第5話

 話題になっている恋愛映画を観終えた二人が、ショッピングモールに併設されたファミリーレストランに腰を据えたのは、二十一時を過ぎた頃だった。夕食には、少し遅い時間だ。


 客の数も片手の指折りで数えられる程度になった店内で、二人は映画の感想を言い合いながら各々の好きな料理を好きなように食べていた。明音はハンバーグプレートと食後のパフェ、燈子は体型維持の名目でパスタのみ、スイーツは食べない。


「久しぶりに映画を観た気がする。面白かったね」


 ハンバーグプレートに置かれた苦手なブロッコリーを死に物狂いで食べ終えた明音は、唇の端のソースを舌で拭った後、そう切り出した。対面の燈子は納得の表情で頷いた。


「そういえば、明音先輩ってあまり一人で遊んだりしませんよね」

「そうかな――そうかも。気質的に、『何を』よりも『誰と』が大事なのかもしれない」

「行きたい場所とかないんですか? お供するのも吝かではありませんけど」

「んー……急に言われても思い浮かばないかな。行きたいと思った場所にはすぐ行くし」


 必要に駆られたら必要な時に必要なものを購入したり楽しむ性格だ。


 燈子は明音の回答に納得の苦笑を見せる。


「先輩はあまり欲求を剥き出しにしないですよね。修行僧かってくらい」

「尺八吹きながら行脚するやつ?」

「それは虚無僧です」

「戒律破りはお任せください」

「それは破戒僧」

「悟りの為に厳しい修行を耐え忍ぶ人」

「それはマゾヒストですね」

「それが修行僧だよ」


 失礼な奴め。そう言いたくなる気持ちを抑えて話を本筋に戻す。


「まあ、実際――無欲だと思われがちだよね、私」

「実際はそうではないと?」

「だってほら」


 明音は自分の前に置かれている期間限定のマンゴーパフェを示す。対する燈子はストイックにパスタのみを食べており、少なくとも明音の食欲が旺盛であることは事実だ。


「美味しい食べ物は好きだし、楽しいことはちゃんと全般的に好きだよ。ただ、自分の欲求は手早く自分で消化するし、誰かと一緒に遊ぶときは自分の欲よりも相手に楽しんでもらいたいと思うから。欲望を剥き出しにすることはないと思う」


 ハンバーグプレートを食べ終えた明音は、有言実行、気の向くままにパフェにスプーンを刺す。夏が旬のマンゴーを贅沢に使ったパフェに、胃袋が開くのを知覚する。


「なるほど、そういうことですか」

「そういうこと。だから、行きたい場所とかあったら気兼ねなく言ってよ」


 明音がにこやかにそう提案すると、燈子は食べ終えたパスタの皿にフォークを置く。


「――でも、それは少し自己満足じゃないですか?」


 不意に不穏な反論が返ってきた明音は、舌の上で溶けたホイップに味を感じなくなる。


 ムッとスプーンを咥えて燈子に視線を返すと、彼女は少し不貞腐れたような顔をしていた。


「『自分よりも相手に楽しんでほしい』って考え方は素敵だと思いますが、結局それも欲でしょう。相手に楽しんでほしいという欲求なんだと思います」

「……つまり?」

「私だって、一緒に過ごす人には楽しんでほしいです」


 不貞腐れた調子で瞳を伏せながらそう言う燈子に、明音がぎゅっと心臓が締め付けられる。


 可愛い。口に出して言いたかった。凄く可愛い。身を乗り出して、抱き締めてしまいたい。明音は、彼女から向けられる感情が友情であることを無視して、自身の恋愛感情の赴くままに愛を訴えたい衝動に駆られ、それを一生懸命に抑え込む。


 目を瞑ってその言葉を噛み締め、浮かしそうになる腰を、足を離して落とす。


 どうにか感情に整理を付けて、努めて冷静に彼女の想いに応えた。


「分かった。今度、一緒に行きたい場所を考えておくよ」

「――楽しみに待ってます」


 花が咲くような笑みが返ってくる。――普段は素っ気なく、少々生意気な言動すら吐き捨てることのある燈子だが、根っこの部分は優しく可愛らしいのだ。そして、後者について知っている人間の数は地球上でも限られているのだろうなと考えると、ささやかな優越感がある。


 そうして明音がパフェを食べ終え、店員が食器類を片付けた後。


 燈子が氷の融けきったグラスに手を伸ばし、「そうだ」と思い出す。


「そういえば、何か聞きたいことがあるって言ってましたけど」

「あ、うん」


 忘れていた訳ではないが、切り出すタイミングを計りかねていたのだ。だが、彼女から話題に出してくれたのなら都合がいい。「それなんだけど」と明音は唇を湿らせ、ショルダーバッグから封筒を取り出す。中身をテーブルの上にすっと差し出して、彼女に見せた。


「この手紙をくれたのって、燈子?」


 ジッと表情の僅かな変化も見逃すまいと、彼女の顔を見詰めながら問い質す。


 燈子は――不思議そうな表情だった。何の話か理解できない様子で、卓上の手紙を見詰めている。それから眉を顰め、首を傾げながら口を割った。


「いえ、存じ上げませんけど。何ですかこれ、架空請求でも食らいました?」

「中身は私宛のラブレターだったんだ」


 途端、燈子の双眸が大きく見開かれる。とても演技には見えない。


「……私に聞いてきた時点で察しは付きますけど、差出人は?」

「イニシャルしか書かれていなかった。S.T。東陽高校において該当者は三人だけ」


 明音が彼女の顔をジッと見詰めながら質疑応答を繰り返すと、彼女は顎に手を添えながら視線を斜め下に向ける。僅かも嘘を吐いているとは思えない所作だ。


「なるほど、辻野紗季、霜鳥千晴――で、佐倉燈子ですね」

「偶然か作為かは分からないけど、とにかく、誰がくれたかも分からない手紙に返事はできない。だから、誰が差出人かを確かめて回ろうと思ってる。もう一度聞くけど、心当たりはない?」


 これが最後の確認だ。これ以上の尋問は無意味だろう。


 燈子は、明音から真っ直ぐに向けられた視線に正面から向き合って、首を横に振った。


「いえ、知りませんね。あの二人のどっちかじゃないですか?」


 ――明音は天井を仰いで小さな嘆息をこぼす。


 本当に燈子でないかは定かではないが、少なくとも彼女は認めなかったし、疑うに足る根拠も見当たらなかった。燈子が犯人である可能性は極めて低いように見える。「先輩?」と、天を仰ぎ始めた明音を不審がる声が聞こえてきたので、「いや」と、明音は弱った顔を向ける。


「ありがとう。変なことを聞いてごめんね」


 紗季か、千晴か。果たしてどちらがこの手紙をくれたのだろうか。


 上の空にそんなことへ思いを巡らせる明音に、燈子は一瞬、不服そうな顔を覗かせる。だが、それをすぐに普段通りのツンとした顔で覆い隠すと、卓上の封筒に手を伸ばした。


「これ、見てもいいですか?」

「え? ああ、いや……ううん、一応、センシティブな内容だから」

「そうは言っても、ここまで聞いたら中身を見たも同然では? ――それに、千晴先輩の酷い字は私も何度か見たことはありますから。あの人かそうでないかくらいの識別はできるかもしれません。期待はしないでほしいですけど」


 明音は「ううむ」と腕を組んで唸る。勇気を振り絞って手紙を出してくれた相手の感情を、面白半分で吹聴するのは主義に反する。だが、実際のところ猫の手も借りたい状況であり、差出人を特定しなければ気持ちに応えることもできない。また、差出人特定の観点で語るなら、既に達子に中身を検めてもらったという点も忘れてはいけない。


「……面白半分で吹聴しちゃだめだよ?」

「そんな嫌な奴に見えます? 私」

「まあ、悪い子じゃないけど清純派でもないよね」


 そんな風に評すると、すっと燈子の双眸が細くなる。地雷を踏んだかと身構える明音の目の前で、彼女はスマートフォンを取り出すと、それを素早く操作する。


 数秒後、明音の携帯に着信。彼女が何かを送ったのだろう。確かめる。


「――ぶっ⁉」


 思わず吹き出しそうになった明音は、慌てて口を押さえる。唾液が気管に入った。


 ――送られてきたのは一枚の写真。出発前に撮影したのだろうか。今、燈子が着ているものと全く同じ服を着た彼女が、姿見の前でスカートを持ち上げて純白の下着を晒しているのだ。彼女が普段、裏アカウントで投稿しているものと比べてもかなり際どい一枚。


 明音は顔を真っ赤にさせて咽せながら、口を押さえつつ燈子を睨みつける。


「……ちょっと?」

「その色を見てもまだ同じことが言えますか」

「下着の色と着用者の性格に相関性はないと思う」

「これでも学校では清純派で通ってるんです」

「その言葉は清純派の口からは出てこないよ」


 「ふん」と燈子は話を切り上げ、テーブルの上のラブレターに手を伸ばす。


 明音は画像の『保存』ボタンを押すか否か、寸前のところで葛藤を繰り返した果てに理性が勝り、メッセージアプリを閉じることに成功する。傍ら、燈子は手紙に目を通していた。


 しばらく口を噤んで手紙を読んでいた燈子は、やがて、上目に明音を見た。


「確かに、このイニシャルだと、該当者は少なくとも三人は居ると思います。先輩は直接問い質して心当たりはないかと確認していますけど――」

「うん」

「どういう順番で聞いてるんですか? 私は、何番目ですか?」


 思いがけない質問を食らった明音は驚きつつ、隠す理由も無いので素直に応じる。


「燈子が最初だね。その後に紗季さんと千晴に聞きに行くよ」


 燈子の瞳が動揺に揺れる。手紙を掴む手に力が入り、皺ができそうになった寸前で、彼女は我に返って手紙から力を抜く。そして、揺れる瞳でしばらく手紙を見詰めた。


「どうしてですか?」

「えっと……何が?」

「どうして私が最初だったんですか?」


 そう尋ねる燈子の表情が真剣だったから、質問の意図を聞く気にはなれなかった。


 しかし、あまりにも本質とは無関係な質問に、明音はしばらく戸惑う。戸惑いつつも、しかし彼女の質問の回答を自分自身に尋ねた。――正直、無意識だ。だが、深層心理で何らかの意図が作用していた可能性も否めない。それを確かめるために自問自答を繰り返す。しかし、答えは変わらなかった。明音は「んー」と唸りつつ返答を紡いだ。


「特に理由はないかな。強いて言うなら、最近会ってなかったから?」


 燈子、紗季、千晴との交遊頻度に大きな差は無いが、一時的に偏りが生じることがある。中学時代からの付き合いとはいえ、高校入学直後だった燈子には同じ学年での付き合いが大事だろうと判断して、しばらく誘いを自重していたが故に、最初に声を掛けた部分もあるだろう。


 そんな社交性に富んだと自負する回答を、しかし燈子はお気に召さない様子だった。


「……そうですか、特にありませんか。この質問の意図と同じですね」


 顔を背け、分かりやすく不貞腐れながら冷たい声を上げる。


 どうやら選択を誤ったらしい。明音は困り顔で弁明の言葉を探す。


 だが、明音が無様な言い訳を繰り出すよりも先に、燈子は手紙を封筒に戻す。


「もう一つ質問です」

「は、はい」

「――このラブレターの差出人を特定したら、先輩はどうするんですか?」


 どうやら先ほどの返答に対する不満よりも優先すべき事柄のようで、燈子の表情は極めて真剣だった。瞳は揺ぎなく真っ直ぐに明音を見据えており、余計な言葉も続かない。


 明音は予想外の質問に、しばらく戸惑った。どう返答するかと口を噤んで模索する。


 誤魔化そうかと思い、「それは、今は――」と口走った。彼女が差出人でないと答えた時点で、この問題は彼女を除く差出人と自分との間で交わされる、ある種の契約のようなもの。守秘義務に近いものが存在するとも思っている。だが、彼女を部外者と呼ぶには既に事情を明かし過ぎた。それに、夜久明音は佐倉燈子に恋愛感情を寄せている。己の中で踏ん切りを付けるためにも諸々を打ち明けておきたいという身勝手な気持ちもある。


 そして――最後に、一番大きな打算がある。燈子の先刻の回答が嘘だと仮定した場合だ。


 もしも彼女が本当にラブレターの差出人で、何らかの意図があってそれを隠しているなら。ここで自分の感情を打ち明けることで、彼女の本音を聞き出せるのではないかという仮説。


「いや、うん」


 明音は先走った言葉をそっと訂正した後、深呼吸を挟む。少し、顔が熱かった。


「二人のどっちが差出人でも、私はその想いに応えるつもりだよ」


 少し逃げた。核心を突く回答を恐れて言葉を濁した。


 だが、燈子には深く突き刺さったらしい。彼女の双眸は大きく開かれる。手が震えていた。震えを誤魔化すようにグラスに手を伸ばそうとして、倒しそうになり、慌てて掴み止める。水滴がテーブルに一粒跳ね、それを見て一息を吐いた燈子は、それを見詰め続ける。


「もし」


 珍しく重い、燈子の前置きだった。


「私が否定した以上は有り得ない仮定ですが、万が一、差出人が私だったら?」


 明音はそう尋ねてくる彼女の真意が分からなくて、弱々しいその顔を見詰める。


 意味のない仮定をするような少女ではない。つまり、明音の仮説通りに『実際の差出人は燈子だが、何らかの意図があってそれを伏せている』ということなのだろうか。そして、明音に受け入れられるという保証があるなら想いを伝えるつもりなのか。


 何にせよ、正直に答えれば知りたいことが分かるだろう。


 明音は、一度逃げた答えを、もう一度引き出されようとしている現状に言葉を詰まらせる。身体が熱く、きっと耳まで赤いだろうことが自覚できた。言葉が出ず、唇の開閉を繰り返す。夏場なのに嫌に唇と舌が乾いたから、それを湿らせ、固唾を飲んだ。


「もしも燈子からの手紙でも、私は受け入れるよ」


 卓上の水滴を見詰める燈子の瞳孔が開き、恐る恐る、その顔が明音に向く。


 視線が交錯した。こちらの心を知った意中の相手の真っ直ぐな視線を受け止めきれるほど明音の肝は据わっておらず、逃げるように視線を逸らした。


「それは、私のことを――」


 佐倉燈子は逃げることを許してくれない。本心を吐露するように迫ってくる。


 逃げても誰も咎めなかっただろう。だが、ここまで明かして、ここから口を噤むのは初志貫徹の座右の銘に反する。明音は祈るように手を合わせ、そこに顔面を押し付けた。溜息。


「………………好きだよ。一応、去年辺りから」


 言った。自分の吐息で手が火傷しそうだった。顔が熱くて仕方がない。不思議なもので、熱くなりすぎると目尻に涙が出てくる。血の気が引くような虚脱感さえあった。


 やっぱり嘘。そう言いたくなる衝動に駆られながらも、倒したドミノの行く末を見届ける義務がある、と真っ赤な顔を持ち上げて燈子を見た。――彼女は、言葉を失っていた。


 一瞬、鏡を見ているのかと錯覚した。それくらい彼女もまた、顔に朱を落としていた。


 言葉を失って何度か口を開閉した後、「え、あ」と要領の得ない言葉を繰り返している。その反応には嫌悪感や忌避感のようなものは感じられず――或いは、脈があるのではないかと錯覚してしまいそうだった。もしかしたら存外、彼女も自分のことが恋愛的に好きなのではないかと、そんな希望的観測が芽生える。明音の目に、淡い期待が滲んだ。


 もしも彼女が自分を好いていてくれるのなら、ラブレターの差出人は彼女だ。


 そして、明音の胸中が発覚した今、隠す道理も無いだろう。


 だから、答えを待った。


「……そうですか」


 しかし――返ってきたのは、赤い顔を背ける燈子の反応だけだった。


 一瞬にして明音の全身から熱が引く。失恋と呼ぶには少しばかり卑怯で腰の引けた経験に、今度こそ本物の虚脱感が全身を襲う。心臓が痛かった。有刺鉄線で締め付けられているような感覚だ。思わず出そうになった溜息を全力で抑え込んで、どうにか笑った。


「ごめん、変なこと言ったね」


 すると、弾かれたように燈子は明音を見る。


「あ、いや――」


 訂正を紡ごうと開かれた口は、しかし全てを伝えきる前に閉口する。


 燈子は泣きそうな顔で口を噤むと、きゅっと唇を噛んで顔を俯かせる。


 それが何よりの答えだと解釈した明音は、グラスに少しだけ残ったオレンジジュースを一気に呷る。氷で薄まった甘味が熱を帯びた脳によく効いた。そして、立ち上がる。


「そろそろ良い時間だし、遅くなる前に帰ろう。送るよ」


 しばらく何かを訴えようとしていた燈子は、やがて、諦念と共に頷いた。


 ラブレターの差出人は、佐倉燈子ではなかった。明音は息苦しさの中で、そう結論を出した。




◆◆◆




 パンを咥えた転校生と曲がり角でぶつかったり、不良に絡まれているところを助けられたり。捨て猫に傘を差しているところを見つけたり、手と手が触れ合ったり。


 そんな出来事一つで誰かを好きになるなんて、よほどの好色家くらいだろうと思っていた。


 実際のところは、潜在的に抱いていた感情がふとした拍子に顕在化するだけ。だから、ドラマチックな出来事で人を好きになったのではなく、大きく心を揺さぶる出来事に直面した結果、自分の本当の感情に気付いたと表現するのが適切かつ指摘だと佐倉燈子は考える。


 ――そんな佐倉燈子が恋愛感情を自覚したのは、中学三年生の秋のことだ。


 その時期、燈子は酷い風邪をひいていた。逃げ出すように一人暮らしを始めた手前、叔母家族に頼る気にもなれず、しかし病院に行けるほどの体力も無かった。外に出て医薬品や食料を買う体力も無ければ、クレジットカードなんてものも無いから通販もできない。


 何をすることもできず、ただベッドの上で少しずつ衰弱していくのを自覚していた。


 熱に浮かされながら、ぼんやりと――将来的にはこんな風に死ぬのだろうと思った。


 孤独など苦痛ではないと格好つけていた癖に、そんな現状があまりにも寂しかった。だから、その頃にできた数少ない『友達』と呼べる存在の内、最も信頼できる人物に送ったのだ。


 『風邪ひいちゃいました』と。ただそれだけの文章を送って、そのまま寝た。


 昼、インターフォンで目を覚ました燈子が、重い足を引きずって覗き窓を見た時。


 夜久明音が両手いっぱいに差し入れを抱えてきたのを目の当たりにした。そして、漠然とした孤独死のイメージが一瞬にして払拭されたのを覚えている。


 母親を説得して学校を休んできたと語る彼女が、酷く心配した表情で一生懸命に看病してくれた。お粥を用意して、病院までの移動手段も手配して、熱が苦しい時に氷嚢を用意してくれた。――その時に恋に落ちた、なんて事実は無いし、彼女に大きな感謝の念は抱いたが、それと恋愛感情を混同するような真似はしていないと断言できる。


 しかし、二日が経過して、熱が下がって。久しぶりの一人の時間に、考えることがあった。


 それは、明音にだけ病床に伏した旨の連絡を送った理由だ。


 明音と出会って以降、何名か中学校で友人と呼べなくもない相手を作った。明音を経由して霜鳥千晴や辻野紗季といった相手とも――友人と呼べる程度の関係にはなった。それなのに、連絡をしたのは明音だけだった。数を増やした方が生存率は高かったのに。


 考え抜いた末、一つの事実に気付く。それは、自分が思い描く将来の設計図に、常に夜久明音が居続けているということ。『夜久明音が居ない未来』が少しずつ自分の中から消えていき、それを自覚させたのが、たった一回の看病だったというだけの話だったのだ。


 それをハッキリと言語化させてから数日、彼女とのメッセージアプリでの連絡には苦労した。誤字が無いか、返信が早すぎないか苦悩したり、彼女から連絡が返ってこないか待ち続けたり。


 何が言いたいかというと――つまり、佐倉燈子は夜久明音に恋をしている。


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