第11話
明音が定食を食べ終える頃、同時に千晴と紗季も食べ終えた。ちなみに、達子は小麦粉の味を心行くまで堪能するように、チビチビとラーメンを啜っている。
達子にはそのまま昼食を食べ続けてもらうとして、食器自体は先に片付けてしまって構わないだろう。明音が食器を返却口に戻そうとすると、隣、そして斜向かいの千晴と紗季から手が伸びて食器が積み重ねられたので、明音はトレイを掴んでいた手でそのまま拳を握る。
「じゃんけん――」
ぽん、の合図で見事に敗北した明音は、愉快そうに食堂を去って行く二人を恨みがましく眺めながら返却口へと足を運ぶ。銀棚にトレイを置いて「ごちそうさまでした」と伝えると、洗い場の女性が心の底から嬉しそうに笑って「ありがと~!」と言ってくれた。
また利用したいものだ。
生徒も減り始めた食堂、多少の居座りは構わないだろうと達子の方へと戻ろうとすると、そんな明音を呼び止める声が上がった。
「あの、夜久さん」
それは、二人組の女子生徒の内の片割れだった。夏場だというのに袖の長い薄桃のカーディガンを羽織った小柄な少女と、少し上背で細身の、眼鏡を掛けた少女が返却口付近に立っている。声を掛けてきたのはカーディガンの方――田中という同級生で、隣の佐藤は恥ずかしそうにもじもじと顔を俯かせている。会話をした回数は多くないが、仲は悪くない。
「あれ、田中さん。それに佐藤さんも。どうしたの、こんな場所で」
佐藤は黙ったまま、田中がにこやかに答える。
「いや、実は夜久さんが辻野先輩とお話してるところを見ちゃってさ」
辻野という苗字を、一瞬遅れて紗季と結び付けた明音は「ああ」と声を上げた。
「うん、話してたけど。それがどうかした?」
「ちょーっと聞きたいことがあって。いや、分からないならそれでいいんだけど。ご本人に聞けるほど仲が良い訳じゃないから、何か知ってるなら夜久さんに、と思いまして」
そう丁寧に前置きをした佐藤は、声を潜めて明音に耳打ちした。
「辻野先輩って、恋人いるの?」
寝耳に水とはこのことか。明音は面食らって田中の顔を凝視してしまう。
耳打ちをするような距離で顔面を見詰められた彼女は、怯んだように仰け反った後、少し頬を紅潮させながら「夜久さん?」と正気を確かめてくる。ので、正気で返した。
「ああ、ごめんね。突然だったから」
「そ、そうだよね。ごめん、実はこの子が――その、先輩にね」
田中がそう言って佐藤の背中を叩くと、佐藤は恥ずかしそうに顔を俯かせた。
「で、私が昨日、駅前で辻野先輩を見かけたのさ。そしたらそこに、ほら、さっきも先輩と一緒に居た、三組の――何だっけ、とり、どり……」
「霜鳥?」
「そう、霜鳥さんも一緒に居てさ。凄い仲が良さそうだったから、もしかして、って。あ、いや、ただの友達って可能性も十分にあるとは思うけども、ね。ほら、この子も女の子だし」
普段から一緒に遊ぶこともあるようだから、一概に肯定も否定もできまい。
つまり、結論から言えば、明音は何も知らない。二年前、彼女が明音に似た容姿のバンドメンバーと交際し、痴情のもつれで破局し、バンドが解散したことまでは知っている。その経緯を考慮すると、今は居ないと考えるのが自然だろう。明音や千晴、燈子との外出やライブ、その練習の頻度を考えると、相手のための時間を確保していないと考えられる。
だが、断言はできない。それに、
「……前提として、ちょっとプライベートな部分だから、知っていたとしても勝手に答えることはできないかな、ごめんね」
そう答えると、田中は『あ』と声を上げるような顔をした後、苦笑して両手を振る。
「そ、そうだよね! ごめん、変なことを聞いた。忘れて忘れてー」
傍の佐藤もしゅんとした顔で肩を落とすから、それを見た明音もおおよその経緯は察する。
さて――明音も、紗季には恋愛感情を抱いている。故に、淡い競争心のようなものはある。
だが、それは辻野紗季に関わろうとする人間を私利私欲で排斥することの正当性を担保する者ではない。だから、級友として筋は通しておくことにした。
「ただ、そういうのは聞いたらしっかり答えてくれる人だから。もしも気になるなら直接聞いてみた方がいいかも。約束を取り付けるくらいなら、私でも協力できるし」
そう聞いた佐藤がパッと顔を上げ、それを横目に見た田中も唇に弧を描く。
「ほ、ほんと⁉」
佐藤が声を上げ、田中がそこに続いた。
「確かに、迷惑でないなら直接聞いた方が良さそうだね。分かった、ありがとう夜久さん! 今度、私の方から聞いてみる――もしかしたら、アポだけお願いする可能性はあるけども」
「いいよ。その時はお気軽に」
明音が軽い調子の笑みでそう答えると、佐藤と田中は揃って顔を明るくさせた。
そうして二人が食堂を去って行く最中、一瞬、田中が足を止めてこちらを振り返る。「良い人だね、夜久さん」と微笑んで手を振ると、返事を待たずに去って行った。――良い人というのはつまるところ、他に褒めるところが見当たらない人間のそれだと明音は解釈している。
なんて捻くれた考え方は達子のそれが伝染したのだろう、などと考えながら食堂でラーメンを食べている彼女の方に歩き出す。
そして、達子の対面に見知った女子生徒を見つけ、目を丸くした。
達子の向かいに立って居たのは燈子だった。
田中達と会話している一瞬の間だろうか。いつの間にか食堂を訪れていた彼女は、昼食どころか席に座ることもなく、何やら真剣な眼差しで達子と言葉を交わしている。対する達子は細めた瞳で燈子を見定めつつ、残り僅かだったラーメンを遂に完食した。
互いの口が何度か動き合い、その後、達子は目を瞑りながら頷いた。
何らかの交渉が成立したらしい。燈子は丁寧にお辞儀をした後、そのまま達子に背を向けて学食の出口へ――つまり、明音の方へ。明音が学食に居るということには気づいていた彼女は、軽い会釈をして近くに止まる。
「どもです」
「や。達子と知り合いだったの?」
「そういう訳ではありませんが、まあ、軽い雑談を」
どうやら内容を素直に明かす意思は無いようで、彼女は曖昧な笑みで誤魔化した。
だが、基本的には人の隠し事は暴かないのが明音の主義だ。特に言及はせずに納得する。
「そうだ、さっき千晴達と話をしてね。今日、あの二人とダーツに行くんだ。千晴が『ついでに燈子も誘っておくとして』って言ってたから、声が掛かるかも」
「あ、承知です。――私、ダーツとかやったことないですけど、大丈夫ですかね?」
「大丈夫じゃない? 私も初心者だけど、教えられるくらいには練習したって」
「へえ、下手だったら笑ってやろ。っと、それでは私は、これで」
そんなことを言いながら、燈子は手を振って学食を後にした。千晴と紗季は、明音の知らないところで意外にも交流があるが、千晴と燈子も随分と容赦のない間柄らしい。
去って行く燈子の背を見送った明音は、今度こそ達子の席へ。五限目が始まる十数分前、学生の多くは教室に戻っており、食堂はいつの間にか空席だらけになっていた。
「ただいま」
「おかえり」
「食べ終わったなら行こうか。それとも、少し休む?」
『燈子と何を話していたの』とは聞かないでおく。
数秒、達子は沈黙していた。片腕を椅子の背もたれに、もう片腕を膝の上に置いて明音を眺める。明音が小首を傾げると、達子は嘆息をしつつ額を押さえて口を割った。
「さっき、佐倉燈子と話をした」
「ああ、うん。見てたよ。何を話してたかは知らないけど」
「率直に言うと、私はこれ以上、ラブレターの差出人捜査には協力しない」
明音はピタリと動きを止め、まん丸く見開いた目で達子を見詰めた。
彼女の普段通りの半眼が明音を見返し、数秒、視線が交錯する。人気の減った学食、厨房からの水洗いの音が聞こえるだけで、しばらく会話は無かった。
「どうして――って聞くのは馬鹿馬鹿しいかな。彼女に依頼されたんだね?」
「そうね、頼まれた。でもって、アンタに具体的な話はしないでくれ、とも頼まれた」
「それはつまり、燈子がラブレターの差出人だったってこと?」
「一応、約束をしてしまった手前、それについてもコメントしないでおくわ。でも、『私達のさっきまでの推理は間違っていない』ってことは断言する」
達子は目を瞑りながらそう告げ、明音は腕を組んで考え込む。
わざわざ明音の捜査協力者に接触して、口封じをした。それをしてメリットがあるのは、ラブレターを差し出して、且つ、自分ではないと嘘を言い張っている人間だけだ。状況証拠は確実に燈子が犯人であることを示しているが、だが、それは燈子だって承知しているはずだ。
彼女は、明音が学食に居ることを承知で、会話さえ聞かれなければ問題ないと判断して達子に釘を刺した。つまり、佐倉燈子が関与しているという事実だけでは核心には至れないということなのだろうか。
――思考の限界だ。現状の要素だけでは、明音には答えを導きだすことはできない。
「あと少しだったのに、って気持ちはある。でも、こういう時に君と問答をして勝った試しが無い。それとも今日が初白星になるのかな。大金星に。どう思う?」
「そもそも私にはアンタに協力する義務がない。今までの行動がアンタの友人としての善意に過ぎないって前提の上で口喧嘩を売ってくるなら買うけど、時間の無駄でしょ」
達子は己の勝利を疑わない様子でトレイを持って立ち上がり、無論、明音もそれを疑っていないので、言い争うこともなく苦笑を返した。寂しくはあったが、道理だ。
「まあね、分かってる。だから、分かった。これ以上は頼らない」
「そうしなさい。別に、人の生き死にが関わっている話じゃないし、気楽にね」
足取り速く返却口に向かった彼女は、遅くなったことへの軽い謝辞と共に食器を片付ける。その後、出入口でそれを見守っていた明音と合流し、二人で教室へ。
途中、達子が足を止めた。移動ほど無駄な時間は存在しないと語る彼女が。天変地異だ。
「明音」
達子軽い罪悪感を瞳に覗かせながら、訴えかけるような眼差しを向けてくる。
「天地がひっくり返っても、私がアンタの敵になることはない」
面食らった明音は思わず口を噤み、まじまじと達子の顔を見た。誰かの変装なのではないかと、思わず疑ってしまうほどに、彼女のそんな発言は珍しい。友情を確かめるような、或いは自らの潔白を主張するような様は普段の彼女からは見られない。
だが、ここで『味方』って言葉を使わないのが達子らしい。明音は笑った。
「心外だよ。私が達子を疑ってると?」
「……今更、少し言い方が悪かったと思った」
バツが悪そうに後ろ髪を掻く達子を見て、明音は腹を揺らして笑う。思わず声まで上げてしまいそうになると、彼女の白い目が飛んでくるから、明音は慌てて口を閉ざす。
そして、一呼吸を挟んだ後に真っ直ぐ瞳を見つめ返した。
「大丈夫、君のことは疑ってないし、傷付いてもいない。そりゃ頼もしいシャーロック・ホームズが居なくなっちゃったのは寂しいけども、まあ、名探偵の数より解決された事件数の方が多いんだから、平凡に、私らしく上手くやるよ」
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