第4話

「じゃーん。どうかな」


 試着室のカーテンが開き、燈子のコーディネートを身に纏った明音が顔を出す。


 黒を基調としたシャツとロングスカートのコーディネート。落ち着いた色合いで纏まっていることもあり、大人びた印象を与えるセットだ。姿見に映った自分が普段よりずっと大人っぽく感じられた明音は、やや紅潮した顔で上機嫌に、それを試着室前の燈子に見せる。


「うん、流石は私のコーデですね。完璧に似合ってます」

「そっちなんだ、褒めるの」

「冗談ですよ、冗談。先輩は意外と大人っぽいのでシックな服が合いますね」

「んふふ、褒められると気分が良いね。これは買いかな」


 明音は気分が良くなりながら、燈子の選んでくれたセット丸々購入することを決意する。


 試着室のカーテンを閉めて服を脱ぐと、それをハンガーに戻して外のカゴに入れる。


 駅前のショッピングモールの三階に、衣料品のチェーン店が置かれていた。お金持ちが決めるべき場面で決める服を選ぶような高級店ではなく、学生でも手が出せる程々の金額の量販店。アルバイトのお金を少しずつ貯蓄している明音は、これを良い機会だと思い、燈子に見繕ってもらって夏服を揃えるつもりだった。


「じゃじゃん、こちらはどうでしょうか」


 着替え終えた明音が、再びカーテンを捲る。


 今度は紺色のシャツワンピースだった。丈は膝辺り、捲った状態で陳列されていた袖は七分まで。締められた腰ひもが明音の華奢な腰回りを浮き彫りにさせており、すっきりした首周りは明音の白いうなじを艶やかに露にしている。


 そんな明音が急に目の前に現れた燈子は、目を丸くして思い切り言葉を詰まらせる。


 燈子は明音の頭から爪先までを無言で見詰めた後、次第に動揺を瞳に宿し始める。不安定に揺れる目で暫く明音を眺めた後、「か」と一文字呟いて、慌てて視線を逸らしながら口を塞ぐ。


「……に、似合ってると……思います」

「え、もしかして微妙だったりする?」

「ち、違います。そんなことないです、似合ってますよ、本当に」


 やけに挙動不審な様子だったが、嘘を吐いて貶めようとしてくる性格ではないので信じていいだろう。明音自身も姿見を見て、普段は着ないシャツワンピースも悪くないと感じていた。


「うん、これも買いだね」


 そう言ってカーテンを閉めた明音は、試着室で速やかにシャツワンピースを脱ぐと、それをカーテンの隙間からカゴに入れる。そんな様子を少し離れた位置で見ていた燈子は、バクバクと跳ねる心臓を押さえて深呼吸を繰り返し、熱くなった頬を冷ますように両頬を叩いた。


 そして、最後の一セットを着た明音がカーテンを開いた。


「最後。こちらは――ええと、どうでしょうか」


 その姿を見た途端、燈子は言葉を失った。息を呑んで明音に目を奪われる。


 肌着のキャミソールの上にオフショルダーのシャツが一枚、下は丈の短いショートパンツ。普段着よりもずっと肌面積の広いそのコーディネートに、流石の明音も少し恥ずかしそうに頬を染め、剥き出しの脚や肩を手で隠したりと無駄な足掻きを見せている。


「あの、なんか言ってよ。ちょっと恥ずかしいんだけど」


 燈子が言葉を失っていると、マジマジと見詰め続けられた明音は苦言を呈する。


 だが、それでも燈子は言葉を紡げない。焦った様子で変な汗を浮かべながら言葉を探す素振りを見せ、その最中に何度か明音の方を盗み見る。そして、次第に頬を赤く染め始めた。


 やがて、真っ赤な顔を少しでも隠すべく口を押さえながら、もごもごと呟いた。


「やっぱ、ちょっと、それは駄目かもです」

「えぇ⁉ 君が選んだんじゃんか」

「それはそうなんですけど、その――えっち過ぎると言いますか」


 正直に性的であるという旨を打ち明けられた瞬間、明音は怪人二十面相も真っ青な具合で表情を七変化させる。羞恥すればいいのか、困ればいいのか、怒ればいいのか。だが、顔色だけは真っ赤で統一されていた。


 明音は姿見で改めて自分の姿を確かめる。


「……別にそんな、駄目って言われるほどマズイ恰好はしてないと思うんだけど」


 確かに少し脚が出過ぎているような気はするが、一般的な量販店で販売されている一般的なショートパンツの丈だ。禁止されるような恰好ではないだろう。


「まあ、そう言われるとその通りですし、駄目と言ったのは訂正しますが――」


 珍しく歯切れの悪い燈子は、拗ねたような表情で心の内を語った。


「……他の人に、先輩のそういう姿を見てほしくないです」


 明音は彼女の言い分を聞いて、呆気に取られたように言葉を失った。


 例えば――普段とは違う恰好をしてきたから褒めてほしいと思うのは、年頃のお洒落好きな女の子なら誰しもが抱く願望だろう。友人が性的な恰好をしているから、それをやめてほしいと思うのも、極めて一般的な感性を持つ人間の真っ当な主張だと考える。


 しかし、他の人に見せたくないという願望は、少々一般的な感性から離れているような気がしていた。それはまるで独占欲のようで――、彼女が自分に対して特別な感情でも抱いているのではないかと錯覚させられそうになる。確証は無いのに喜んでしまう。


 ラブレターの差出人は彼女なのだろうか。燈子が自分に想いを寄せてくれているのか。


 現状、確証は無い。こんな服屋でラブレターの件を切り出すのも場違いだ。


 ――私のこと、好きだったりする? なんて言葉が口を突いて出そうになったが、間違っていたら恥ずかしい。それでも自分が彼女に恋愛感情を寄せているのは事実で、情けないことに、そうだったらいいな、なんて期待に胸を膨らませてしまう自分が居た。


 真相は分からないが――燈子の独占欲にも似た主張は不快ではなくて、明音は殊勝にカーテンの内側へと戻った。似合ってはいたと思っているので購入は心に決めつつ、元々着ていたオーバーサイズのシャツとパンツに着替える。


「自分はあんな自撮りをネットに上げてるのに」

「私のは――別に、いいじゃないですか。なんですか、嫌なんですか?」

「君の大事な収入源なんだからそんなことは言わないし、君だって聞き入れないでしょ。それとも何、嫌だって言ったらやめるの?」


 少し試すような口調で尋ねると、数秒を置いた返答は意外なものだった。


「……先輩が本当に嫌なら、やめますよ」


 思わず試着室の外を見る。カーテンを隔てた向こう側の燈子の表情は分からない。


 彼女の口ぶりは素っ気なく、淡々と事実を伝えているようなものであった。だが、伝えている内容そのものは、自分の人生の大事な部分よりも明音の意思を尊重すると言うようなもので、それを聞かされた明音は、思わず口元を押さえながら視線を泳がせた。顔が熱くなる。


 勘違いしてしまいそうだった。やっぱり、彼女は自分のことが好きなのではないか。


 本音を言うなら、彼女には裏垢活動をやめてほしいとは思っていた。彼女の可愛い姿を自分だけで独占してしまいたいという浅ましい欲望さえ存在する。しかし、現実的には一人暮らしをしている彼女が親の遺産に手を付けずに生活するための大事な収入源であり、また、親愛や友愛といった類の諸々に懐疑的な彼女がそれでも誤魔化せない承認欲求を満たす手段でもある。


 真剣に考えれば、彼女を思えばこそ辞めろなどとは言えるはずもない。


 しかし、自分が、愛情というものを偽物だと断じる彼女の数少ない友人であるという事実が、自分は彼女にとって特別な存在なのではないかという思い上がりを生み、結局、夜久明音は誤解してしまいそうだった。――やっぱり彼女は私を好きなのではないか、と。


 顔の熱を冷ますために呼吸を繰り返す。桃色に染まりそうだった思考を無に戻す。


 何食わぬ顔を彼女に見せるのには、少し時間がかかった。




「結局、全部買いましたね」

「試着しちゃったし、こういう機会でもないと買い足さないからね、私は」

「まあ、選んだ甲斐があったということで納得しておきます。似合ってましたよ」


 大きめの紙袋を一つ手に提げて、明音は燈子と一緒にモールを歩いていた。


 顔の火照りを沈ませてから試着室を出た後、そのまま手短に購入を済ませたのだ。


 時刻はもう間もなく十九時になるだろうかという時間帯。夕飯にはちょうど良い頃合いだろうが、別に急いで食べなければと思うような時間でもない。


「これから、どうしましょうか。他に何か見たいものあります?」

「実を言うと、何か特定の欲しいものがあってモールを選んだ訳じゃないんだ。良い時間だし夕飯を食べてもいいけど……燈子こそ、見たいものがあるなら付き合うよ」


 燈子の方を見ると、時を同じくして彼女は足を止める。その顔はある方向を見詰めていた。


 ショッピングモールに併設されている映画館へと続く渡り廊下。向こう側には映画館特有の黒を基調とした絨毯や壁が広がっている。「――映画?」と尋ねるが、どうやら明音の声は聞こえていない様子。その双眸は、向こう側に歩いていく一組の家族連れを見詰めていた。


 両親が娘と息子と手を繋ぎ、談笑しながら映画館へ。そんな光景。


 燈子の横顔に一抹の寂寥感と憧憬、羨望――渇望の色が滲んだのを見た。見詰めた瞳は力なく閉じかけ、唇はきゅっと引き結んで弱い吐息が漏れ出るのを防がんとしている。


 もしこの光景に題を付けて写真にするならば、『孤独』以上に相応しい言葉は無いだろう。


 母親の不倫によって産み落とされた佐倉燈子という少女は、親の愛を知らない。親が子に向けて当然とされる愛情の一切を知らず、人が人に向けるそれらを偽物だと揶揄する。だが、どれだけ表面を取り繕ったところで、その本質は愛に飢えた子供のそれだ。明音は、そう認識している。だが、明音がどれだけ努力したところで、親愛の代替はできない。


 家族というのは、古今東西あらゆる人々にとって特別な存在とされている。


 言い換えれば、他の一切を用いても家族に代わることはできないということ。


 だが、一足す一が二であることをこの世の誰かが証明した以上、人が孤独を補うことは可能なはずだ。そして、孤独とそれを埋める行為を足し算と解釈するならつまり、埋める側の『一』もまた、相手の不在を惜しんで、そこに孤独を見出すことになるのだろう。


「一人にしないでよ。寂しいから」


 燈子の手をぎゅっと掴む。彼女は弾かれたように顔を上げ、明音を見た。


 明音の顔には取り繕った笑みも、慈愛も、見下すような優越感も無い。寂寥感はそこそこ。表情の大部分を占めるのは切実さであり――明音が己にできる最大限で燈子を励まそうとしていることが、顔と、それから繋いだ手の力によって否が応でも理解させられた。


 燈子は驚きに開いた目で明音を確かめた後、己を見詰め直すように視線を下ろす。


 縋るように、燈子が明音の手を強く握り返す。手にしたものが曖昧でないことを己に言い聞かせるように、その存在をしっかりと確かめるようにきゅっと握って、安堵に手を緩める。


「しませんよ。だから先輩も約束を守ってくださいね」


 ――『裏切ったら怒ります』。それに対して、『裏切らない。約束する』と答えた。


 定義は曖昧で、細部には互いの認識の差異があるかもしれないが、間違いなく共通していると確信できる部分もある。それは、孤独を埋め合うこと。夜久明音は自らを孤独と呼ぶには少しばかり友人に恵まれていると自覚しているが、だからこそ、個を蔑ろにはしない。


「うん」


 頷くと、燈子は安心したように、握った手をするりと解こうとする。だが――それを名残惜しんだ明音は反射的に手を握って止めてしまい、驚いた彼女の顔を見て驚き返す。一拍の視線の交錯の後、明音は謝罪に先んじて手を離そうとするが、今度は燈子が手を掴み返してきた。


 困惑を顔に宿す明音に対し、燈子は一瞬にして茹ったような赤い顔を背ける。


「…………なんですか」


 どうやら状況については言及しない方向らしい。


 明音は、夏の暑さとは別の理由で熱を帯びる燈子の手に、少しずつ鼓動が激化していくのを知覚する。顔も、意外とすぐに恥ずかしがる性格も、全てが可愛らしく思えて、そんな彼女と手を繋いでいるという状況に心が揺れるのを知覚する。満更でもなさそうな彼女の表情を見る度、もしかしたら彼女は自分のことが好きなのではないか、なんて勘違いをしてしまう。


 沈黙する明音を、燈子が不安そうに見上げてきた。そんな姿がとても可愛らしくて、明音は思い上がろうとする自分の心を懸命に抑え込み、普段通りを装った。


「何でもないよ。それより、これからどうする?」


 明音は燈子の手を握ったまま、彼女が先ほど眺めていた方向を見る。燈子が目で追っていた家族連れは映画館の中に入ったようで、群衆に紛れたそれらから探し出すことは難しい。


 燈子も同様に映画館の方を見る。羨望や憧憬は映画ではなく家族に向けられたものだっただろう。だが、彼女は肩の力が抜けた柔らかい笑みをこぼすと、くい、と明音の手を引いた。


「そういえば、観たい映画があったんですが――」


 そんな風に楽しそうな顔をする燈子を見た以上、明音に拒む理由は無かった。


「――付き合うよ。夜は長いから」


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