scene 13. 躰と心と
浅い眠りだったのかもしれない。なにやら夢をみていたような気がする。そうだ、ばらばらと激しい雨が降っていて、それがぴたりと止んで――などと思いながら、ルカはゆっくりと目を開けた。
部屋のなかは暗く、カーテンと壁の僅かな隙間にも光が忍びこんでいる様子はない。が、真っ暗闇というわけでもなく、どうやら夜明けと呼ぶにはやや早いくらいの時間らしかった。半身を起こして手を伸ばし、サイドテーブルに置いたスマートフォンを手に取る。ディスプレイの眩しさに目を細めつつ確かめた時刻は四時半過ぎで、変な時間に目が覚めてしまったなとルカはスマートフォンを持ったまま、再びベッドに仰向けに寝転んだ。
そのときだった。きぃ、ぱたん、とドアを開け閉めする音が耳に届いた。
テディ、とルカは直感的にそう思った。隣の部屋はテディだが、反対側は一室空けてその向こうにドリュー、斜め向かいの部屋はユーリと、いずれのドアの音が聞こえても不思議ではない。だが、ルカにはわかった。こんな時間に部屋をでるのはテディだろうと、そして、向かうのが誰の部屋かも。
ルカはベッドから出るとドアに近づき、そっと鍵を解除した。そして静かに内開きのドアを開け、廊下の先に見えるシルエットを覗き見た。
やはりテディだ。テディは廊下の突き当りにあるドアの前に立っていた。ゾルトの部屋のドアである。
ルカは開けたドアをゆっくりと閉め――ほんの僅かな隙間を残して手を止め、壁に背をつけた。こんこん、と微かなノックの音が聞こえてくる。それが三回繰り返され、やがてドアの開く音とともに掠れたような忍び声が「テオ?」と応じた。
ロンドンでよく利用するラグジュアリーなホテルのように、廊下に深々とした絨毯が敷きつめられていない所為だろうか。周囲が静かなこともあり、抑えた話し声も充分に聞き取れる。ルカはそのまま息を潜め、耳を澄ませた。
「……どうした、こんな時間に」
「ここで内緒話する気はないよ。中で――」
「待て。なんのつもりだ? 話なら朝聞く。誤解を招くようなことをするんじゃない、部屋に戻れ」
「……困るんだよ……、そういうところだよね、たぶん」
「困る?」
暫しの間があった。落ちた静けさに、呼吸の音さえ響きそうな気がして、ルカは大きく口を開けゆっくりと息を吐いた。そして、再び聞こえたその言葉にはっとする。
「――恋してるって云われたんだ」
「え?」
「ルカにさ。俺は、あんたのことが好きなんだってさ。でも、そんなわけないじゃない? そんなの……ありえないよ。困るんだ。あんたは昔、俺を買っただけの、大勢の男のなかのひとりに過ぎないんだよ、そうだろ?」
「……なにが云いたい」
聞きながら、ルカは眉根を寄せた。
「だからもう、そんな行きずりの立ちんぼをまともに扱うとか、優しくするとかありえないことしないで。……うん、これもたぶん勘違いでさ、あんたはきっと誰にでも優しいんだよね。こんなふうに再会してもさ、昔のことを事細かに云いふらしてやるとかって脅迫してくるような奴ならよかったのかもね。でも、あんたはほんとに善い人だった。それじゃ困るんだ……ねえ、なんにも考えないで、もう一度、俺を抱いて。他のどうでもいい男と同じところまで堕ちてきてよ」
その言葉に、ルカは天井を仰いだ。
「……あのときと同じだ」
「なにが?」
「覚えてないか。おまえは、あのときこう云ったんだ……酷くしてくれなきゃ困る、ってな」
「……俺、そんなこと云った?」
「ああ。はっきりと憶えてる」
ゾルトは優しいだけじゃない、真っ当な、父親のような包容力のある男だ。他の、ただ金を払って己の欲望を満たそうとするだけの輩とは違っていたのだろう。愛情を注がれることに慣れていなかったテディが、その違いについ途惑ってしまったとしても不思議ではない。
だけど、昔も今もテディには自分がいる。これはきっと、テディなりに考えた気持ちの区切りのつけ方なのだろう。しかし。
――ルカは迷った。俺は今すぐここから飛びだしていって、テディの腕を引っ掴み、部屋に連れ戻すべきじゃないのか?
そうだ、きっとユーリならそうするだろう。しかし、いま止めたら――躰だけの関係なのだとあらためて刻みこまなければ、心のほうを奪われたままになるような気もした。当然だ、それこそがテディの考えていることなのだから。
いずれにせよ、ルカは動けなかった。動くことができないまま、ふたりの会話を聞き続けた。
「そんなことどうでもいいからさ、いいかげん中に入れてよ。誰か起きてきちゃったらまずいじゃない」
「……俺に、もう一度おまえを買えって、そう云うのか」
「代金は先払いでもらってる」
床に散らばったミントブルーが、瞼の裏に映る。息ができない。胸が圧し潰されそうに苦しい。この身を斬り刻まれ、全身から血を流しているような気がした。体温は下がり、しかし胸の中心でなにかが燃えさかっている。吐きそうだった。
「……入れ」
ドアを閉める気配。それきり聞こえない話し声。
ルカは壁に背中をつけたまま両手で髪を掻きあげ、ずるずると床にへたりこんだ。
* * *
翌朝。ゾルトはうっかり寝過ごしてしまったと云って朝食の時間に遅れて現れた。帰り支度もあるので、もう今日はコーヒーだけでいいと云い、飲んでいるあいだにサンドウィッチを包んでくれたイェリンコヴァ夫人に恐縮しながらダイニングを後にする。
あれから一睡もできなかったルカは食欲もなく、ライスと苺入りのヨーグルトを食べる程度だった。目敏く「どうしたの?」と声をかけてきたロニーに「やっと明日には帰れると思ったら、なんだか疲れがでてさ」と、苦笑混じりに答える。
テディは普段と変わらない様子で、黙々と食事を続けていた。顔色が悪いということもなく、食欲もふつうにあるようだった。ゾルトを気にする素振りもなく、昨日までのテディと比べると、まるで憑き物が落ちたようだった。つまり、昨夜の彼の行動は正解だったということか――無論、そうでなくては困るが。
そして、朝食を終えて少し経った頃。再びゾルトがラウンジに顔を出した。これからロニーの車に同乗してプラハに立ち寄り、その後またミラノへ向かうという。
荷物をフィアットに積み込むと、ゾルトは勢揃いしたルカたち一同と、ひとりひとり挨拶を交わした。
「ありがとう、おかげさまでいい仕事ができた」
「こちらこそ世話になった。仕上がった写真が楽しみだ」
「スケジュールが合ったら、そのうちライヴにもぜひ来てくださいね!」
「もちろん。ミルクティーのレシピもありがとう。帰ったら早速試してみるよ」
「あー……、俺、あんたのことをちょっと誤解してて……、あんまり話もしなかったが、あの写真は自分でも気に入ってる。これからも応援してるよ」
「ありがとう、嬉しいよ。ブックレットのほうのはドラマーとして最高にかっこいい瞬間を撮ったつもりだから、楽しみにしていて」
一言ずつ交わし、握手をするゾルトが自分を見る。ルカは適当にうわべだけの言葉と営業用スマイルで済ませようと考えていたにも拘わらず、言葉がでてこず目を逸らしてしまった。
この人は悪くない、それはわかっている。『俺は君に一発どうぞと頬を差しだすべき?』――そんなことも云われたなとふと思いだした。殴っておけばよかった。いま殴る? 否、テディはもう気持ちにけりをつけたという顔をしている。殴ってどうする、なんの意味もないか、むしろ逆効果だ――そんなことが、頭のなかでぐるぐると渦巻いていた。
変に思われる、なにか云わなければ……と、ようやくルカが顔をあげると。
「サーカスでは驚かせて悪かったね。ほんとは、君に王の扮装をさせたかったんだ。マントをつけて、王冠をかぶってね。でもそれだと賛否両論おこりそうなんで、ああしたんだ。……想像してたよりも風格が滲みでてて……ライオンが仔猫に見えたよ。いい写真になったと思う」
「ああ……よく人に慣れてたし、撫でてみたらただのでかい猫だなと思って……」
先にゾルトに話しかけられ、ついふつうに答えてしまった。少々癪に感じないではなかったが、握手に応えないわけにもいかず、反射的に手を差しだす。冷たく乾いた手ががしっと握ってきた。ルカはなんとか笑みを浮かべ、ゾルトと目を合わせた。
すると、ゾルトはルカの背中に手をまわし、ハグをしてきた。
「テオと――テディと末永く、幸せに」
耳打ちされたその言葉に、ルカはちくしょう、まいったとハグを返した。ゾルトのことを、自分は憎みも恨みもできない。むしろ、この人でよかったと思うべきだ。
そして最後、ルカの腕をぽんと叩いて離れたあと、ゾルトがテディと向かいあった。テディは落ち着いた表情で薄く笑みを浮かべ、「おつかれさま」と手を差しだした。
「あれ、そういえばテディだけ写真、まだなんですよね?」
不意にジェシがそう云い、そういえばそうだった、とルカも思いだした。ふたりはもう一度逢う機会があるのだ。
しかし、もう気にする必要はないだろう。と、ルカがじっとテディの背中を見つめていると――
「ああ、実はもう撮ったんだ。突然シャッターチャンスに出くわしてね。――だから、企画書を出す間がなかったんだけど、かまわないかな」
ロニーに向いてゾルトがそう云った。ロニーはいつ? と少し驚いた顔をしたが、「そうなの? ……ええ、どうせ仕上がった作品の確認はさせてもらうんだし、なにかあったらそのときに」と頷いた。ルカもいったいいつ撮ったのだろうと思ったが――まさかな、という想像しか浮かばず、それ以上考えることはやめておいた。
「じゃ、テディ。あんまり無茶はしないで、躰に気をつけて。仲間を困らせないように、しっかりな」
「ゾルトもね」
そうして全員と挨拶を交わしたゾルトは、ロニーとフィアットに乗りこんだ。
大草原のような雄大な景色のなかで小さくなっていく、真っ白く輝く車を皆で見送ったあと。
別館に戻ろうとしていたルカたち皆を、テディが中庭の中心で引き留めた。
「ねえ、最後に一曲、仕上げたいのがあるんだけど……付き合ってもらえるかな」
カリスマ的ミュージシャンの貌に戻ったテディに、ルカは気分が高揚するのを感じながら「よし、やろう」と答え、スタジオへと向かった。
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