第2話

 中学生時代の夜久明音は、平凡で、愚かで、弱々しく、その癖に理想だけは一丁前な半端者だった。世界平和を本気で望むような無知で、いじめはこの世界から根絶できると思っていた。


「私、いじめられてるんだ」


 ある日の下校中、無二と言える大切な友人だった少女が、そう相談を持ち掛けてきた。


 聞けば、同じクラスで幅を利かせている影響力の強い女子に、標的にされているらしい。髪や胸倉を掴み、所持品を隠され、壊される。内容は明らかにいじめと判断できるそれであり、明音は同時に、相談されるまでそれに気付けなかった己を恥じた。


「大丈夫、私が守るから」


 そう豪語した翌朝、現場を押さえた明音は主犯格の女子に直談判をした。


 喧嘩にも近い言い争いと暴力寸前の肉体的接触は、その日の一時間目まで割り込んだ。


 結果として友人へのいじめは完全に消失し、明音の目的は果たされることとなった。その時の明音は友人を自らの手で守ることができたという事実へ強い達成感を覚えていたはずだ。


 だから、その翌朝、己のノートがカッターで刻まれていた事実は受け入れることはできた。


 しかし、その実行犯が、己が友人と呼んでいた少女だということは、受け入れるに難かった。


 何のことはない、極めて簡単な話。友人に向いていたいじめの矛先は明音に移り、友人はそれが再び自分に向けられるのを恐れて加担したというだけ。


 その事実をどう受け止めたのかを、今の明音は覚えていない。


 ただ、いじめの問題は大人に介入してもらって無事に処理し終えたこと。友人と呼んでいた少女とは一言も会話することが無くなってしまったこと。辛かったことを覚えている。


 それ以降、一年近く。夜久明音は人間不信の引きこもりだった。




◆◆◆




「それで、これからどうするの?」


 ラブレターの差出人が自らの友人三名の誰かであることが発覚した、翌日の放課後、教室。帰りの支度を済ませて明音の席に鞄を置いた達子からの質問に、持ち帰って一日苦悩した明音は腕を組んで唸る。帰宅部と部活動所属者の喧騒が賑わう教室で、明音は静かに告げた。


「この手紙が嘘偽りの無い本物なら――悪戯じゃないなら、嬉しい。だから、誰がこの手紙をくれたのか、まずはそれから突き止めたい」

「なるほど。具体的にはどうやって?」

「全員に直接会って、この手紙に心当たりがないかを尋ねる。どうかな」


 明音は思慮深く見識に富んだ達子に己の選択の是非を問う。彼女は薄笑いをこぼす。


「良いんじゃない? もしその手紙が本心から書かれたものなら、差出人を伏せる理由が私には理解できない。アンタが直接会って問い詰めればあっさり打ち明ける可能性もある」

「よかった。君がそう言ってくれるなら問題はなさそうだね」

「いや、決断は肯定するけど問題はある。主に二つ」


 明音は立ち上がり、荷物を纏めた鞄を肩に提げて意図を尋ねるように視線を返す。


「一つ目、とにかくこの手紙の異常性は差出人が伏せられていること。犯行予告や脅迫文の類ならともかく、自分の恋愛感情を受け入れさせることが目的であるラブレターにおいて、肝心な『自分』が誰かを相手に伏せている点には何らかの裏の事情が見え隠れしている」

「……悪戯の可能性があるってこと?」

「もちろん。そうでなかったとしても、アンタが会って問い詰めても黙秘を貫く可能性がある。だから、不測の事態が起こり得るということを念頭に置いておきなさい。それから、文章の『この気持ちに応えてくれるなら、私に会いに来てください』の部分。アンタが対象と接触しただけで気持ちを受け入れてもらえたと解釈する阿呆は居ないはずだから、接触した際に何らかのアクションを実行する必要があると考えるべき。それが二つ目に繋がる」


 二人で帰路に着く。最中、達子は裏向きのピースサインを胸元に立てた。


「もしも差出人を特定できた時、アンタはそいつの気持ちにどう答えるか」


 明音は思わず足を止める。達子は軽く振り返りながらも足を止める様子は無いから、慌てて追いかけた。


「人様の恋愛感情を徹底的に暴き抜いて、その果てが『ごめんなさい』じゃ少しばかり寝覚めが悪い。どうせ断るなら目を背けておくべきだし、イニシャルはその余地を残すのが目的だとも考えられる。――誰が差出人であったとき、どう答えるか。そこは決めときなさい」


 明音は、少し不快になるような廊下の熱気を感じつつ、遠くにセミの声を聞く。


 思い出すのは中学時代。人間関係や学生生活といったものに鬱屈とした悪感情を宿していた頃。当時の自分であれば差し出された恋愛感情から目を背けることに抵抗は無かっただろう。だが、今はそこまで人の気持ちを無視できず、何より、手紙をくれたのは大切な人達の誰かだ。


 明音は階段を降りながら、真剣な眼差しで踊り場のガラスの向こうに夏景色を見る。


「達子はさ、私の中学時代の話を知ってるでしょ?」


 話した覚えは無いが、彼女ほどの情報通が知らない道理もないだろう。この東陽高等学校にも、何名かは明音と同じ中学を卒業した生徒も居るのだから。


 彼女は唇をきゅっと引き結んで明音の顔を確かめた後、頷いた。


「誰かのいじめを庇っていじめの標的になった。問題解決後、孤立した」

「私は自分が可哀想で悲劇的な人間だとは思わないけど、その時、そのまま、誰からも理不尽との向き合い方を教えてもらえなかったら、こうして呑気にここを歩く私は居なかったと思う。優しい人達に助けてもらったから、ここに居る訳で」


 達子は、珍しく穏やかな微笑みを浮かべながら、少しだけ茶化すように眉を上げた。


「それが、アンタの『お友達』?」

「うん。だから――差出人が三人の中の誰であっても、私は想いを受け入れるつもり」


 昇降口で靴箱を開けると、何も置かれていない外靴があった。


 そこに、自分が誰かの感情を受領したという事実を再認識しながら靴を履き替える。


「それは、義務感の類?」

「そう思われる話し方をしたけど、それだけじゃないよ」


 土間に革靴を置いて足を通した明音は、周囲の生徒達に聞こえないよう声を潜め、照れ笑いを浮かべながら「内緒だよ?」と鼻先に指を一つ立てる。シー、とジェスチャーをした。


「……三人とも、女の子として好きなんだ。だから今、ちょっと嬉しい」


 聞いた達子は驚きを示す様に目を丸くした後、そっとそれを閉じ、とても愉快そうに口元を緩めて肩を竦めた。「あっそ」と素っ気ない言葉に反して、表情は楽しそうだ。


「本当に私なんかを好きになる人が居るのか、とは思うけどね」

「根拠のある夢なら、見た方がお得でしょ」

「うん、私もそう思う」


 昇降口を一歩外に出た途端、熱気が肌を襲う。頬の火照りを夏のせいにした。


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