第8話

 霜鳥千晴と出会ったのは、二年前のある晩秋の日だった。


 紗季や燈子との出会いにより再び真っ当な学生生活を送るようになって一か月程度が経過し、惰性に過ごす日々に言語化のできない不安を抱き始めた頃。気まぐれに、ふらっと立ち寄った地元のゲームセンターで、気まぐれに格闘ゲームに触れた時だ。


 そこは、いかにもレトロな店だった。店の蛍光灯は一部が明滅しており、全体的に薄暗い。揃えられている筐体も大半が一昔前のもので、清掃は行き届いているが、経年劣化した床やニコチンを吸った壁は来店者にこれでもかと年季を感じさせる。


 明音が座ったのは古い格闘ゲームの筐体だ。


 コインを入れると『乱入』のカットインが表示された。


 当時の明音はゲームセンターに殆ど行ったことがなく、加えて格闘ゲームなど触ったことさえ無かった。故に、対面する筐体でプレイしている他の客が居た場合は対戦モードになる――なんて特殊な仕様も知らない。


 コンピュータと対戦しているとばかり思い込んでいた明音は、『このゲーム難しいな』なんて思いながら、楽しくなって五回ほどコインを連投した。そして、五回目の操作でようやく相手にパンチを一発当てることができ、思わずアケコンから手を離して喜んだ。


 ――その瞬間を狙いすましたように必殺技を叩き込まれ、キャラがノックアウトする。「あ」と呆然とした声を上げながら、散りゆくキャラクターを眺める。


 相手の勝利を称える音声が流れ、六枚目のコインを入れようとしたその時だった。


 向こう側の筐体から誰かがにゅっと顔を覗かせて様子を窺ってきた。


 明音は「ひっ⁉」と思わず身を竦ませて悲鳴を上げる。


 少女だ。年齢は同じくらいだろうか。焦げ茶色に染められたボブカットと片耳に付けられた大量のピアスから、恐らく不良と呼ばれる類の人種だろうと判断しそうになる。


 しかし、美形と評するのが適切だろう整った顔には、悪感情の類は見られなかった。


「……あの、ごめん。手加減しようか?」


 慮るような表情から繰り出された不意の質問。


「へ?」


 無言で見詰め合うこと数秒。困惑する明音と、困惑されたことに戸惑う少女。筐体に表示されたコンティニューのカウントダウンがゼロを叩き、敗北を知らせた。




「――いや、実際分かり辛いよね、このシステム。もう少しハッキリと書いとくべきだとは思うよ、私も。でもさあ、今どきゲーセンで格ゲーやる人って少ないから、わざわざ筐体でレバー握る奴は大体中級者以上って感じの現状もあるし、いやほんと、初狩りして申し訳ない」


 店内の端の方に置かれた古びたベンチで、明音は少女が奢ってくれた缶ジュースを少し飲んだ後、隣に立ったまま炭酸飲料をぐびぐびと一気飲みする彼女を見上げた。


「今どきのゲームってこんな難しいんだって思っちゃったよ」

「まあ『銅拳』は割と難しい方なのは間違いないけどね。ゲーセンじゃ練習も難しいし」


 彼女は空になった缶を指でゴミ箱に弾き入れる。


 自らを『霜鳥千晴』と名乗った同学年の少女は、軽い自己紹介の後、ゲームセンターの格闘ゲームのことを何も知らない明音に懇切丁寧にその仕組みを解説した。


 最中、店中の色とりどりのランプで煌びやかに輝く左耳のピアス群に気圧されそうになったが、彼女曰く『お洒落でしょ』とのこと。


「つか、格ゲーやるなら最近はパソコンが主流じゃないかな。通販で外付けのアケコン買ってダウンロード版のソフトをインストールすれば簡単にできるよ」

「あけこん?」

「あ、ごめんね。アーケードコントローラーの略。ゲーセンの筐体と同じ感じで格ゲーができるコントローラー。プロなんかは大体これ使って戦ってるんだけど、キャラの動かし方がゲーセンのそれと同じになるから、昔から格ゲーやってる人はだいたい使ってる。たまーにキーボードとかパッドの変人も居るけど、まあマイノリティかな」


 すらすらと辞書を読むような解説に、明音は感嘆の声を上げる。


「ゲーム、詳しいんだね」


 千晴は目を細めて犬歯を覗かせる。ピアスが煌めいた。


「そーいう君は、あんまりゲームやらない感じ?」

「うん、今日はふらっと寄っただけ。けっこう無趣味なんだ」

「あ、やっぱり? なんかベラベラとお節介焼いちゃってごめんね」


 申し訳なさそうに謝辞を告げた千晴に、明音は「ううん、聞くだけで楽しいよ」と本心を返す。それが本心であることは伝わったのか、千晴は微かに頬を緩めて「そか」と笑った。


 千晴はしばらく明音を見詰めた後、瞳を覗き込むように顔を向き合わせる。


「あのさ、この後、用事とかあるの?」

「用事? いや、特には。門限になる前に家に帰るってくらい」


 時刻は午前十時。門限まではまだ遠い。――千晴は少しの緊張を孕んだ顔を見せた。


「これも何かの縁だしさ、ちょっと一緒に遊ばない? 同い年で同じ趣味の子、少ないんだ」


 明音は丸い瞳で千晴を見詰めた。中学生ながら耳にピアス穴を幾つも開けている、少し怖い印象を受ける少女を。しかし、その顔には同い年の相手を遊びに誘うことへの年相応の緊張が見えて、明音は彼女が怖がるような相手ではないことを確信する。


 驚きを笑みに変える。断る理由が見当たらなかった明音は、徐に腰を浮かせた。


「知っての通り、格ゲーはあまり得意じゃないよ?」


 その言葉と行動が何より雄弁な返答だと千晴は察し、嬉しそうに破顔した。


「大丈夫、私も別に格ゲー専門って訳じゃないから」

「あんなに詳しいのに?」


 明音が驚きの眼差しを向けると、千晴は笑って近くの太鼓型音楽ゲームを親指で示す。


「ゲーム全般が好きなだけだよ。何でもやるんだ」


 それから数時間、昼食には少し遅い時間まで二人でゲームセンターを遊び尽くした。彼女は豪語するだけあって殆どのゲームでハイスコアを叩き出すほどの腕前を見せ、明音は殆どのゲームで彼女に敗北を喫することになる。勝ったゲームなどエアホッケーくらいだ。


 霜鳥千晴は派手な外見と縁遠い趣味を持つ、明音にとって別の世界の人間だった。


 だが、驚くほど波長が合った。――語り合いは自然と熱を帯び、談笑は夜が更けても終わらないような気さえする。いつの間にか友人と紹介するのに何ら抵抗が無くなるほどに意気投合をした二人は、連絡先を交換し、それからしばらく休日に約束を交わす関係になった。




 それから二か月が経過した初冬、明音は千晴と遊ぶ約束を交わした。


 普段のように地元の駅前で待ち合わせをすると、その日、彼女は珍しく遅刻をした。


 待ち合わせの数分前にしっかりと連絡を入れて、宣言した通りの時間分だけ遅れてきた彼女だったが、明音はそこに違和感を覚える。普段通りにカジュアルな恰好に、不良と見紛うようなピアスを左耳に付けて――少しだけ、花屋と白檀の香りがした。


「ごめん、お待たせ! ボーっとしてたらこんな時間になっちゃってた!」


 その言葉が全ての事実を語っている訳でないことは漂う墓地の香りが証明していたが、十分程度の待ち時間でその一点を深掘りするほど、明音は腹を立てていなかった。


「君の事だから、そんなんだろうと思った。別に、気にしてないよ」


 笑みを浮かべる明音に、千晴は「うはは」と笑い返した後、軽い足取りで歩き出す。


「さんきゅ。でも今度、ちゃんとお詫びをするよ――それじゃあ、行こうか」

「行くって、まだ場所も決めてないのに? というか、ここに来るまでに行く場所決めとこうって話をしたけど……千晴、何か考えてきた?」

「明音と一緒に居る、って内容を決めといた。そっちは?」

「ああ、うん。今度君と遊ぶ時は場所を決めてからにしよう。と、今、固く心に」


 皮肉で切り返されてもどこ吹く風か、千晴は舌を出した。


「つっても、本当にどこでもいいんだよね。私」


 千晴が歩きながらそう主張するから、目的地も分からないまま明音は続く。


「まあ、そこは私も同じく。……この調子だと何も決まらなさそう」

「じゃああれだ、心理学。『マクドナルド理論』! 考え得る限り最悪のアイデアを出せば、それを回避するために皆が良い案を出し始めるってやつ」


 明音は顎に手を添えて数秒、指を鳴らす。


「思い付く最悪の案。――冬の海で海水浴」

「あー、凄い最悪だ! それは確かに嫌だ。あったかい場所でぬくぬくしたい」

「よし、それなら温泉だ。あったかいよ」

「でも私達、裸を見せ合うにはまだ少し早くない?」

「そうなると温水プールとか?」

「そういえばプールの水が目に沁みるのって、実は人のおしっこが原因らしいよ」

「何で今その話をしたの? 今度カレー食べる時、覚えときなよ」


 そんなことを言い合いながら歩いていると、繁華街の入り口付近に一つの建物を見る。


 幾つかの飲食店が開かれたそのビルの一画に、見慣れたマイクと音符のロゴが描かれていた。二人でそれを見上げた後、示し合わせたように声と顔を揃えた。


「カラオケにしようか」


 そんな経緯で適当に決められたカラオケ店へ千晴と共に店に入った明音は、ちょうど店を出ようとしていた他の客の顔を見て、思わず声を失う。運命とは数奇なものだった。もしも千晴が遅刻をしていなければ、通りすがる人達が異なる動きをしていれば――何かが一つ噛み合っていれば、或いは噛み合わなければ成し得なかっただろう奇怪な再会。


「あ」

「ぅ……」


 それは、去年まで友人と呼び合っていた同じ中学校の女子生徒だった。彼女は隣のクラスの友人達とカラオケを楽しんでいたらしく、周りには見知った顔が何名か。事情を知っている一部はその再会に気まずそうな顔をして、知らない一部は不思議そうな顔で様子を窺う。


 当の明音は驚きに声を失って、対する彼女は身を縮こまらせて俯くばかりだった。


 そんな沈黙の見詰め合いが数秒続いた頃、空気を読んだ千晴が能天気な声を上げた。


「どうも、外、寒いから気を付けた方がいいよ。風邪ひかないようにねえ」


 明音の服の裾を引っ張りながら彼女達の脇をすり抜け、ひらひらと手を振って退店を見送る。全く面識のない千晴からの送別の言葉に、同級生たちは戸惑いながらも帰っていった。


 合わせる顔も交わす言葉も無かった明音は、千晴に深い感謝の念を抱く。


 それから手続きを済ませてカラオケボックスの中に入った千晴は、マイクの電源を入れるや否や、それのテストも兼ねながら尋ねてくる。


「どうやら複雑な事情がありそうだったけども。元カノとか?」


 マイクには随分と強いエコーが掛かっており、千晴は手慣れた動きで設定を調整する。


 明音はドリンクバーで入れたメロンコーラをじゅるじゅると吸った後、溜息を捨てる。


「元友達――かな? 説明は難しいよ」

「……『元』友達かぁ。離別が普遍的な交際ならともかく、交友が迎えた絶縁ってのは随分と物騒な響きを持ってるよね。宗教勧誘とかマルチ勧誘とか、あとは借金でも押し付けられないとそうそう切り捨てようとは思わなくない? あ、人間関係リセット症候群とか?」


 随分と楽しんでいるような声音だったが、顔を見れば明音を案じているのはしっかりと伝わってきた。適当に誤魔化すのも性分ではなく、明音は素直に応える。


「いじめがあったんだ、去年。もう解決したけど」

「加害? 被害?」

「被害。彼女も、最初は被害者だった」


 そう語ると、察しの良い彼女は「ははーん」と呟いて顎に手を添えた。


「なるほどね、私は頭が良いから全て理解したよ」

「ほんとに? 言ってみてよ」

「お人好しな君はあの子をいじめから庇った。そして標的が君に移り、憎きいじめっ子達は彼女に『夜久明音へのいじめに加担しろ』と迫る。君のように強く在れなかったあの子はその言葉に従ってしまい、彼女のように弱くなかった君は裏切りに傷付いた」


 「どう?」と得意げに言ってくるから、明音は苦虫を噛み潰したような顔を返した。


「百二十点。正解だよ――もしかしてエスパー?」


 半ば無意識的だった明音の彼女への認識を完璧に言い当てられ、文句の付けようもない。


「探偵さ。逆転判決とダンガイロンパは義務教育に入れるべきだね」


 そう楽天的に告げた彼女は、それから一転し、少し笑みを含みつつ真面目な顔を見せた。


「――それで、どうして明音は彼女に罪悪感を覚えているの?」


 面食らった明音は押し黙り、見開いた双眸で千晴の顔を見詰める。視線を交錯させる彼女の表情は明音の心の奥底を見透かしているようで――本当に超能力なのではと錯覚した。


「凄いね。本当にエスパー?」

「そんな能力があるなら、ゲーム内チャット煽ってきたカス共に何度も報復してるよ」


 肩を竦めた後、千晴は足を組んでオレンジジュースに刺したストローを啜る。


「……分かるんだよね、人の顔色とか。明音はあまり彼女のことを恨んでないように見えた」

「うん。まあ、そうだね。憎いとまでは思っていないよ」

「それでも今まで彼女と会話をしてこなかった。気まずいだとか、切っ掛けが無いだとか。理由は色々あると思うけれども、一番大きいのは罪悪感だったように思える」


 徹底的に見透かされた明音は、自分でも理解しきれていない胸中を言語化していく。


「…………彼女は悪くない。なんて風に思えなかった」


 明音がそう語りだすと、千晴は口を噤んで静聴の構えを見せた。


「絶対に守らないと、って思って勇気を出して誰かと敵対したのに、真後ろから刺されたからね。裏切られたと思ったし、裏切り者とも思った。――それは感情なんだ。感情的な考え方で、でも理性的な私は、彼女が『自分を守る為の最善策』を講じただけだと理解していた」


 明音は天井を仰ぎ見て嘆息をこぼす。照明が眩しかったから目を瞑った。


「仕方がないことだったって理解しているのに、それを割り切れなかった私は彼女と距離を置いて――そのまま話す機会も動機も失ったの。切っ掛けは彼女の弱さだったとしても、この状態が続いたのは私の弱さ。だから、いまさら彼女に何を言えばいいのか分からない」


 「……それが罪悪感の理由かな」。そう締め括ると、「ふむ」と千晴は唸る。


 明音は手を伸ばして卓上の電子目次本を手繰り寄せた。そこに千晴の声が掛かる。


「少し、私の昔話をしてもいいかな?」


 急な話に、明音は怪訝な目を返す。だが、千晴の顔は至って真剣だ。


 明音は電子目次本の機器をそっと卓上に戻しつつ視線を返す。


 彼女は「ありがとう」と言いつつ、自身の左耳に指を添えた。


「このピアスさ、実は憧れてた人の真似なんだ」


 彼女にそんな人物が居たことに驚きつつ、そりゃ居るかと考え直す。


「プロゲーマーとか?」


 思い付いたことを適当に口にすると、意外にも彼女は首肯した。


「正解。ついでに言うと、私のお姉ちゃん」


 目を見開いて言葉を失う。姉妹揃ってゲームが大好きとは良い家族関係だと感心する。同時に、ピアスまで真似するとは随分と憧れの感情が強いらしい。


 そんな風に呑気に考えていた明音は、不意に突拍子もない憶測を思い浮かべた。


 今日、千晴は白檀と花屋の香りを漂わせて遅刻してきた――墓場の香りだ。そして、『憧れている人』ではなく『憧れてた人』であり、加えてこれは彼女の昔話。嫌な話を頭の中で結び合わせてしまった明音は、間違えたら失礼ということも承知で口走る。


「――今日、君から線香の香りがした」


 今度は千晴が驚きを顔に見せる番だった。


 しばらく驚いた後、彼女はそっと目を細めて頷き返す。


「うん。もう死んでる……事故でね。今日、月命日だからお墓参りに行ってきたんだ」


 月命日。殆ど毎月のように墓を訪れているということだろうか。


「急に重い話をしてごめんね。今の君に必要だと思って――」


 そう言って後ろ髪を掻きながら気持ちを整理させた千晴は、選んだ言葉を紡ぐ。


「――私さ、お姉ちゃんが事故に遭う前日に喧嘩したんだよね」


 ぎゅっと臓腑が握りつぶされるような息苦しさを覚え、明音は唇を噛む。


 千晴は穏やかに、努めて淡々と語っていた。だが、明音は平静を装った千晴の表情の奥深くに強い悔恨の念を見出す。彼女が、乱れそうになる呼吸や声を懸命に抑えているのが分かった。


「泣きながら酷いことを言ったんだ。あの人、強かったから平然と言い返してきたけど――次の日、私の好きなケーキを買って仲直りしようとしてくれたらしい。ケーキを……買った帰りに、事故に遭ったんだ。仲直りもできないまま、謝ることもできないまま」


 真剣な表情をする千晴の目尻に、ジワリと涙が滲んだ。「千晴……」と、凄惨な話に顔を歪めた明音が案じる声を上げるが、彼女は顔を両手で覆って天井を仰ぐと、深呼吸をした。二度の呼吸の後、顔を元に戻した時には、既に涙の影は消えていた。彼女は己の前髪を掴む。


「お姉ちゃんは合理主義者だったから馬鹿にするだろうけど、私はずっと後悔し続けて――自分を慰めるために墓参りを繰り返してる。ずっと――ずっと。たぶんこのまま、死ぬまで、一生。何があっても、私は後悔をし続ける。お姉ちゃんに謝り続ける」


 顔には普段通りの笑みが浮かんでいたが、その双眸の奥には強い罪悪感が宿っている。


 彼女はそれすら隠すようにゆっくりと目を瞑り、心の奥底にそれを仕舞った。


「……話を本筋に戻すね。つまり、何が言いたいかというと」


 彼女は楽天的な声で持論を語った。


「後悔しない選択をお勧めするよ。善悪は二の次で、大事なのは自分の心。自分に少しでも正しくない部分があると思うなら是正して生きるべきだし、正しいと思うなら、些細な出来事でその道を踏み外すことは絶対にしない方がいい。だから、喧嘩をしたならすぐに仲直りした方がいい。今際の際に、胸を張って誇れる生き方をした方がいいと私は思う」


 彼女の境遇を知った上で聞くその言葉は、目を背けようとするにはあまりにも重い。


 明音は唇を強く引き結んで顔を俯かせ、その言葉を噛み締めた。千晴の言葉が続く。


「知ったような口で、鬱陶しいとは思うけど――」


 そう自嘲気味な笑みを浮かべる千晴を、明音は真剣な眼差しで否定する。


「いや、理解できるよ。顧みるべきだとも思った」


 千晴の、深い思慮を孕んだ眼差しが微かな驚きを宿す。視線が数秒、交錯した。


「合わせる顔と交わす言葉が無いのは、向こうの彼女も同じだと思う」

「……うん」

「仲直りする必要は無いよ。でも、清算は必要だと思う。お互いに」

「うん」

「酷い喧嘩別れをしたと思うけど、今までの思い出全て、忘れたいほど嫌いになった?」


 沈黙の中で熟考をする。だが、それは答えを模索する思考ではなく、既に紡がれていた解答が己の中で曇りなき本音であるかを確かめるための思考。


 明音はソファに背を預けて天井を見上げ、素直に本音を吐露した。


「いや、そんなことはないよ」


 だったら、それが全てだろう。そう告げるような千晴の視線を、明音は苦笑で受け止めた。


 それ以上、彼女は明音に何をしろとは言わないし、明音も何をすればいいかは聞かなかった。ただ、お互いの中で明確に答えが共有されていて、それが心地よくすらあった。


「……不思議な人だね、君。こんな馬鹿馬鹿しい話に親身になるなんて」


 そう告げる明音の声が朗々としたものだったから、千晴はソファを立って軽いストレッチを始めながら「そうかな?」と軽薄そうな笑みを返す。


「むしろ、繊細な話に口を挟んでごめんね。お節介な気質なんだ」

「ううん、そのお節介に救われた。千晴に話してよかったよ」

「そう思ってくれたなら僥倖。でも、気に触るところがあったらハッキリ言ってね」


 冗談めかして笑う千晴の顔を、明音はしばらく真剣な顔で眺めた。


 ふと、視線に気付いた千晴が怪訝そうに眉を顰めた。


「……明音、どうかした?」

「いや、うん」


 そう一拍挟んだ明音は、素直に伝えるか否かを考える。考えて、話すことにした。


「千晴って何かあるとすぐ謝るし、結構、相手に迎合しようとすることが多いよね」


 紙に落とした水滴のように、じわりと千晴の双眸が見開かれる。顔が驚きに強張った。


 些細な会話の最中に、気付かない程度にひっそりと謝罪が紛れ込むことが多かった。何かを決める時、自らの意見を率先して出すことは少ない。自らの行動が相手にとって負荷となっている可能性を、極端に危惧しているような印象すら受けた。


 それらは意図的なものだったのだろう。図星を突かれた彼女は微かに青い顔で押し黙り、「それは」と弁明の言葉を吐こうとする。だが、彼女のそんな態度が気に入らなかった訳ではない明音は、誤解させたことを察して釈明を続けた。


「責めたい訳じゃなくて、その――多分、後悔しないように人に好かれる生き方をしてるんだろうな、って。今理解した。今日、初めて千晴の素顔を見たような気がするの」


 その評価をどう受け止めればいいのか分かりかねるように、千晴が唇を曲げた。髪を掻いて、言葉に詰まる様子で視線を逸らす。少しの負い目がその表情から感じられた。


「……分かっちゃう? 隠してたつもりなんだけど」

「隠れてたよ。今日の話を聞かなければ気付かなかったと思う」


 恥ずかしそうな、申し訳なさそうな笑みが返ってきた。明音は笑みを返す。


「――でも、安心して。もし不本意に君と離れ離れになる事があったとして。その直前に君と大喧嘩をしていたら、私はきっと、『今頃千晴は後悔してるんだろうなー』って嬉しくなると思う。君みたいな人の心に私なんかが傷を負わせられたなら、それは、とても良い事だから」


 我ながら変態じみたことを言っているなと自覚する。案の定、千晴も頬を引き攣らせていた。


「うへー、意外と趣味悪いんだね、君」


 それについて反論の余地は無い。まったくもって事実なのだから。


 そう、事実。夜久明音は罪悪感を抱かせることが好きだ。そういうことにしておく。


「だから、私には気を遣わなくていいよ」


 不和や諍いを極度に恐れる必要はなく、言いたいことは言い合うべきだ。


 もしその末に別離があったとしても、負い目を感じる必要は無いだろう。


 世間話でもするような調子でそう伝えた明音に、千晴はしばらく苦笑を浮かべていた。だが、少しずつ明音の言わんとしている言葉の意味と全貌を飲み込んだ彼女は、微かに目を見張っていく。隣室の上手なアニメソングが聞こえるカラオケボックスで、二人の視線が交わった。


 千晴は強張った顔に無理に笑みを浮かべ、それが固いことを自覚して手で隠す。


「……私、けっこう我儘なんだけど」


 交友関係に自我を覗かせることへの負い目を、千晴はそんな言葉で示した。


 だから、明音はそれへの肯定を首肯で示した。


「うん。私も」


 微かな笑みを浮かべる明音。千晴は度し難い愚か者から目を背けるように視線を逸らす。


「やっぱ趣味悪いよ、君」


 そう吐き捨てる彼女の頬は、微かに赤く染まっていた。


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