言い切るほどの強い理由がある。それを考えた。


「布を織っているとか」

「鶴を助けたことがあるのか?」

「野良猫を動物病院に運んだことなら」


 鶴の恩返しではないらしい。


「真面目な話、二人で密談でもしてるの?」

「……そういう訳でもない」


 紗季は眉根を寄せてそう答える。何か含むところはありそうだが、嘘を吐いているようにも見えない。


「私のことが嫌いとか」

「それは違う。断じて」

「じゃあ何さ?」


 痺れを切らした明音が直接的に尋ねると、観念した紗季は目を瞑る。


「笑うなよ?」

「約束はできないけど、善処するよ」


 笑いとは突然訪れるものであり、努力しても叶わないことがある。最善を尽くすが確約はしない、と誠実な対応をすると、紗季は迷う素振りを見せつつ答えた。


「――下手なところを見せたくないだけだ」


 四杯のジュースを入れ終えたのを確かめ、紗季はそのままダーツブースに歩き出した。明音は表面ギリギリまで注いだ燈子の紙コップをこぼさないよう掴んで追い掛ける。しばらく、驚きも冷めない眼差しで彼女の後姿を眺めた後、歩調を速めて隣に並んだ。


 明音がにやにやと笑いながら横顔を見ると、紗季は嘆息と共に視線を逸らす。


「驚いた。紗季さんにもそういう部分があるんだね」

「誰にだってあるだろ。お前は違うのか?」

「ううん、あるよ。私にも。だから理解できる」


 明音は紗季の顔を覗き込み、しっかりと賛辞を伝える。


「上手だったよ。カッコよかった」


 紗季は幾ばくかの驚きと照れ隠しに口をへの字に曲げ、視線を反対に逸らす。だが、照れ隠しも程々に「ありがとな」と笑うから、明音も笑い返した。


「でも、私は嫌なのに千晴はいいんだね」

「良いも悪いも、そもそもアイツから誘ってきたんだよ」


 それはまた、言われると納得できるものの驚く話だった。


「千晴から! これまた意外だね――インドアが服を着たような人が」

「アイツも、あんまりお前にダサいところを見せたがらないからなあ。……ああ、この話、アイツには言うなよ? 私から聞いたってだけじゃなくて、そもそもの中身を」

「言わないよ。こっちはちゃんと約束する」


 しー、と明音が鼻先に指を立てると、紗季は苦笑して「信じる」と呟いた。


 そうして戻る頃には、千晴と燈子の701のゼロワンゲームに決着が付いていた。


 デジタルダーツボードの液晶部分を見ると、僅差で燈子が勝利していた。400点のハンデを付けた上でなお、決着の瞬間には15点まで差が縮まっている。恐るべき千晴の腕前だ。


 大量のハンデを付けたのだから当然の結末のようにも思えるが、席に座る千晴はしっかりと悔しそうにしており、そんな彼女を横目に見る燈子は嬉しそうだった。


「ただいま。勝ったんだ」

「あ、おかえりなさい。無事に勝ちました」

「祝杯だね。勝利の美酒」


 明音は燈子へ紙コップを片方渡し、ペチ、とそれを打ち鳴らした。


 紗季は千晴へ炭酸水を差し出しつつ、「負けたのか」と頬を吊り上げる。千晴は「ハンデ無しなら勝ってたし。実質負けてねーし」と唇を尖らせる。あまりにも情けない言い訳に、紗季は愉快そうに腹を揺すって笑っていた。


「さーて、気分が良いので私はビリヤードブースに行ってきます。前から気になってて」


 満面の笑みで勝ち逃げの姿勢を見せる燈子。リベンジに燃えているかと思いきや、千晴は追い払うような所作を見せた。だが、紗季が燈子を呼び止める。


「一人でか? 多少なら教えられるが」

「あー、でも、紗季先輩もダーツをやりたいのでは?」

「投げるだけならいつでもできる。お前との付き合いはこういう時だけだろ」


 そう言って立ち上がった紗季は、返答を待たずに自分と燈子の鞄を纏めて担ぐ。伝票と紙コップを器用に片手で持ち上げ、燈子にも移動するよう促した。「そういう訳だから」と言って去って行く二人を、明音と千晴は「はーい」「おー」と見送る。


 残った二人で視線を交錯させること数秒。


「投げるか」

「だね」


 選択ルールはカウントアップ。一ラウンド三本のダーツを投げ、制限ラウンド経過時の合計得点を競うゲームだ。練習や肩慣らしにも使われるベーシックな内容になっている。


 特に競い合う目的も無く、練習も兼ねて交互に投げ合う。先手は千晴だ。


「燈子、上機嫌だったね」

「私の見立てでは500点のハンデでも勝てるはずだったんだけどね。ちょーっと、ほんの極々僅かだけ失敗して負けたらあの調子だよ。まったく」


 言葉では不満を言いつつも、千晴の口元には微かな笑みが見えた。


「そう言う割には嬉しそうだけど?」

「……まあ、燈子は普段こういうのに来ないからね。楽しんでくれたならそれでいいよ」


 その言葉に驚きはすれども、意外に思うことはなかった。


 千晴は三投で150点。見事だった。交代して明音がしてスローラインに立つ。


「手加減したの?」

「まさか、私は勝負事で手は抜かないよ。ハンデを付けたけど、その上で本気だった」

「だったら悔しいね」

「うん、悔しいよ。……でも、楽しい」


 明音の三投は68点で終わった。差は歴然である。


 再び千晴がスローラインに。彼女はダーツを投げつつ話を切り出す。


「そういえば、明音」

「うん?」

「ラブレターの件ってさ、結局、どうなったの?」


 明音は口を噤んで、静かに千晴の三投を見守った。このラウンドも見事に150点を取る。


 ダーツをボードから引き抜いて帰ってくる彼女と視線が衝突し、明音は苦笑する。


「二人きりになってから聞くんだ?」

「皆の前だと変な空気になりそうだったからね。配慮だよ、ハイリョ」

「それはどうも、ゴハイリョに感謝いたします」

「それで、差出人は見つかった?」


 明音はミドルスタンスで構え、ダーツを投げる。


「結論――もとい、結果から言うと、見つからなかった」

「ありゃ」

「東陽高等学校におけるイニシャルS.Tの生徒は、男女合わせて君達三人だけ。三人とも違うと言っているし、それを裏付けるだけの根拠もこっちで把握している。総合的に見て疑い続けるのは合理的じゃないし、この一件は可愛い悪戯として処理する予定」


 128点。最後の一投が大きく指に引っ掛かったのが惜しい。


 明音が腹の内を隠して口先を動かすと、千晴も心の読めない顔でラインに立つ。


「悪戯ね。そんな綺麗な言葉かな? いじめの類にも思えるけど」

「受け取る側がどう解釈するかだろうね。私はさほど辛くないから、これは悪戯で処理するよ。教科書を切られたり、物を隠されたり――実害が出なければ構わない」

「明音が無駄な時間を使ったんだもの。立派な実害でしょ」

「はは、株式会社夜久明音の威力業務妨害罪?」

「そう言われると悪戯の範疇にも思えるなあ。っと、外した」


 千晴の三投は110点。惜しくも一発、ブルから少し外れたが、驚異的な精度だ。


「……ちなみに、他の二人はなんて言ってたの?」


 明音がスローラインに立ったと同時、千晴からそんな質問が来た。思わず構えを解く。


「他の二人? ……あ、いや、燈子と紗季さんっていうのは分かるよ」

「『自分じゃない』って主張の他に、君に渡されたラブレターについて何か言及していたのかなって。ほら、燈子は君に特に懐いているし、紗季さんも君を特別扱いしている。全員、明音を経由して知り合った友達だから、何か思うところがあるのかなって」


 千晴が雄弁なのはさほど珍しいことではなかったが、その内容は意外と思うに値するものだった。何の目的で聞いてきているのか――そんな腹の内を探ること数秒、明音は小さく吐息をこぼした後、スローイングを再開する。そして、努めて楽天的な声を上げた。


「ラブレターが本物なら、どう対応するつもりかは皆に聞かれたね」

「あー、確かに。そりゃ友達の恋路は気になるよね。馬に蹴られようとも」


 三投を終え、ダーツを抜いて戻ると千晴の笑みが見えた。普段通りの飄々とした、食えない笑み。だが――普段とは少しだけ違うような気がした。注視して、少し強張っていることに気付く。そこに宿る感情は分からないが、明るいものではなさそうだ。


 見詰め続けようとするも束の間、彼女は明音の脇を抜けてラインに立つ。


「でもまあ、もし悪戯じゃなくて本当の差出人が居たとしたら、その人には同情するね」

「……何で?」

「だって君、私のこと好きなんでしょ?」


 千晴の表情に対する疑念など一切を忘れて、明音はボッと燃え上がるように顔を染めた。


 否定を口にしようとして、しかし、それには無理があると観念して、懇願した。


「……忘れて」

「忘れないよ」


 そうやって茶化すように振り返った千晴の笑みからは、先ほどの固さが消え失せていた。


 四人がネットカフェを後にしたのは、それから一時間後。十八時半になってからだった。


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