第6話

 どの瞬間を辻野紗季との邂逅と呼ぶかは、判断に困るところだった。


 中学三年の晩夏。不登校となった夜久明音は家でジッとし続けているのも辛く、地元から二駅ほど離れた場所にある人気の少ない公園で時間の浪費を繰り返していた。昼前に家を出て、昼に公園に着いて、母親が握ってくれた握り飯を食べながらブランコの上でスマートフォンの充電が切れるまで時間を潰した後、何をすることもなく帰る。その繰り返し。


 両親は何も言わないどころか、門限を守れば好きにしていいと優しく送り出してくれた。教職員並びに加害側生徒の謝罪によって明音の身に何が起きたかを知った両親は、しばらく明音に対して過保護だったのだ。


 さて、そんな日々を過ごしていたある日の十六時の出来事だった。


 ――公園に見知らぬ女が入ってきた。ストリートファッションにベースケースを背負い、目深な黒帽子を被った長身の女。背丈は百七十センチ手前ほどあるように見えるが、学生か成人かは判断できない。染めたと思われるアッシュグレーの無造作な長髪は背中まで伸び、鋭い目やすっきりとした鼻筋など、その顔立ちは見惚れるほどに整っていた。


 だが、明音が彼女を見詰めていたのには別の理由がある。


 この公園はそこかしこに雑草が生えており、明音が座るブランコには錆びすら浮いている。そう、まるで人が出入りしない穴場だったのだ。故に訪問者に驚いた。


 日も沈もうという時間帯。公演の隅の遊具に座っているせいか、明音が凝視していることにも気づかず、女は公園の中の自販機にふらりと立ち寄る。そして、やや秋の香りが漂ってくる晩夏の肌寒さを凌ぐべく季節外れのおしるこを購入した。


 女は長い足元の影を眺めながら、公園入口の防護柵に腰を下ろす。


 そして缶を開けた時、ようやく女が明音の存在に気付く。


 女が驚いた様子で目を見開き、それを見た明音は慌てて視線を逸らす。電池残量が僅かとなったスマートフォンに流れる解説系の動画に目を落とすが、内容は頭に入ってこなかった。


 その日は間もなくしておしるこを飲み終えた女が出て行き、事なきを得た。


 翌日、女は再び公園を訪れた。ブランコに座る明音を見詰めながらおしるこを飲んで帰る。


 更に翌日、再び女は公園を訪れ、少し暑いから冷たいリンゴジュースを飲んで出て行った。


 そして、そのまた翌日の出来事だ。少し肌寒さを感じるその日、明音がスマートフォンで動画を視聴していると、不意に、ぬっと女が脇に現れた。明音は吃驚して見開いた目を向ける。


「ここで何やってんの?」

「…………お、あ」


 久しく家族以外の人類と会話していなかった明音は、パクパクと金魚のように口を開閉する。


「いや、別に。何も……」


 何もしてないなんて訳がないことは自分でも理解していたが、仕方がない。言葉が勝手に出てきてしまったのだから。明音はスマートフォンを足の上に置き、肌寒さに手をこすり合わせながら視線を逸らす。


 すると、「そーかい」と呟きながら、女が未開封のおしるこの缶を一つ差し出してきた。どうやら二つ購入したらしい。明音は差し出された缶と女を順番に見る。


「……知らない人から渡されたものに手を付けるのは、ちょっと」

「今日で四回目だろ、会ったの」

「じゃあ、そっちの缶と入れ替えてくれるなら」

「用心深い奴め」


 図々しいのか懐疑心が強いのか、慇懃無礼な明音に苦笑しつつ、女は手元に抱えていたおしるこを明音に放り投げ、差し出そうとしていたそれのタブを片手で器用に開けた。明音は「ご馳走になります」と、両手で開けた後、晩夏には少し熱すぎるそれをゆっくりと口に運んだ。


「中学生?」


 不意の質問。答えるか否かは悩ましかったが、この期に及んでそこだけ隠す意味もない。


「……まあ、そうですけど」

「家出か?」


 女は半分ほどおしるこの残った缶を手元で揺らし、ブランコの防護柵に腰を据えながら、少々真剣な眼差しで明音を見る。その目がいじめの事実を知った時の両親と重なったから、自分が今、心配されているのだといいうことを察した。適当に誤魔化すことも考えたが、おしるこ一本百二十円分の情報くらいは返すべきなのだろう。


「両親にはちゃんと外出の旨を伝えてあります。それに、二十三時前には帰っています」

「ああ、そう。じゃあ言うことは無いね」


 女は肩を竦めるが、その所作は安堵しているようにも見えた。


 変な人だ。明音はそんなことを思いながら手元のスマートフォンに目を落とす。すると、女は柵に腰を置いたまま上体だけ前のめりにして、明音のスマートフォンを覗き込んだ。


「何観てんの?」


 何でもいいだろう。返す言葉を呑んで、気まぐれにスマートフォンを見せた。


 画面に映っていたのは世界各国の面白くて流行した瞬間を切り抜いた、所謂『ネットミーム』の集合動画だ。奇抜なポーズで料理に香辛料を振りかける男性や、集団で回り始める鳥など。


 女が「へえ」と興味無さそうな眼差しで義務的にそれを眺めるから、明音はワイヤレスイヤホンの接続を解除し、スピーカーで動画の音を垂れ流す。女は遠目にそれを眺め続けた。


 しばらくして、女と明音の吹き出すような笑いが響く。明音は少し気恥ずかしくなって口を押さえるが、女は興味が湧いたように柵から腰を浮かせ、明音の傍に座り込む。それから間もなくして、再び二人の笑い声が公園に重なった。


 予定があると言って、女が――辻野紗季と名乗った彼女が名残惜しみながら帰ろうとする頃には、既に二人は肩を並べて雑談を繰り広げるくらいには心を許していた。


 どの瞬間を辻野紗季との邂逅と呼ぶかは判断に難い。だが、少なくとも明音にとっては、ベースケースを背負って去る彼女に寂寥感を抱いたその瞬間が、『出会い』の瞬間だった。




 後日、再び紗季が来た。急いでいると言いながら立ち寄った彼女は、それなら無理に来なくていいのにと返した明音に、親交の証と称して板ガムを渡してきた。親交という言葉に一抹の忌避感はあったし、処理も面倒なので断ろうとも思ったが、断り切れずに受け取った。


 指をパチンとするジョークグッズだった。彼女は笑っていた。叩いてやろうと思った。


 更にその後日、また紗季が来た。奇しくも、その前日に発売された、使役したモンスター同士を戦わせる人気ゲームの新作を携帯していたため、対戦する運びとなった。引きこもりのプレイ時間の暴力で一方的に叩き潰してやると、彼女は苦い顔で公園を出て行った。その夜、明音が公園を出ようとする頃に帰って来た彼女は、誰かから貰ったらしいモンスターで明音が叩き潰された。非常に悔しかったことを今でも覚えている。


 しばらく、そうして他愛のない交流の時間を過ごしていった。


 少し冷える日。明音が、久しく紗季と会っていないことに寂しさを覚えたある日、彼女はまた公園を訪れた。文句の一つも言ってやろうかと駆け寄った明音を「どうどう」と宥めた彼女は、一枚のチケットを取り出してきた。ライブハウスのチケットだ。


「私、バンドやってんだけどさ。チケットノルマが未達なんだよね。貰ってくれない?」


 聞き慣れない文化の聞き慣れない言葉に、明音の頭に疑問符が浮かぶ。


「ノルマなんてあるんですね。売れないとどうなるんですか?」

「自腹。今日の十九時からライブがあるんだけど、どうせ売れねーから知り合いに来てもらおうと思ってさ。これから暇なら来いよ」


 明音は公園の古びた柱時計を確かめて、それからポケットの軽い財布に触る。


「おいくらですか?」

「あー、いらんいらん。受け取ったら私は中学生にカツアゲする女になるだろ」

「でもパッチンするガム出してきましたよね。あれは暴行では?」

「じゃあコイツが慰謝料代わりだ。千五百円もあれば絆創膏くらい買えるだろ」


 言いながら、改めて紗季が明音にチケットを差し出してくる。


「どうする?」


 強く拒む理由も無かったので、明音は渋々ながらそれに手を伸ばした。


「……じゃあ、まあ。貰ってあげます」




 雑居ビルの地下にあるライブハウスの扉は、開けるのに酷く苦労した。


 受付にチケットを渡して、ドリンクを受け取り、長い通路と防音扉を抜けてホールに出る。真っ黒な床と壁、それから満員電車を彷彿とさせる人々の熱気が出迎えた。


 晩夏、冷える日の肌寒さを一瞬にして忘れ去る。


 明音は人波に揉まれる勇気も出せず、粛々とホールの端の方に避難して紗季のバンドの開演を待つことにした。オレンジジュースをストローで飲みながらステージを眺めるが、映画館と違って高低差が無いせいか、ステージ上がまるで見えない。人の入りが多すぎた。


 ふと、明音は紗季の『チケットノルマが未達』という言葉を思い出す。


 その割には、居場所に困るくらいファンが集まっているようだが、どういうことなのだろうか。そんなことを考えながら困っていると、先ほど受付に居た男性が入り口から入ってくる。彼は人の入りを確かめた後、満足そうにホールの端に退避した。


 それがちょうど明音の近くだったので、明音は興味に突き動かされて質問をする。


「あの、ちょっといいでしょうか?」

「あっ、はい? どうされましたか?」


 バンドマンは怖いという印象があったが、清潔感のある男性は愛想よく対応した。


「これから演奏するバンドって人気なんですか?」


 そう尋ねると、男性は面食らった顔で明音の顔をマジマジと見詰めた。こうしてライブを聞きに来るほどのファンなのに、そのバンドがどれだけの人気を持っているのかを知らない。そんな矛盾に満ちたファンをどう思ったのか、「ええと……?」と困り顔で首を傾げた。


 言葉足らずを自覚した明音は、慌ててチケットの半券を見せる。


「あ、えっと、これから演奏する人が『チケットが余っちゃったから来いよ』って言って、よく分からないまま来たんですけど……この感じだと、そんなことあるのかなって」


 男性は明音が手に持つ半券を驚いた様子で見詰めると、何かに思い至ったように笑う。


「あー、なるほど! そういうことですか」


 男性は口を押さえて笑うと、目を細めながら楽屋がある方を見た。


「質問にお答えすると、『めちゃくちゃ人気』です」


 やはりか。驚きつつも納得する明音に、男性は続けた。


「補足すると、比較的メジャー寄りのインディーズレーベルに所属している人気バンドでして。演奏の技術は高いし、ビジュ――容姿の面でも固定ファンは多い。そういう理由で、そもそもノルマは科していないんですよ。そういう煩わしさを廃して、よりコンスタントにライブを企画してくれた方が箱側としても得なので」


 「ノルマっていうのは保険のようなものですから」と続ける男性。明音は得心して頷く。だとすると、このチケットはどういうことだろうか。明音が疑念と共に半券を見る。すると、そんな明音を横目に見た男性が微笑ましそうに口元を緩めた。


「辻野さんですよね? そのチケットを貴女に渡したのは」

「わ、分かるんですか?」

「彼女が『呼びたい相手がいる』と言って、一枚、自腹で買っていきましたから」


 余計に意味が分からなかった。だが、男性にはその意図が分かっているようだった。


「辻野さんはね、サポートメンバーなんですよ」


 専門用語はまるで分からなかった。だが、そんな明音の顔を見て男性は優しく補足する。


「一般的なアルバイトで言うところのヘルプ、要は一時的なメンバーです。正規メンバーが何らかの理由で欠員した場合の補充や、足りない楽器の穴埋めが主な役割です」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。そんな彼女ですが、実は引く手数多です。それも当然で、気持ち悪――失礼。驚嘆に値するほど精密なリズム感は演奏の土台を安定化させる。単純に上手いんです」

「上手いんですか、あの人」

「ええ、とても。その証拠に――以前組んでいた正規バンドでは、メジャーレーベルから声が掛かっていましたから。よく声が掛かるのはその実績もあるんでしょうねえ」


 初耳だし、知らない単語が出てきた。明音は疑問符を無数に浮かべる。


「メジャー? の方が凄いんですか?」

「いえ、収益面では一言に割り切れるほどの優劣はありませんね、今は。ですが、知名度などの観点では比べるまでもなく、そこを目指すバンドマンが一定数居るのも事実」


 そう語った男は、寂しそうに目を細めて誰も居ないステージを見た。


「して、ほんの数か月前、高校生にしてその憧れの舞台に足を踏み入れようとした彼女は、契約の直前、バンドの空中分解という結末を迎えることになりました」


 声を失った明音は、辛うじて困惑の「どうして」という言葉を紡ぐ。男は寂しそうに笑う。


「――痴情のもつれですよ。それも、彼女が当事者の。だから、貴女にチケットを……」


 そこまで語った男は、はたと口を閉ざすと虚空を見上げて思案する。


「やっぱりこの話はやめておきましょう。続きは本人からお聞きください」

「ここまで語っておいて?」

「我々バンドマンは、言葉ではなく音楽で語るものですから」


 男はシーッと鼻先に指を立てる。それと同時に、強い歓声が上がった。


 揃ってそちらを見る。同時に、楽屋からステージに、楽器を担いだ面々が登場する。その中の一人に、見知ったアッシュグレーの髪をした女が居た。観客が一際強く沸いた。


 観客の隙間から紗季の姿を見た明音は、驚く。公園で出会った彼女とはまるで纏う雰囲気が違うのだ。同じようなストリートファッションと目深に被った黒帽子だが、眼光が違う。まるで機械の双眼を埋め込んだのではないかと錯覚する剣呑な眼差しだ。


 明音が言葉を呑んでいると、観客の隙間から明音を見つけた紗季が、途端に柔和な表情を覗かせた。そして、軽く手を振る。――途端、爆発するような女性陣の悲鳴が上がった。


 明音が身を竦ませて驚いていると、脇に立った男が笑う。


「はは、凄い人気でしょう。顔も良いですからね、彼女は」


 顔『も』、ということはやはり、先ほどの話の通りに演奏技術も見事なのだろう。


 音楽というものを殆ど嗜まない人生を送ってきたが、果たして正しく楽しめるだろうか。


 そんなことを暫く考えていると、演奏が始まった。


 ボーカルギター、ドラム、それからギターとベース。四名で構成されたロックバンドが奏でるのはオリジナルと思われる楽曲で、顔立ちの整った男性ボーカルの美声や、女性ギターの表現力に長けた演奏に、ホールが沸き上がる。――その傍ら、紗季は照明を鬱陶しがるように黒帽子を目深に被ったまま、淡々とエレクトリックベースを奏でる。


 前に立つ面々と比較すると、明音にはその様子が地味に見えた。


 整った顔も、被った帽子と俯かせた顔で映えない。


 だが、耳を澄ませて音を聞くと、確かにそこに存在する。どれだけ目を背けようとしても、逃げられない場所に途方もない安定感を孕んだ低音が土台を築き上げていた。ロックに疎い明音でも、彼女が上手な部類に入ることは漠然と理解できてしまう。分からされる。


 ――そして、一瞬。微かな汗をかいた紗季の顔がホールの観客を向く。その顔は公園でガムを差し出してきた彼女のそれとはまるで別物で、明音は、彼女の知らない顔を知った。




 ライブを終えて外に出ると、空は既に真っ暗だった。晩夏の夜、風は少し冷たい。


 明音と紗季は、ライブハウスから離れた位置にある駅前のペデストリアンデッキで、眼下を往来する自動車の群れを眺めながら言葉を交わす。落とさない位置でおしるこの缶をぶつけ合う。夜風に長髪を靡かせる、ベースケースを背負った辻野紗季は憎いほど絵になっていた。


「どうだった?」

「邦ロックというものに触れたことは殆どないので、正確な批評は言えませんが――感想であれば手短に。私が見ていた辻野さんはほんの一面に過ぎないんだと気づかされました。お上手だったと思います」


 簡潔に感想を伝えると、紗季は笑みか照れ隠しか判断できない表情で何度か頷いた。


「サンキュー。その一言で呼んだ甲斐があったよ」


 そう告げる紗季に、明音は良い機会だと疑問点を切り出す。


「――ところでライブハウスの人曰く、辻野さんのバンドにチケットノルマは無いそうですが」


 おしるこの缶を口に運ぼうとしていた紗季は、その手を止めて苦々しい顔を見せた。


「誰から聞いた? 八代さん? 今野さん?」

「背が高くて黒いマスクを付けた短髪の、背筋の良い人です。私から聞きました」

「日下部さんか。あの人なら――ああ、くそ、答えるなぁ」


 紗季はデッキの柵に両肘を置きながら缶を持った手を額に当て、嘆息をこぼす。


「白状するよ、確かに私は、わざわざお前――悪い、君にチケットを用意した」

「『お前』でいいですよ。それより、辻野さんはどうしてそんなことを?」

「だったらお前も『紗季』でいいよ。……まあ、答えは――――――」


 答えを明かそうとした紗季は、寸前で言葉を詰まらせる。詰まりを解消しようと呼吸を繰り返すも、言葉は出てこない。やがて、空いた手で口を覆い隠す。


 明音はそれを見て目を瞑った。


「話題、変えますか?」


 紗季の驚いたような横目が明音を射抜く。


「聞かないのか?」

「自分の聞きたいことと人の言いたいことは、必ずしも合致するとは限らないでしょう」

「……大人だな、感謝するよ。それじゃあ話題を変えよう、そうだな、今日の天気とか」


 少なくとも彼女が今後MCを務めることはないだろう。半眼でそんな確信を伝える。


 参ったように後ろ髪を掻いた紗季は、ふと思い至った疑問を明音にぶつけた。


「お前、なんで学校行ってないの?」


 嫌な質問だ。顔でそう伝えたが、彼女の疑問は続く。


「コミュニケーションに特別問題があるようには見えないし、不良って訳でもなさそうだ。万人に好かれるわけじゃないだろうが、積極的に敵を作る性格にも見えない。どうしてだ?」

「私に答える義理がありますか?」

「教えてくれよ。いじめられてるなら手ェ貸す。友達だろ」


 『友達』という言葉に苦い思い出がある明音は押し黙って考え込む。だが、その言葉を掲げながら牙を剥いた彼女と、それらから守ろうとする眼前の彼女を同一視するべきではないだろうと理性が語る。しかし、今日、全く知らない彼女の一面を目の当たりにしたばかりなのに、既に彼女のことを知ったような気になって心を許すべきかも悩ましかった。


 熟考。一分は沈黙しただろうが、紗季は決して急かすことはなかった。


「いじめられてました。ちょっと前に」

「過去形なんだな」

「解決しましたよ。主犯は自主退学になりましたし、共犯も大人しい」

「まだ苦手意識が消えないか?」


 穏やかな声色だからだろうか、明音も落ち着いて答えることができる。


「……最初は友人がいじめに遭っていたんです。それを守ろうと仲裁に入ったんですけど、気付けば友人が一緒になって私に嫌がらせをするようになりました。今ではそれも解決しましたけど、なんか、人と交流するのが辛くなりました。どういう気持ちで接すればいいのかって。当たり前ですけど、他人はやっぱり他人だし、理解できないことで傷付くんだって」


 明音の語った事情を聞いた紗季は、しばらく義憤の色を顔に覗かせていた。


 明音が全てを語るまで静聴した彼女は、語り終えてからもしばらく押し黙っていた。だが、空になったおしるこを弄ぶように揺らすと、深々と嘆息をこぼした。


「すげー分かる!」


 大きな声が出て、明音も通行人も驚いた。


「別に、同情は必要ありませんけど」

「同情じゃなくて共感だよ。いや、ホント――めちゃくちゃ理解できるんだわ」


 言葉の節々に漂う高揚から、どうやら嘘でないらしいということを確信する。傍ら、紗季は色々な感情が滲んで淀んだ綺麗な横目を明音に向け、嫌な笑みと共に朗々と語る。


「そうなんだよ、全人類、結局はどこまで行ったって赤の他人なんだよな。人間って小学生の頃に思っていたよりもずっと綺麗じゃないし自分勝手で、そうして認識が改まった今でも絶対、その認識を上回る不理解が存在する。私だってそうだ、ここで意気揚々と悪態を吐くようなクソ女だし、自分を守ろうとしてくれた相手を裏切って保身に走ったお前のお友達もクソ」

「あの、酔ってます? 私はそこまで言いませんけど」

「未成年だし酒は飲んでねーよ」


 紗季はおしるこの缶を空いた指で弾き、疲れたように嘆息をした。


「『いじめは良くない』って皆が言うのに、結局大半は傍観者なんだ。戻れない場所まで行き着いて、ようやく後悔しながら自分を責めるパフォーマンスをする。愛情は尊いものだって役者が涙ながらに語るのに、実態は綺麗なものばかりじゃない。約束を守って、人に優しくして、正しく生きる。それが正しいって皆知ってるのに、正しさを守るのって実は凄い難しいんだよ」


 身体に溜まった毒を吐き出した紗季は、瞑目しながら自責の念に駆られていた。


 明音が余計な口を挟まずに出てくる毒を受け止めていると、紗季の目がこちらを見る。


「――――お前の顔がさ、昔の彼女に似てるんだよ」


 言われた明音は自分の顔に手を伸ばし、尋ね返す。


「三人称ではなく、ガールフレンドの意ですか?」

「そう、元カノ。最初は中学生が大丈夫かとか心配してたつもりだけど、なんか色々話している内にゴチャゴチャ考え始めて――気付いたらお前にチケットを用意していた」


 変に友達だから聴いてほしかったと言われるよりも、よほど納得できる回答だった。


 しかし、紗季は罪悪感でも抱いているのだろうか、辛い顔を俯かせている。明音はそんな彼女の顔を見ると、その罪悪感を払拭するように言い返す。


「チケット一枚千五百円、絆創膏を買うには少し高いですから。その差額を埋め合わせにするとしましょう。良いものも聴けましたし、悪感情はありませんよ」


 紗季は丸い目で明音を見詰めたかと思うと、参ったと言うような苦笑を見せる。


「……それで、その恋人というのがバンドの崩壊と関係してるんですか?」

「そこまで日下部さんに聞いてたのか。ああ、うん。正解だよ」


 紗季は吹っ切れた表情で続ける。


「別に恋愛禁止のバンドでもなかったからさ、当時大学生だったボーカルの人と恋愛して付き合ったんだよ。んで、一年くらい上手くやって、バンド自体も滅茶苦茶伸びてレーベルから声を掛けられたタイミングだったかな、そいつがギターの男と浮気してるのを知った。で、そのまま喧嘩して――バンドは解体。レーベルとの契約は勿論ナシ」


 紗季はぎゅっと掴んだ拳を崩壊させるように開いて、肩を竦めた。


「酷い話ですね」

「ああ、酷い話だよ。浮気された側が遠吠えみたいで情けないことを言うけど、元カノはクソみたいな女だし、浮気相手はクソみたいな男だった。でも、一番クソッタレなのは私だ」


 明音が思わず同情の声を上げると、紗季は酷く歪んだ顔で己を貶す。そして、彼女は弱々しい笑みを浮かべ、どこか自嘲気味に、自分を責めてほしいと言うように明音を見る。


「ドラムがさ、小学校の頃から一緒に楽器をやってる相棒だったんだ」

「――それは」


 先を察した明音が言葉に詰まると、紗季は構わず続けた。


「メジャーデビューが夢で、来る日も来る日も、遊ぶ時間も無しで練習し続けた凄い奴だった。私もそいつと一緒に夢を叶えたいと思っていた。そしていざ、念願が叶ったと思った直後に、私のやらかしで全てが水の泡。あの時のアイツの顔、今でも夢に見るよ」


 堰を切ったように吐き出される悔恨の言葉の群れに耳を傾ける。


 別の世界の、凄い人だと思っていた。しかし、似たような苦悩を抱えた人だった。


「電話番号とメールアドレスを変えて、逃げて、もう連絡は取ってない。取れない」


 明音は、憧憬や羨望のようで、同情や共感にも似た眼差しを紗季に向けた。


「その苦悩を、どう乗り越えたんですか?」


 自分の信じた友人が存在しなかった事実への失望と、正しく生きることへの倦怠感。己の手で友人の夢を摘んだことへの罪悪感と、それによる夢を見ることへの抵抗。同じだった。


 彼女が前に進めたのなら、そのノウハウを己の人生にも取り込めるのではないか。


 そう思った明音の考えを、紗季も見透かしたらしい。彼女は浅く笑う。


「乗り越えてなんてないよ。割り切るしかない」


 そう語った瞬間、彼女の顔から毒気は完全に消え失せていた。そこには諦観と覚悟がある。


「培ってきたもの全てを捨てる勇気が無いなら、自分や周囲への失望とか、生きるという行為への罪悪感とか抵抗とか、真っ当であることへの強迫観念とか、そういうの全部受け入れて背負って、そんでもって適当に生きていくしかない。悩んだって明日も人も変わらないなら、思考を捨ててありのままを受け入れるのが賢い生き方だろ」


 それは望んだ回答ではなかった。だが、明音は同時に、自分が自分の望む回答がどこかに存在すると心の奥で期待していた事実に気付く。そんなものは存在しないというのに。


「紗季さんは、そうしたんですか」

「……正規バンドを組む勇気も無くて、サポートを掛け持ちして、何がしたいのか自分でも分からない時間を繰り返している。前に進むことも逃げることもできないから、惰性で停滞している。自分でも間抜けだと思うよ」


 残念だ。凄く嫌な話だが、悲しいほどその言葉は腑に落ちた。


「――私が何をどうしたって、追い詰められたら友達の教科書を引き裂く人は何も変わらず引き裂くし、それを静観していた人達も何も変わらず静観する」

「そういうことだと私は思う」

「理想を捨てるのが大人になるってことなんですかね?」

「そりゃ大人になってみないと分からないだろ。私もお前も子供だ」


 「でも、まあ」と紗季は柵から身を剥がし、腰に手を置いて溜息を吐いた。


「お前が踏み出そうとしている一歩が大人に繋がってるのは確かなんだと思う」


 いじめに遭ってから抱え続けてきた苦悩は、何一つとして解消されていない。


 だが、解消されないまま歩き出すという選択肢を彼女から得てしまった。明音は苦しいくらいに理解と納得ができる彼女の言葉を胸に刻みつけた後、静かに呟いた。


「明日からは、公園には来ないので」


 紗季の双眸が見開かれる。そして、彼女の唇が笑みを宿した。


「じゃあ、連絡先でも交換しておくか」


 今度は明音が驚く番だった。


「――友達だろ。またチケットを用意してやる」


 明音はきゅっと瞑目して唸るが、数秒して、苦笑と共に嘆息した。


 スマートフォンを取り出すと、同じく取り出した先と連絡先を交換する。


「やっぱお前、顔は元カノに似てるわ。性格はまるで違うけど」

「それ、どう反応すればいいか分からないのでやめてください」


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