第7話

 ――ライブハウスの扉を開けた時、明音は何となく二年前を思い出した。あれから何度もこのライブハウスを訪れて、今も昔も変わらない熱気を感じているのに。


 明音はライブが始まる前に速やかにホールの隅の方、もはや定位置とも言える場所に向かう。すると、そこにはやけに背筋の真っ直ぐな黒マスクの男性が居た。彼――日下部は明音の存在に気付くと柔和な笑みを浮かべて腰を折る。


「もはや通い妻ですね」

「それ、セクハラですよ」

「おや、これは失礼いたしました」

「ええ、本当に――あとファンの人に聞かれたら恨まれそうなのでやめてください」

「それもそうですね。痴情のもつれとは恐ろしいものですから」


 随分と含むような言い回しに、明音はショルダーバッグの紐を握りながら頷く。


 初めて辻野紗季のライブを見てから二年間、あれから結局、彼女は一度も正規バンドを組んでいない。サポートとして各バンドを放浪して、その剛腕を振り続けてきた。それを惜しむ声もあれば、それにより集客できて喜ぶ声もある。どちらが良いのかは分からない。


 それから間もなくして、ステージに一組のバンドが登場する。男女混合のバンドで、顔立ちの整った人が多い。ファンはその尊顔を拝んだ瞬間に金切り声にも等しい歓声を上げる。


 そんな中、粛々と演奏の準備を進める黒い帽子を被ったアッシュグレーの髪の女が居る。紗季はエレクトリックベースの諸々のセッティングを済ませると、凛とした佇まいで演奏開始を待つ。最中、眩い照明から顔を隠すように帽子を被り直そうとして、寸前、明音と目が合った。


 演奏直前の張り詰めたような表情を優しく綻ばせて笑みを覗かせると、観客から黄色い悲鳴が上がる。明音は相変わらずの熱狂的なファンたちに怯えつつ、小さく手を振り返した。


 ――約二時間後、ライブは熱狂と共に滞りなく終わった。


 明音が楽屋に続く通路で通行人の邪魔にならないよう紗季を待っていると、目の前の扉が開く。中から出てきたのは一組の男女。明音も面識がある紗季のバンドメンバーだった。


「こんにちは」


 彼らは明音を見て驚いたような顔をする。そして、女性の方がニヤニヤとした笑みで楽屋に顔を戻す。


「おーい辻野さん! 彼女さん来てるよ!」


 相変わらずここのライブハウスの人はデリカシーに欠ける。冗談のつもりなのだろうが、片方がそういう感情を抱いている時のその手の冗談は、辛いものがある。


 半眼を向けると、女性は舌を出して可愛らしく笑った。


 それから間もなくして、扉から紗季が鬱陶しそうな顔を出す。


「だからそういうんじゃないですって。あと声がデカいっす」


 言いながらするりと二人組の間を抜けた紗季は、帽子を少しだけ上に傾け、ベースケースを背負い直して明音を見る。


「――悪いな、ここまで来させて。暑くなかったか?」

「夕方なのにまだまだ暑かったよ。アイス買いたい」

「後でカフェに寄ろう。今日は奢らせてくれ」


 紗季は言いながら明音のショルダーバッグを奪うと、「あ、ちょっと」と制止の声を上げる明音をよそに、それをひょいと肩に担ぐ。そして、ニマニマとこちらを眺めるメンバーを見た。


「じゃあ、お先です」

「お疲れ様です」


 紗季と明音がそんな風に別れの挨拶を済ませると、二人は温かい眼差しで手を振り返した。それから受付の日下部に会釈をしてライブハウスを出ようとしたところ、メンバーの男性の方が紗季の名前を呼び止める。


「辻野さん」


 振り返ると、男は少しの感謝を含んだ表情で軽く手を振る。


「またサポート頼むよ」


 紗季は言葉を並べるのも億劫に、背中越しに手を振って回答を済ませた。




 ライブハウスから最寄りの駅へ向かう途中に、少し道を外れた場所に一軒のカフェがある。


 大通りに無数に並んだチェーン店にはノートパソコンを担いだ意識の高い人々が集う反面、コンセントも用意されていないその小さなカフェは人の出入りが多くない。しかしながら、木製を基調とした落ち着きのある外観や安く質の良いメニューなど、隠れた名店と言える。


 店としては隠れていない方が有り難いのだろうが、利用者としては別の話だ。


 時刻は十九時前。薄暮。夕飯にはちょうどいい時間帯だが、二人はカフェの一席に座する。窓の外を見ると、紺と橙が色を付けた町並みを街灯の明かりが覆っていた。


「久しぶりに紗季さんのライブを見た気がする」


 テーブルの上には明音の分のパフェが一つと、結露の付いた紅茶のグラスが一つずつ。明音がメロンパフェに舌鼓を打ちながらそんな話を切り出すと、紗季は虚空を見た。


「そうか? あー、そうかもな。あんまり頻繁に誘うのも悪いと思ってさ」

「まあ、私はロックに詳しい訳じゃないからね。最近は少し聴いてるけど」


 こちらからどうしても行きたい、とは言わないし、彼女も来てくれとも強くは言わない。ただ、お互いの気持ちが向いた時に気まぐれに足を運ぶくらいが健全だろう。


「……そういやこの前、珍しく千晴が私の活動に興味がありそうだったからさ、ライブに呼んだんだよ。チケットまでわざわざ用意してやって」


 霜鳥千晴。明音と同じ二年生の半プロゲーマーだ。明音を経由して知り合った燈子を含む三人は、度々こうして明音の知らないところで交流をしているらしい。


 明音は何となく続きが読めたような気がしながら、笑みを含んで先を促す。


「それで?」

「感想を聞いたら『部屋がクソ暑い。二度と行かない』――アイツは二度と呼ばんよ」


 明音は店の迷惑にならないよう懸命に押し殺した笑い声を上げ、紗季は呆れ混じりの苦笑を浮かべて紅茶に口を付けた。コロン、と氷が音を鳴らす。


「彼女はインドアが服を着たような存在だもん。呼ぶなら燈子じゃない?」

「アイツは何度か呼んでるよ。何というか……歌詞に対する感受性が高いんだ。サポート先のバンドが新曲作った時には呼んで意見を言わせてる。参考になってるみたいだ」


 なるほど、確かにそういう気質はありそうだ。明音は感心しながら紅茶を一口飲む。


「さて」


 不意に、紗季がそう話を区切った。


「話っていうのは? 面倒ごとは早めに済ませておこう」


 彼女は随分と話が早い。性急ではなく手短。明音としてもやりやすかった。


 「そうだね」と彼女の言葉を肯定し、明音は店に入った時に紗季がちゃんと返してくれたショルダーバッグに手を伸ばす。そして、その中から一枚の封筒を取り出し、差し出した。燈子には中身まで見せたのだから、彼女にも見せておくのが筋が良いだろう。


「これは?」


 紗季は封筒を受け取り、中を確かめる。


「ラブレター」


 明音の回答と中身の文字列を見た紗季は、ピタリとその動きを止めた。


 眼光鋭くその手紙を一読した後、チラリと明音を見て「マジ?」と呟いた。まさか偽装をするような理由もない。明音が重々しく頷くと、紗季は口を押さえながら腹を揺らした。


「ははっ、おいおい――物好きも居るもんだなあ」

「酷いこと言うよね。……まあ、私も俄かには信じ難かったけどさあ」


 言外に『お前が誰かに好かれる? ないない』と意中の相手に言われている訳で、明音は沈む心を隠すのに一生懸命になりながら不貞腐れるポーズを見せる。――残念だが、この調子では紗季が差出人ということはなさそうだ。


「悪い悪い、それで? 差出人は――」


 言いながら、紗季は手紙の下部に目を落とす。そして、そこに書かれたイニシャルを捉えた。


 「あー…………」と、諸々、全てを察したように尾を引く呟きをこぼす。「なるほど?」と彼女の双眸が明音を捉えたから、明音は頷いて返した。


「つまりこういうことだ。お前にラブレターが届いた、差出人はイニシャルがS.T、該当者は私と――後は? 千晴と燈子もか。他にも何人か居るかもしれない。お前は差出人を特定する為に該当者に聞いて回っていて、今は私の番が来ているってことだ」

「九十五点。東陽高校の該当者は三人だけだったよ」

「その点数が定期考査でも出ればなあ」


 紗季は自嘲気味に笑った後、紅茶を一口飲む。そしてグラスを置く。


「結論だけ言うと、私に心当たりは無い。悪いな、他を当たってくれ」


 あまりにも簡潔で無情な返答に、明音は薄い薄い期待を捨てて、嘆息を返した。


 途端にカフェの店内の喧騒が耳に入り、明音は直前まで緊張にも似た感情を抱いていたのだということを自覚する。軽い虚脱感と共に窓の外に目をやると、薄暮は夜に変わろうとしていた。ジメっとした夏の夜、会社や学校を出た人々が家への足を進めていた。


 しばらくそれらを眺めた後、「まあ、そうだろうと思ったよ」と明音は虚勢を張って素っ気なくメロンパフェにスプーンを突き刺す。


 少し無関心が過ぎて、紗季に胸中を見透かされたのかもしれない。


「なんだよ、私から貰いたかったのか?」


 笑いながら茶化すようなことを言ってくるから、明音はジロッと睨み返す。


「まさか。まだ捜索作業を続ける必要があるんだなーって、憂鬱になっただけ」


 紗季は頬を歪めて笑い、「そーかい」と頬杖を突きながら窓の外に顔を背ける。相変わらず整った顔をしている。そこには多分、惚れたが故の贔屓目も含まれているのだろう。


 しばらくパフェを食べていると、呼吸をするような自然体で紗季が質問を呟く。


「――それで、お前はその差出人に会って、どうすんの?」


 明音は口に運ぼうとしていたスプーンを止め、紗季を驚きの双眸で見詰める。


「それ燈子も聞いてきたね。皆、人の恋愛に興味ありすぎじゃない?」

「他人事だからなあ。気楽に眺めて適当に囃し立てられるなら良い娯楽だ」


 性根が腐っている。そう訴えるように半眼を向けると、紗季は腹を揺する。「それで?」と答えを促してくるから、そのままにしていたスプーンの上のパフェを口に運ぶ。


 ――真実を伝えるべきか、嘘で誤魔化すか。


 燈子の時は、彼女がまだ容疑者であり続けたが故に、それを暴くための手段として真実を利用した。だが、現状、紗季を容疑者に置き続ける理由は無い。明確に否定の言葉をこぼしたし、明音自身、彼女を疑う動機がない。


 辻野紗季が好きだ。明音は彼女に、女性として恋愛感情を抱いている。


 困っている時には率先して助けてくれるし、基本的には優しい。ふざけたい時には波長を合わせてくれるのも嬉しい。顔立ちは良いし、声も好きだ。隣は凄く居心地がいい。


 それでも、拒まれると理解している恋愛感情を伝えて友情を破壊する行為には臆する。


 だが――今後もこの感情を隠し続けて付き合っていくくらいならば、いっそ、告白ではなく純然な事実の伝達として、彼女に感情を吐露するのも悪い話ではないのかもしれない。そう、彼女が二年前に語ったように、どうしようもないことをどうしようもないと割り切るために。


 明音はメロンパフェを嚥下した後、静かに答えた。


「……差出人が三人の中の誰かなら、受け入れるつもりだったよ」


 燈子も紗季も既に候補から除外されている現状でそれを言葉にするのはつまり、恋愛感情の告白と同義だろう。燈子の時と同様、明音は言ってから酷く後悔をし始めた。


 だが、紗季の顔を盗み見た時、明音の顔に淡い驚きが宿る。


 ――紗季は両目を見張っていた。瞳孔が鼓動に合わせて揺れ、唇は引き結ばれている。困惑する明音としばらく視線を交錯させた彼女は、やがて、瞳を半分ほど閉ざして窓の外を見た。そんな彼女の反応の向こう側にどのような感情があるのか、明音は理解しかねた。


 だが、考え込む明音が一度瞬きをすると、次の瞬間には紗季は静かな笑みを浮かべていた。


「さっきの言葉から察するに、燈子は自分じゃないと言ったんだろ? 私も違うと言った。消去法で残るは千晴だけ。良かったな。晴れて両想いだ」


 紗季は先ほどとは打って変わって、からかうような軽薄な笑みを顔に浮かべている。


 ――確かに彼女の言葉通り、二人が違うと言った以上、候補は千晴しか残っていない。そうなるとラブレターの差出人は霜鳥千晴ということになる。本当に、そうなのだろうか。


 明音はつい先刻の紗季の不可解な表情を脳裏に思い浮かべながら、残るパフェを口に運んだ。




 カフェを出たのは十九時半を少し過ぎた頃だった。


 明音と紗季は電車に揺られてそれぞれの地元へと帰る。明音は一本、紗季は乗り換えが発生するものの、途中までは同じ線を使うため同じ列車に乗る。


 二人がホームに降りると同時に列車は到着し、席に座ることはできなかったものの、特に差し支えなく乗車することができた。しかし、間もなくして乗り換え組が我先にと列車に駆け込んできて、瞬く間に満員御礼となる。――明音が背中に群衆の圧を感じながら、『だからこの時間は苦手なんだよなあ』などと考えていると、不意に紗季の手が腕を掴んだ。


 そのままひょいと身体を手繰り寄せるようにして、先ほどまで自分が居た列車の隅に明音の身体を押し付ける。代わりに紗季が群衆との間に挟まった。必然、彼女は背中でその圧力を受け止め、結果的に明音と紗季の身体が一枚の紙も挟まらないほど密着する。


 ぎゅっと、ショルダーバッグを掴む明音の手の甲が紗季の胸に触れる。


 明音は思わず声を上げそうになった。夏場のせいで薄地のシャツ一枚しか着ていない紗季の胸元は、触れた瞬間にその生地の向こう側を感じさせた。カップの感触と、その向こう側の柔らかい脂肪の感触。人差し指の第二関節が下着が覆っていない部分に触れ、指が火傷をしたように熱く感じられた。急いで離そうとするも、圧迫感のせいで手は胸の間から逃げられない。


 彼女の長髪が明音の頬を撫でた。柔軟剤とシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。銘柄は何だろうか、と浮かんだ小さな疑問を、紗季の香りと一つに括る。全身が辻野紗季を味わっていた。


 ヤバい。そう思った時には既に、明音の顔には熱が上り始めていた。


 高熱が出た時のように顔が熱くなり、思考に強い靄がかかる。吐息も熱かった。


 心臓がバクバクと跳ねて彼女の顔を見るのに苦労した。心臓があまりにもうるさくて、彼女のことを好きなんだということを自覚すると同時に、それが彼女に聞こえてしまわないように黙ってくれと願い続ける。黙ったら死んでしまうが。


 列車の扉が閉まる。そして走り出す。


 どうか別の場所を見ていてくれと願いつつ、明音は恐る恐る上目に紗季の顔を見た。


 彼女の双眸は明音を真っ直ぐに見詰めていた。――余計に、顔が熱くなる。このままアイスのように溶けて消えてしまいたかった。何も取り繕わない剥き出しの恋愛感情を彼女に見られ、羞恥心で消えたくなる。


 紗季は見下ろすように明音を見る。その表情は心の奥底を覗くようですらあった。そんな目で見られていることに胸の奥を鷲掴みにされていると、彼女の指が明音の耳を撫でる。


「あっつ」


 紗季は薄く笑った。明音は唇を噛んで俯いた。


 口の中で何度も好きという言葉を繰り返した後、そのまま言葉を飲み込む。


 それからしばらく、明音は紗季と身体を重ね合わせる。


 二分ほど経っただろうか、列車が次の駅との中間地点に到達した時、カーブによって列車が大きく揺れた。乗客の大半が身体を揺らし、吊り革を握っていなかった者は足踏みをする。それは紗季も例外ではなく、「っと」と軽く呟いた彼女は、明音の耳の隣に手を置いて踏み止まる。


 必然、二人の顔が至近距離まで迫る。少し顔を前に傾ければ唇が触れ合うくらいに。


 明音はお腹の奥に熱を感じながら、反射的に紗季の服の裾を掴んでしまう。対する紗季も、流石に驚いた様子で目を見張り、開いた瞳孔に真っ赤な顔の明音を映す。


 しばらく、互いの息遣いだけが聞こえた。やがて、紗季は唇を噛んで瞳を細める。


 その表情の意味は明音には理解できなかった。だが、不思議と――二年前を思い出す。彼女が明音に語った、顔が元交際相手に似ているという言葉。それを思い出した明音は、寂寥感に顔の熱が少しずつ引いていくのを感じながら、ポロっとこぼしてしまった。


「そんなに似てるかな。紗季さんの、元カノと」


 告げた瞬間、紗季の双眸は大きく見開かれた。それは、驚愕だけではなく、怒りや不満、微かながら悪感情も滲んでいるような気がした。嫌なことを言ってしまったか、と明音はすぐに撤回と謝罪を口にしようとするが、紗季は強く唇を噛むと、躊躇いを表情に、それでも我慢できないと言うように空いた手を明音の背中に手を伸ばして、力強く抱き寄せた。


 痛いくらいに温かくて、逃げられなくて、少し興奮した。


 対して、紗季は少し眉根を寄せ、悲しそうな表情を覗かせている。傷つけたかと判断した明音は、慌てて彼女に謝罪を伝える。


「あの、ごめんなさ――」

「――忘れたよ、そんな奴」


 言葉を遮るように、紗季が明音の耳に囁いた。


 見開いた明音の双眸が、耳に口を寄せる紗季を横目に見る。その表情は驚くほど悲痛だ。


 明音が彼女の珍しい顔に驚いていると、背中に伸ばされた手にいっそう力が入る。


「違うんだよ、明音。今はもう、アイツは関係ない――関係ないんだ」


 その目は他の誰でもない、夜久明音を見詰めていた。


 初めて見る切実な表情。それは、伝わらない何かを伝えるために藻掻いているようだった。


 意図が、その感情が読み取れなくて、明音は戸惑いの目を返す。


「ラブレター」


 ふと紡がれた紗季の声が張り詰めていて、明音は驚きに肩を跳ねる。


「捨てろよ。どうせ誰かの悪戯だ」


 明音は開いた目で、紗季を横目に見る。


「それは、でも――」


 紗季が果たしてどのような感情に基づいてそう言っているのかは分からなかったが、少なくとも快諾はできない。確かに彼女の言う通り、悪戯の可能性はある。


 しかし、そうでない可能性が残されている以上、捨てるなんて野蛮な真似はできなかったし、明音の知る紗季はそんなこと命じない。


 明音の戸惑いの目を見た紗季は、ふと、我に返ったように目を見張って手の力を抜く。


 そして、最後に優しく、優しく明音の身体を抱き寄せた。


「悪い。忘れてくれ」


 それを最後に、紗季の温もりが明音の身体から消える。


 明音から見える位置に戻った彼女の顔は、既に普段通りのすまし顔だった。その心の内は読めない。先ほどの彼女の懇願じみた命令がどのような感情を内包していたのかは分からないが、その言葉を受け入れることのできない自分を情けなく思うくらい、濃い言葉だった。


 しかし、『ラブレターを捨てろ』という言葉。それはつまり、彼女が差出人でないことを決定づけるものだろう。明音はそう結論を出すと、愛情のやり場を探すように、列車が彼女の乗換駅に停車するまでその服の裾を掴み続けた。




◆◆◆




 相棒と結成したバンドが空中分解した時点で、辻野紗季は何者でもなくなった。


 正規バンドを組まずに放浪するベーシストは同業者や熱狂的なファン以外から評価を貰えず、友と一緒に見た夢は軽はずみな行動で潰えて、音楽一筋だった人生には他に自慢できるものもなかった。だから、全てを捨てて逃げ出すなんてできず、紗季は惰性でベースを続けた。


 自分が正しいのか間違っているのか、そもそもそれらを評する舞台にすら立っていないのではないか。そんなことを考えながら日々を惰性に過ごしていたある日、夜久明音と出会った。


 忌々しき元交際相手と似た面立ちと、正反対な性格。しばらく二人を重ねていた。


 そんな明音への認識に大きな変化が訪れたのは、ある冬の日だった。


 いつものように明音をライブハウスに招いて、演奏を終えた帰り道。冬の夜は空が真っ暗で、吐く息は月光を浴びて真っ白だったことを覚えている。


 唐突に、柄にもなくノスタルジーに浸った紗季が、気まぐれに心の内を語った。


 ――このままサポートメンバーの掛け持ちを繰り返しているだけでいいのだろうか。何かやらないといけないんだろうけど、何をしたいのか、何をすればいいのか分からない。そんな、元々のバンドが解体されてからずっと胸の奥で燻っていた不安と不満を語った。


 数分にも及ぶ紗季の独白めいた語りを静かに聞いた明音は、こう返したのを覚えている。


「待ってるよ、いつまでも」


 状況を改善するための正論を突き付けてくれる訳でも、傷を舐め合うために共感や同情をしてくれる訳でもなかった。ただ、自分が無駄だと切り捨てようとした苦悩や葛藤を、何者にもなれずに足踏みを繰り返す空虚な日々を肯定し、見守ってくれた。


 ――その時、つま先から身を焼き焦がそうとしていた焦燥感が消えた。


 それから何となく、明音のことを目で追う機会が増えた。自分でもわかるほど彼女へのスキンシップが増えた。ライブがあるたびに彼女のチケットを用意して、楽屋を出るときには姿見を確認するようになった。あと、夏場は制汗剤の使用量が増えた気もしている。


 ある日、行き付けのライブハウスで日下部から元交際相手の近況を聞かされた。


 その時、紗季は彼女の顔を思い出せなかった。声も、話し方も。明音と正反対な性格だけは沸々と蘇るが、ただそれだけ。いつの間にか顔を忘れていた。


 夜久明音が昔の交際相手に似ているのではなく。


 その時には既に、元交際相手が夜久明音に似た『誰か』になっていた。


 我ながら薄情な性格をしていると紗季は笑った。だが、それくらい彼女に惹かれていた。


 そんな彼女が、人の気も知らずに『自分に元カノを重ねているのか』と解釈できるような言葉を吐いた時の紗季の胸中は、とても穏やかではなかった。


 ――つまるところ、辻野紗季は夜久明音を愛している。


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