第9話

 それから二年の歳月が経過した今、霜鳥千晴は明音にとって親友とも呼ぶべき存在だった。


 雨足が強くなってきた。傘を叩く雨の音が大きくなり、明音は千晴の母から渡された傘を傾けて空を確かめる。天気予報の言っていた通り、これから次第に雨が激しくなりそうだった。


 微かに傾けた一瞬で前髪を濡らした雨粒を、軽く頭を振って払い落とす。だが、些細な抵抗も虚しく、刻一刻と強まる雨粒が傘の脇をすり抜ける度に服が濡れていく。


 梅雨が明けて久しい盛夏に降り注ぐ豪雨、微かな肌寒さを心地よく思いつつ、その湿気にうんざりしながら、久しぶりに通る小路と濡れた階段を抜けて墓地へと踏み込む。


 石畳を歩きながら、雨の幕で視界が不鮮明な墓場に視線を彷徨わせる。


 歩き慣れない道をしばらく進むと、記憶にある霜鳥美月――千晴の姉の墓を見付ける。


 墓前。そこに、傘も差さずに千晴が立ち尽くしていた。


 傘を忘れて家を出たと彼女の母親が心配していた通り、彼女は既にずぶ濡れだった。


 だが、それを気にも留めずに棒立ちで墓と見詰め合っている。霜鳥美月の月命日に墓参りをするという彼女の習慣はこの二年間で一度たりとも途切れたことはない。彼女にとって、この程度の雨が罪悪感を拭うことなど叶わないということだろう。


「風邪ひくよ」


 明音が棒立ちの彼女に傘を差しだすと、驚きの眼差しで千晴が振り返る。


「……明音。どうしてここに?」

「どうしても何も、今日、君の家で遊ぶ約束だったじゃん。時間、見なよ」


 明音が呆れながら片手を腰に置くと、彼女は濡れた手で防水のスマートフォンを見る。


 時刻を確かめた千晴は、唇を巻き込むように結び、雨に隠せない冷や汗を流す。


「家に行ったらまだ墓参りから帰ってきてないって君のお母さんが。ついでに、傘を忘れただろうから持っていってあげてくれって」

「あー、それは何と言うか」


 千晴は口元を手で押さえた後、半笑いを浮かべた。


「ごめん」


 どうやら墓参りで時間を忘れる癖は直っていないようだ。


 明音はしばらく呆れて口を噤むものの、彼女にとって亡き姉がそれだけ大きな存在であることを知っている以上、注意はしても文句は言えない。肩を竦める程度に留めた。


「いいよ、別に。君はそういう奴だもん」

「ごめんって。怒らないで」

「怒ってないよ。約束を蔑ろにされたけど」


 つんと顔を背けると、千晴は狼狽えながら言葉を探す。


 明音はそんな彼女を見て頬を「冗談」と頬を緩めると、ずい、と更に深く傘を彼女の方へ差し出す。雨粒が背中に当たって冷たかったが、気にならないフリをした。


「もう、ここまで来ちゃったからさ。気にしないで、ちゃんとお姉さんとお話をしなよ」


 「でも」と千晴は躊躇いを見せるが、こう言い出した時の明音が主張を曲げないことは彼女も重々承知だ。雨に濡れた前髪の向こうで瞳を細め、瞑り、頷いた。


 明音に背を向けた彼女が墓前を離れたのは、それから十分後のことだった。




 霜鳥宅に着いた二人を襲ったのは、霜鳥母の説教だった。


 正確には千晴に向けた説教だ。『友達との約束を忘れるな』『傘を忘れるな』『天気予報を見ろ』『途中で傘買え』『財布を忘れるな』『風邪ひく前にシャワー浴びろ』『明音ちゃんが先だ』『ちゃんと新品の着替えを用意しろ』『いつまで玄関に立ってるつもりだ』――等々。


 明音はお言葉に甘えて先にシャワーを借り、千晴が用意した部屋着に袖を通す。元々着ていた服は千晴のシャワー後、浴室乾燥機で乾かしてもらう運びになった。


 先にシャワーを済ませた明音は千晴の自室で彼女を待つことに。


 同じ学生とは思えないほどにお洒落で、様々な機器が置かれた部屋だ。デザインの良い遮光カーテンと絨毯、部屋の隅にはゲーミングパソコンと椅子、テーブル。プロジェクターとスクリーン、そしてそれらを鑑賞できる位置に二人掛けのソファが置かれている。


 プロジェクターなどは、以前見た時には無かったはずだが――そう思った数秒後、そういえばそんな会話をしていたなと思いだす。色々と部屋を眺めながら手持ち無沙汰でスマートフォンを弄っていると、不意に、彼女の普段着に袖を通している事実に邪な感情を抱く。


 オーバーサイズのシャツと、ショートパンツ。ショーツは新品未開封をそのまま頂戴することになったが、上は未着用だ。素肌に千晴の繊維が触れているという事実に、明音は煩悩を隠すことができない。部屋に誰も居ないことを確かめた後、そっと匂いを嗅いだ。


 好きな少女の家の柔軟剤と、微かなボディソープの香り。頭がおかしくなりそうだった。


 ぴしゃり、と両頬を挟むように手で叩き、煩悩を殺す。


 同時に、階段を駆け上がってくる千晴の足音が聞こえた。びくりと明音の肩が跳ねる。


「お待たせー」


 千晴がドライヤーを片手に部屋に飛び込んできた。明音は先ほどまでの煩悩を完全に殺し、一周まわって不自然な神妙顔で「おかえり」と迎える。どうやらバレていないようだ。


 彼女は手に持ったドライヤーを延長コードに突き刺しながら不平不満を語る。


「いやー、豪雨の中で命からがら帰ってきた愛娘に玄関先で説教しなくたっていいじゃんね。鬼だよ鬼、今度の節分覚えてろよ――っと、明音、ドライヤー使う?」

「あ、借りてもいいかな」

「やったげるよ。こっちおいで」


 千晴は二人掛けのソファに飛び込んで横向きに腰掛けると、己の脚の間を叩く。


 明音は恋愛感情が邪魔をして躊躇うものの、強く拒む理由もなく、受け入れた。


 明音が千晴の脚の間に腰を落とすと、彼女は膝先で腰を挟みながらドライヤーの電源を入れる。千晴は、明音の髪を傷めないような丁寧な指遣いで温風を髪に通し始めた。


 静かな部屋に、外の豪雨と中の温風の音だけが響き続ける。


 出会ったばかりの頃は、こういう沈黙が訪れると話題を探していたものだが、今はもう、彼女との間での沈黙には僅かな苦痛もない。


 たまに、千晴の指が耳やうなじに触れる。彼女にそんな意図は無いのだろうが、触れる度に変な感情が呼び起こされていく。――この感情を伝えたら、この関係はどのように破綻していくのだろうか。そんなことを考えると、無意識に口が結ばれていった。


 それから数分後、千晴は明音の髪を乾かし終え、攻守交替。


 今度は明音の脚の間に千晴が腰掛け、その髪を乾かすことになった。


 好きな女性の綺麗な髪に指を通しながら、ドライヤーの温風で届くシャンプーの香りに酩酊しそうになる。一束つまんで唇を付けたくなる衝動を理性で押し殺し、機械に徹した。


 同じく会話など一つも無いまま髪を乾かし終えた明音は、「はい、終わり」と電源を切る。


 心地よかったようで「さんきゅー」と間延びした声を上げながら、千晴は明音へと体重を預けた。下着を付けていない胸で彼女を受け止めつつ、明音もソファの肘掛けに寄りかかる。


 ふと、左耳が目に留まった。ピアスを全て外した彼女の耳には幾つもの穴が開いている。


「うわ、凄い穴の数。痛くないの?」

「うん? あー、痛くない場所に開けてるからね。軟骨とかはキツイらしいけど」

「へえ――まあ、でも、そっか。耳なんてそんな沢山は神経無いだろうしね」


 装着者の意外な話に感心しつつ、明音は千晴の左耳に指を這わせる。綺麗に手入れしているのだろう、穴は全て艶やかで手触りが良い。無神経かつ無遠慮に触っていると、笑いを含んだ「ちょっと?」という千晴の小言が聞こえ、明音は「あ、ごめん」と慌てて手を離す。


 しかし、そこまで痛くないという情報に明音の好奇心が擽られる。


「私も、一つくらい開けてみようかなあ」


 千晴の目が大きく見開かれ、彼女は犬歯を覗かせながら体勢を向かい合わせに直す。


「いいじゃん! 開けなよ、明音なら似合うと思うよ」


 世辞か本心かは不明だが、嬉しいのは間違いない。笑い返した。


「そうかな? 紗季さんも偶に付けてるけど、あれくらい恰好が付いたらいいな」


 千晴ほど普段から耳を輝かせている訳ではないが、紗季は稀に、ステージ上に上がるときだけピアスを付けることがある。帽子で顔を隠す分、ステージングの一環として照明を浴びる部分を身体に付ける目的があると言っていた。実際、目を奪われたこともある。


 そんな憧憬を含んだ言葉だったが、その憧憬を千晴が共有することは無かった。


 千晴が不意に口を噤む。それを不審に思った明音が、自分に寄りかかる千晴に目を落とした。


 彼女は唇を閉ざして明音を見詰めていた。至って普段通りの、少しだけ緩んだ顔。だが、幾重にも重ねられた仮面を積み重ねた歳月で少しずつ剥がしていくと、その奥に淡い不満が見えた。不満――その発生源が分からない明音は、戸惑いを素直に顔に出す。


「千晴?」


 彼女は我に返ったように目を開き、笑う。


「あ、いや――紗季さんね。確かにあの人、ステージ上だと別人だからね」


 話から逃げるように目を逸らす千晴を、明音は真っ直ぐに見詰める。どうにも何かを隠しているような気がして仕方がない。迷いつつ、思い当たる節を率直に尋ねた。


「……紗季さんと、仲悪いの?」


 紗季の話をしたことに対する不満なのかと推測して尋ねたが、返答は否定だ。


「いや、そんなことはないよ。寧ろ、ここ最近は明音よりあの人と出かける機会の方が多かったかな。ゲーセン行って対戦ゲームでボコしたり、あとライブ観に行ったりとか。そっちは一回きりだけどね。だから、まあ、そういうんじゃないよ」


 そう語る彼女の顔に嘘は見られない。実際、紗季もそんな話をしていた。


 総合すると彼女と紗季の仲が悪いという話ではないようで、では何なのか。明音が困り顔で思案すると、それを見た千晴が隠し通すことへの限界を悟り、観念して顔を伏せた。


「――ごめん。ただの嫉妬なんだ」


 明音は驚きの眼差しを目の前の千晴に向けるが、彼女の顔は伏せられて見えない。


 嫉妬。その言葉の意味を噛み砕いて分析する。そして――明音が、千晴のピアスではなく、紗季が偶に付けるピアスに憧憬を見せたことに対して、嫉妬の念を抱いたのだということを理解した。そして、同時に自分から彼女に向けている情が一方通行でないことも理解した。


 明音は思わず笑みを溢す。それから、ゴロンと千晴の身体を仰向けに直した。


 驚きに目を丸くする逆さまの彼女を、真上から真っ直ぐに見下ろす。


「……千晴のピアスは、私にとっては憧れるものじゃないんだよ。お姉さんの真似をした左側の五つのピアス。見たら君だって分かる君だけのもので、憧れとは少し違うんだ」


 千晴の目が揺れる。明音は笑った。


「それじゃ、嫌だ?」


 彼女は熟考するように視線を逸らした後、結論を出してこちらを見詰め直す。それから、肩の力を抜いて甘えるように笑う。


「ううん、それでいい。……ごめんね、変なこと言った」


 どうやら心の膿は払拭できたようで、彼女の柔和な表情に、明音も笑みを返した。


「あ、穴は私が開けるからね! 予約だから。自分でやっちゃ駄目だよ」


 不意に千晴の手が伸び、そう宣言しながら指で耳を触れてきた。


 明音はされるまま、拒むことなく呆れ混じりの承諾を返す。


「はいはい、ちゃんと残しておくよ。両耳、痛くないようにやってね」

「任せてよ、既に五個も貫通してるんだから」


 彼女は片手で輪を作り、もう片方の人差し指を抜き差しした。


 品が無いことを咎めるように、明音は彼女の額に手刀を落とす。


 すると、彼女は楽しそうに笑いながら額を押さえた。そして、そんな彼女の笑みがとても愛らしかったから、明音はそれに目を奪われ、現状の距離感に思いを馳せる。このスキンシップの類は明音を良き友人だと認識しているからであり、友人であればあるほど、恋愛感情から遠いのではないか、なんて不安も抱いてしまう。――千晴は自分のことをどう思っているのだろうか。もし、このまま恋愛感情を告白したら、この関係はどのように変化するのか。


 このままキスを迫ったら、彼女はどんな反応をするのだろうか。


 そんな疚しい感情を殺して、明音はふと窓の外に目を向ける。雨はまだ続く。


 雨音に耳を傾けていると、不意に千晴が静寂を切り裂いた。


「そうだ! この前、大会で優勝したの」


 跳び起きた千晴がそんな風に自慢するから、明音は先日、昇降口で達子と一緒に聞いた話を思い出す。彼女がネット上で知り合ったメンバーと結成したゲーミングチームは、主にバトルアリーナやシューティングジャンルで時流の作品に挑戦しては、程々の成績と共に大会賞金で小銭稼ぎをしているアマチュアチームだ。ネットで調べれば出てくる程度には名前が知られており、ここ最近では、ゲーム関連の企業がプロチームを発足するにあたってアクションを掛けているという噂も流れている。明音が真偽を尋ねた時には、彼女ははぐらかしたものだ。


「そういえば、学校でそんな話してたね。おめでとう、相変わらずだ。――FPS?」

「そ、一昔前に流行ったアクション寄りのタイトル。国内のカジュアル大会なんだけど、開催元が運営会社だったから賞金は美味しかった。お陰様で色々と新調できたのさ」


 千晴の視線の先、テーブルのガジェット類は最新モデルが揃っている。


 次いで、千晴は自慢するようにソファを叩き、プロジェクターとスクリーンを示した。


「で、ついでにこのソファとかプロジェクターとか買っちゃった!」

「また随分と派手に出費したね。ソファとか、もう少し小さいのあったでしょ」

「そしたら君と一緒に使えないじゃん。私は一緒に映画が観たいんだよ」


 臆面もなく言うものだから、明音の方が気恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。


「というわけで、今度DVD借りてくるからさ。一緒に観ようよ」

「まあ……いいけど。サブスクの映画とかはスマホと繋いで流せないの?」

「タイプCとHDMIを繋ぐケーブルがあればいけるかな。ただ、サブスク会社の規約が分かんない。上映権とかは確認したんだけど、身内と観るのがセーフなのかが不明」

「二人で同じ会社のに加入してれば怒られないんじゃない?」

「君、天才。――あ! じゃあ私と同じの入ってよ。君と観たい作品が幾つかあるの」


 千晴は嬉しそうに自分のスマートフォンを取り出し、加入しているサブスクリプションの動画配信サービスを明音へ紹介する。無趣味ゆえに適度な時間潰しを求めて加入を検討していたが、会社毎の違いなどまるで分からないため、良い機会である。


 二人で一つのスマートフォンを見詰めながら、今度これを見よう、アレを見ようと片っ端からウォッチリストに入れていく。途中、既に視聴したことがある映画を見付ける度、お互いがお互いに対してプレゼンをするものだから、満足するまでにかなりの時間が流れた。


 やがて、窓の外の豪雨が小雨へと変化する。遠くに雲の切れ間が見えた。


「雨、そろそろ止みそうだね」


 気付いた千晴がそう呟くから、それを見た明音は帰宅の頃合いを考える。そして、それを考えると同時、千晴の家を訪れた本題がまだ未解決であることを思い出す。


「あ!」


 と、明音が驚きの声を上げて手を叩くと、千晴の丸い目がこちらを向く。


「え、何。どうかした? 洗濯物を取り込み忘れた?」

「いや……千晴に聞きたいことがあったんだけど、今まですっかり忘れてたから」

「聞きたいこと? ――あー、そういえば。それで今日来たいって言ってたね」


 今日は明音から千晴を誘って予定を立てたのだ。用件は勿論、ラブレターだ。


 思いだした途端、言い得ぬ緊張が明音を襲う。


 唇を強く噛んで、逃げ出したくなる不安を堪えた。


 達子の調査が正確であるという前提で、明音の靴箱に手紙を忍ばせることができるのが同じく東陽高等学校の生徒だけであるという条件下で、容疑者はたったの三人。そして、その内の二名、紗季と燈子が自らではないと明確に否定をして、且つ、差出人であれば考えられない行動を取った時点で、必然的に容疑者は千晴に絞られているのだ。


 ――霜鳥千晴が自分に恋愛感情を抱いているかもしれない。


 そう考えた途端、心臓が強く跳ねる。彼女への感情に歯止めが利かなくなりそうだった。


 もしも彼女が認めたら。恐らく自分もそのまま思いを打ち明けることになるだろう。そうしたら、そのまま交際することになるのだろうか。そんな期待まで抱いてしまう。


 黙考していると、千晴が怪訝そうな眼差しを向けてくる。


 明音は我に返り、少し濡れてしまった手提げ鞄の中、濡れないように用意したファスナー付きファイルから薄桃色の封筒を取り出す。そして、封筒の中の手紙を彼女に差し出した。


 緊張からか、指先が震えた。震動が末端の紙の先まで伝播する。


「これが、私の靴箱に入ってたの。差出人を探してる」


 千晴は驚きに目を丸くして、しばらくその手紙を眺めていた。


 だが、いつまでもそうしていたって仕方がない。そっと明音の手からそれを受け取る。その間、口はぴたりと閉ざされて沈黙を貫いたまま、言葉を発することはない。驚きか戸惑いか、感情を読み取ることができないポーカーフェイスで、彼女は手紙を読んだ。


 綺麗な目で上から下に速読した千晴は、「ふむ」と顎に手を添えた。


「つまり、これを君に差し出したのが私じゃないかって話?」

「……率直に言うと、そうなる」

「凄いね。要は『もしかして君って私のこと好きなんじゃない?』って聞いているようなもんだもん。私だったらできないかな」


 そんな風に茶化すものだから、明音は「私だって、好きで聞いて回ってる訳じゃないよ」と唇を尖らせて文句を言い返す。クスクスと腹を揺すって笑った千晴は、目を細めた。


「イニシャルさ。三人、心当たりが居るんだけど。私は何人目?」

「……三人目」

「まあ、そうだろうね」


 そう呟く千晴の顔には寂寥感と諦観がはっきりと浮かんでいた。


 だが、その感情がどのような理由に基づいているかが明音には分からない。先ほどのような嫉妬だとしても、一人目に聞こうが三人目に聞こうが、差出人でないなら関係無いだろうと考えてしまうのだ。――或いは、やはり千晴が差出人なのだろうか。


 そんな期待を孕んだ明音の目に、千晴は静かな笑みで答えを返す。


「質問に答えると、これを書いたのは私じゃないよ。私は何も知らない」


 明音は面食らったように丸い双眸で千晴を見詰めるが、冗談を言っている素振りは無い。


 心臓が掴まれたように胸が痛かった。――心のどこかで、そうじゃないかと思っている部分もあった。だが、もしも自分の意中の相手が自分を想ってくれていたなら、相思相愛だったなら。それは何よりも喜ばしいことだろうと、勝手に期待をしてしまっていた。


 ズキズキ、と。打撲をした時のような痛みが胸を襲い続けた。


 だが、それらの苦痛や感情の一切合切を表に出さないように、苦笑の仮面を貼り付ける。


「――そっか。そうだろうと思った」


 気にしていない素振りでそう答えると、千晴は「ごめんね」と笑う。


 彼女が嘘を吐いている可能性も十分にある。だが、この期に及んで嘘を吐き続ける理由はやはり見当たらず、彼女が嘘を吐いていることに期待するよりも、このラブレターが、そもそも人気者たちと分不相応に交友関係を築いている明音への嫌がらせであったと解釈するほうが、ずっと可能性が高いだろう。


 そう、この手紙は嫌がらせの悪戯で、誰からのものでもない可能性が高いのだ。霜鳥千晴でも、佐倉燈子でも、辻野紗季でもない。明音が三人に密かに寄せているこの恋愛感情は一方通行に過ぎないといことが証明されつつある。


 今すぐに逃げ出して、部屋に引き籠って、布団に包まりたい衝動に駆られる。


 全部忘れて、何も考えずに過ごしたかった。


「……私は違うと言った。私が三人目ってことは、前の二人も同様に否定した訳だ。誰かの悪戯って可能性もありそうだよね」

「その可能性はあると思う。でも――まだ、もう少しだけ調べてみるつもり」

「何を」

「本当に、他に該当するイニシャルを持った人が居ないか、とか。悪戯の可能性は高そうだけど、そうでなかったとき、これを渡してくれた人の気持ちを踏み躙りたくない」


 願わくば意中の三人であってくれ、とは思ったが。それ以外から目を背けて耳を塞ぐほど明音は薄情ではないし、悪魔でもない。


 それを聞いた千晴は微かに頬を綻ばせた後、それを手で覆い隠して、目を逸らす。


「もし他に該当者が居て、その人を探し当てたら――どうするの?」

「……分からない。その人がどんな人かによると思う」

「じゃあもしも、誰かが嘘を吐いていて、実は差出人が三人の中の誰かだった――ってなったら? 明音は、誰のものだったら受け入れた?」


 そう尋ねる千晴の顔はいつものように軽薄な笑みを浮かべている。


「その時は、」


 そこで明音は一度言葉を区切って言い淀む。三秒ほど間を置いて、続けた。


「誰が差出人でも受け入れるつもりだったよ」


 その言葉が何を示すかを承知の上で、明音は熱い顔を自覚しながら素直に答えた。


 千晴はふっと微笑を浮かべる。


「君は優しいね」


 『優しい』――とは何のことだろうか。明音にはその言葉の意味が理解できなかった。


 だが、数秒ほど間抜けな顔で考えた明音は、間もなく千晴が何を勘違いしているのかを察して、反射的に訂正の言葉を紡ぐ。


「関係を壊したくないから受け入れている――と思ってるなら、それは誤解だよ」


 見切り発車気味にそう告げた明音は、そこまで言い切って言葉を続けるのを躊躇った。話し始めたことを後悔した。


 だが、千晴の丸い目がこちらを見続けるから、逃げきれずに続けた。


「……ちゃんと好きだから。義理とか、そういうんじゃない」


 告げると同時に千晴の表情が驚愕に歪み、明音は熱源から逃げるように顔を背ける。


 全身が汗を浮かべそうなほどに熱くて、後先を考えずに口走った自分を呪った。


「ごめん、変なこと言った。忘れて、ち――」


 その時、千晴の手が明音の肩を掴んだ。そのまま押し倒すように力が加えられる。


 呆気なく足先を床から剥がした明音は、流されるようにソファの上に上体を倒した。


 呆然とした顔で前を――つまり天井の方を見ると、覆い被さる千晴の顔が目に映る。そこには普段通りのふてぶてしい笑みも、物事を達観したような飄々とした余裕もない。


 そこには苦しそうな表情があった。苦しいくらい熱烈に爆発した感情に駆り立てられた彼女の、葛藤や苦悶を孕んだ顔がそこにあった。それを見た明音は「ちはる?」と、唖然の中で舌足らずに彼女の名前を呼ぶ。紫水晶を彷彿とさせる綺麗な目が明音を見詰め、心臓が高鳴る。


 目を丸くして、ドクドクと跳ねる心臓を自覚する。


 千晴が片方の手で明音の頬に触れる。被捕食者のような気分だった。


「もう一回言って」


 何を。そう口を突いて出ようとした言葉を飲み込んで、思い至った明音は拒絶する。


「……やだ」

「お願い、もう一回だけ」


 逃げるように顔を背けようとするが、千晴の手がそれを許さない。顎と耳の後ろに指を当てて、グイッと自分の方に顔を向けさせる。


 意中の相手のそんな行動にときめいてしまう自分を情けなく思いながら、明音は過熱する己の顔を知覚しつつ、固く結んだ唇をほどいて伝えた。


「……好き」


 伝えると、顔を掴む手から力が抜けた。逃げるように顔を背け直す。


 だが、その寸前に視界に入った千晴の顔に、明音は思わず彼女の方に向き直る。


 彼女は染まった顔を隠すように一瞬だけ手で顔を隠した後、両手で明音の顔を挟む。


「私もだよ」


 唖然。


「私も君が好き。友達ってだけじゃなくて、一人の女の子として明音が好き」


 好きな人の好きな声が、信じられない言葉を紡ぐ。揺れる目が千晴を捉えた。


「うそ」

「ほんとだよ」


 真っ直ぐに見つめ合うこと数秒、視線が互いの唇に落ちる。


 明音は意識して唇を巻き込むように濡らしてしまい、誘ったと誤解されてしまうだろうかと、慌てて手で口を隠す。千晴は情欲に突き動かされるように、唇を隠す明音の手を掴む。しかし、それを剥がそうとする寸前、理性で踏みとどまってそこから手を離した。


「ラブレター」

「……うん」

「捨てちゃいなよ」


 明音は葛藤に揺れる眼差しで千晴を見詰める。彼女の顔は切実だった。


「どうせ悪戯だもん。私にしなよ、絶対に君を幸せにするから」


 千晴は不安定に揺れ動く眼差しを落ち着かせるように逸らし、葛藤する。


「それは――」


 唇を結んで目を瞑り、静かに彼女の提案を検討する。


 嬉しい、というのが明音の本音だった。どうあれ自分に対して好意を抱いてくれるのは嬉しく、更に、それが自分の意中の相手だというのだから、その喜びもひとしおだ。


 だが、だからこそ。同じように自分に恋愛感情を抱いてくれた人が、勇気を振り絞って出してくれたかもしれない恋文を粗雑に放り捨てるなどできない。それが、明音の下した結論だ。


「――悪戯じゃない可能性がある以上、捨てることはできないよ。伝え方はどうあれ、私のことを本当に好きだって言ってくれるなら、やっぱり私は、その気持ちを無下にできない」


 きゅ、と千晴の目が細められた。彼女は下唇を噛んで思案するように瞳を伏せた後、そっと唇を緩めた後に、今度は微笑を口に宿して明音へ視線を戻した。


 その表情が、続く明音の言葉で微かな驚きへと変貌する。


「でも、もしも確かめた上で差出人が見つからなかったら、諦める」


 そして、明音は言葉を重ねた。


「だから、その時は。改めて私と――」


 そこまで告げた途端、明音の唇に何かが触れた。


 目は開いていたのに、浮ついた心が、一瞬、キスと誤認させた。


 千晴が明音の唇に指を立て、言葉の続きを止めたのだ。目を白黒させて彼女を見る。


 しばらく無言で視線が交錯した。何の真似だ、と視線で尋ねるのも束の間、彼女はバッと跳ねるように身を起こすと、両手を小さく上げて食えない笑みを浮かべた。


「なんちゃって! 今までの話は全部ウソ! ウソウソ、大ウソ! 君のことが好きだとか、ラブレターなんて捨てちゃえとか、そういうのは全部ウソだから!」

「………………は?」


 五秒。明音が素っ頓狂な声を上げるのに要した時間だ。


 しばらく唖然としていた明音は、頭の中で論理を組み立てる。彼女はどうしてそんな嘘を吐いたのか、本当に嘘なのか、それとも何か、明音が気に障るようなことをしたか。


 何が理由かは分からないが、そうしたいから、そうしたのだろう。そうであれば明音がするべきは真実を暴くことではなく、彼女の不義理を糾弾すること。


 明音は千晴を白い目で見ながら身体を起こし、呆れを隠さない声を上げる。


「あのさ、嘘は時と場合を考えてよ。そういうのから信用は無くなっていくんだよ」

「いや、ほんと。ごめんなさい――悪気は無かったの」

「……千晴にそういう悪意が無かったのは分かるよ。付き合い長いし。何か意図があるんだろうことも分かるし、それを掘り下げることもしない。でも、場面は考えてよ」


 正直なところ、辛かった。相思相愛だったのかと、糠喜びした自分が情けない。


 一生懸命に顔に呆れを浮かべ、深層から悲痛が滲み出るのをそれで覆い隠し続ける。


 そんな千晴の顔と切実な言葉を聞いた千晴は、軽く下唇を噛んで瞳を伏せ、何度か頷いた。「うん」と反省の籠った首肯の後、眉尻を下げながら「ごめんね」と謝罪を重ねた。


 そこまで殊勝に謝罪されては、糾弾の追撃も心が痛むというもの。


 明音は深い嘆息の後、徐に右手を上げる。そして、顔を俯かせる千晴の額に、軽いデコピンを放つ。タン、と気味の良い音が立ち、「あだっ!」と千晴は顔を仰け反らせた。


 目を丸くして額を押さえる千晴と視線を交え、明音は力強く言い切った。


「今ので、全部帳消しね。下らない嘘と下らない喧嘩で、下らない遺恨は残したくない」


 呆然と額を押さえながら明音を見ていた千晴は、瞳を下に逃がす。


「その、」

「聞かないよ」


 何かを言おうとする彼女の口を、明音は言葉で塞いだ。千晴が目を丸くする。


「君が、無理な嘘で隠そうとした事を、無理やり聞き出すことはしない。言いたくないことは聞かない――約束する。だから君も、話したくなったら話すって約束して」


 真剣な眼差しを向ける明音に、千晴は眩しいものを見るように目を細め、瞑り、そして最後に頷いた。至近距離でも聞こえるか聞こえないかの小声で、「だから……」と呟いた。


 そこに続く言葉は、あまりにも小さすぎて明音にも聞き取れなかった。だが、その微笑を見る限り、悪態でないのは確かだろう。


 そして、千晴の顔に普段通りのふてぶてしい笑みが戻る。


「分かった。約束する」

「うん、それなら信じる。疑うよりそっちの方が得意だからね」


 そう言って、明音は自らに跨ったままの千晴の脚を叩き、立ち上がるよう促す。


「――遊ぼう、こんな空気で別れたら明日に引きずっちゃう。何か面白いゲーム出してよ」

「おっと、それなら今日は実に良いタイミングだよ。実は昨日ね、押し入れの奥で『Wee』を見付けて引っ張り出してきたんだ」


 飛び起きた彼女がある棚を示すと、そこには数年――十数年前、幼少期に見た、長方形の光沢を帯びた白いゲーム機が置いてあった。明音はノスタルジアに声を上げる。


「うわ、懐かしっ!」

「『友達の家でやるパーティーゲーム』といえばこれでしょ。ってことで、リモコン二つあるから『マリモカート』やろうぜ!」


 千晴が差し出した、幾つかのボタンが付いた片手で握れるリモコンを受け取る。『Wee』は十数年前、従来のボタン押下に限らず、振り回しても操作できるなどの新奇性で話題になった。明音は握ったそれを懐かしく思いながら、テニスのラケットを振るように軽く動かす。


 そうして明音が千晴の家を後にしたのは、乾いた衣類が部屋の前に畳んで置かれた二時間後のことだった。




◆◆◆




 恋愛感情は殺意や敵意とは違う。それ故に、切っ掛けなど無くても、いつの間にか自然と抱いてしまうものだろうと千晴は認識していた。


 まるでグラデーションのように、どこから、いつから、どこまでが――そんな明確な転換点を定義するのは難しく、好きになったという結果だけが確かに存在する。それが恋愛感情というものだと考えており、実際、霜鳥千晴が夜久明音を意識し始めた時期は覚えていない。


 だが、仄かに抱いていた恋愛感情が、ハッキリと具体化した時期は覚えている。


 それは、様々な出来事が重なって心身ともに不調だった、ある、姉の月命日だ。


 それまで一度も欠かさなかった月命日の墓参りを、その日は酷い不調を理由に断念した。


 翌朝になって酷い罪悪感に駆られた千晴は、部屋に塞ぎ込んで泣いていた。普段はそこまで取り乱すこともないだろうが、その時期だけは、様々な心身の要因が重なり過ぎたのだ。


 あまりにも心を擦り減らした千晴は、昼休みの時間を見計らって、登校しているだろう明音に電話を掛けた。戸惑いながら電話に応じた彼女に、泣きながら、解決など存在しない心の中の膿を言葉にして吐き出した。五限目が始まる直前に、その電話は終わった。


 そうしたら一時間後、早退した彼女が家に来た。


 それから夜が更けるまで、夜久明音は霜鳥千晴の心の毒を全て受け止めた。延々と続く意味も答えもない言葉の群れを、茶化すことも苛立つこともせず、凪ぐ水面のような様相で聞き入れ続けた。――姉への罪悪感に終わりなど存在しないこと、罪悪感を抱き続けることが償いであること、それなのに、不調を理由に墓を訪れなかったこと、自己嫌悪。そんな言葉たち。


 休憩を挟まずに十数時間にも及ぶ苦悩を聞き続けた彼女には少しの疲弊が見えた。だが、その果てにようやく心を落ち着かせた千晴は「ごめん、長々と」と謝辞を告げた。


 それに対する彼女の言葉が、千晴から明音への恋愛感情が明確になった瞬間だった。


「明日、一緒にお墓参りに行こうか」


 果ての無い罪悪感は否定せず、自己嫌悪を否定せず、ただ、姉への想いを肯定された。


 恨み言の一つや二つ、或いはもっと言ったって誰も文句を言わないくらいの苦労をした彼女から出てきたその言葉――その奥に宿る善性が、彼女への恋愛感情の根源だった。


 平凡で普遍的で、取り柄が無い。夜久明音はそれを自称するが、霜鳥千晴に言わせれば、ゲームや楽器の巧拙、外見の美醜に明確な優劣など付かないほど、善性も人の魅力だった。


 ――霜鳥千晴は、夜久明音を恋愛的に好いている。


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